――さぁ、祈りの時間だよ。


 暗いグラウンド。湿った地面に足跡が一つ、二つ。増えていく間にも闇は、
その一つ一つをかき消す。ちらほらと舞い落ちる、季節外れの雪が暗い地面
を覆っていくさまは、存在するのか分からない神が、これから起きるすべての
行為を赦しているようにも思えた。
 息を切らして、重い皮袋を運ぶ。
 引きずらなかったのはせめてもの敬意――否。そんなものを払う筈がない。
 袋が破けてしまわないよう、そうしただけだった。
 酷く重い皮袋を抱え、グラウンドの真ん中へと佇む。
 明かりの一つもない校舎は牢獄のよう。
 これから起きる出来事には相応しい場所だった。
 影は囁くように、唇だけで紡ぐ。


「さぁ……祈りの、時間だよ……」


 掠れた声は闇に消える。





 居間のテレビは随分と古い。
 デジタルデジタルと世間が騒いでる中、懸命に働いている御年十五年にな
る、いわば親友ともいえるテレビを誰が無碍にできようか。
 これだけは妻に言われても譲れない。
 男は常々思っていた。
 そんなことを察してか、妻はテレビのことには一切触れず、今度は新しい洗
濯機が欲しいと言い出した。今現在、使っている洗濯機はまだ購入から二年
しか経ってない。
 なのにマイナスイオンがとうとか言い出して、欲しがっている。
 今朝なんてわざわざ安売りのチラシを見つけてきたくらいだ。
 女の執念は恐ろしい。
 出掛けに、
「次の日曜日は一緒に家電見に行きましょう」
 なんて笑いながら言うのだ。
 景気のよろしくない今日、残業もほぼサービスになってしまったり、もしくは
無理矢理にでも帰らされたりしている状態で、同僚の首がとぶのを見送ったり
もした。
 首の皮一枚で繋がっているのだから、せめて貯蓄を増やしたいと思ってい
るのに。
 専業で主婦な妻は、大きな腹を抱えているというのに元気良く近所のデパー
トからスーパーまでを巡り巡って、色んな物を仕入れてくる。
 正直言うと少しだけ浪費を勘弁して欲しい。
「こんなで子供育てられるのかなぁ……」
 現在のことだけでなく、未来のことまで考えると不安になってしまう男心をも
う少しだけ、ほんとに少しでいいから理解してもらいたい。
 ――もっとも、そんなことは口が裂けても言えないが。
 妻には、いつまでもカッコいい旦那。と思われたい。
 これだって立派な男心だ。
 彼はふん、と鼻息荒く電車へと乗り込んだ。
 ラッシュを避けた時間ではあるが、車内にはそれなりに人がいる。
 学生から社会人。ついでにどこかへ遊びに行くと思われるカップルまで。多
種多様な人間模様を観察する気はなかったので、男はとっとと鞄に突っ込ん
だ携帯を取り出し、日課でもあるニュースをチェックし始めた。
 定額とはいいものだとしみじみ思う。
 何見たって同じ金額。ただし、エロサイトには注意しよう。
 騙されると晩酌ができなくなる。
 妻にバレて赤っ恥をかく。それでも寛大な妻に惚れ直す。ので雨降って地か
たまる。
「ねえねえ聞いた? 朝のニュース」
「ケイコ、ニュースなんて見てたの?」
「見てないよ。聞いてたの。てか聞いてよ!」
「はいはい。話せばいいじゃない」
「なんかね、凄い事件あったらしいよ」
「要点話してよ。長い話きらーい」
「こらえ性ないと試験落とすよ」
「アンタにどんな権限あるのよ」
「試験前に茶呑ます。ママの愛用センナ茶」
「ちょ、シャレにならないって!」
 近くの女子高生は前に進まない会話を繰り返している。
 その間にも目は携帯の小さな画面に表示される、文字を追っていく。表示サ
イズは中くらいで、これくらいだと目が疲れない状態で長時間ニュースを眺め
続けられる。
 ――本当の所はえっちな小説を読んだりしているが。
 チカチカとデコレーションされた画面が踊る中、嫌なタイトルがずらりと並ぶ
今朝のニュースの一覧へと目をやる。
 目が文字を追い、脳が文字を言葉として理解する。
 言葉が情報として処理されるころ、にごった女子高生の声が響いた。

「霧中で男の死体発見だってさ」

 霧中。危機覚えのありすぎる名前に男は息を呑んだ。

「え。マジ霧中? アタシの兄貴そこ行ってたよ」
「うん。マジマジ! なんか遊びに来た子たちが見付けたって」
「てか廃校じゃね?」
「うん。ふほー侵入で怒られたらしい」
「へー」

 二年前に廃校になった中学校。
 廃校の理由は生徒が集まらない。だったが、本当の頃は違うのだろう。
 幽霊の噂から呪いの噂まで、なんでもある中学校だった。
 ――本当に、なんだってあった。

「被害者の身元……は」
 無意識の内にニュースを読み上げていた。
 黒い淡々とした文字が記すのは、冷たいまでの現実。
 雪の下から発見された遺体のスーツ。その内ポケットに入っていた免許証。
そこから導き出された身元は、中学校の名前と同様に酷く懐かしい響きをも
っていた。
「笹川……圭介……ケースケ……?」
 男は名前を繰り返す。
 同姓同名であって欲しい。
 ただの偶然の一致だと。
 そんなテレビドラマのようなことはなくていい。
 身の回りに起きなくていい。
 強く願うも、携帯画面に表示される着信画像。そして表示される名前に望み
は絶たれた。
「……はい」
 マナー違反とは分かっているが、出なくはいけない。出なくては。
 向かいに座る老婦人の射るような視線から目を逸らし、
「こんな時間にどうした? 電車の中だぞ……?」
「だってね、あなた!」
 感情的になった妻の声。
「お前な。お腹に子供がいるんだ……興奮するな」
「何言ってるの! 笹川君が亡くなったのよ!?
 さっき、笹川君のご両親からも連絡が――」
 今一番聞きたくない言葉だった。
 笹川と妻とは中学時代の同級生だった。だからこその繋がりが、痛い。現
実を突きつけられて、吐きだしたくなる。
 食べたものでも、血でも、なんでもいいから吐きだしたかった。
 そうでなければ破裂してしまう。
 息が詰まる。
「わるい。また電話する」
 短く告げ、通話を切る。そしてそのまま電源を落とした。
 息が詰まる。
 苦しい。
「……誰が……なんで……そんなこと」
 掠れた声で、小さく呟くのがやっとだった。
 煩い電車はノイズを撒き散らして前も後ろも分からない場所へと連れて行く

 いつの間にか向かいに座っていた老婦人も、にぎやかな女子高生もいなく
なっていた。まばらに残った乗客は、思い思いの行動をとっており、誰一人と
してうな垂れる男に気がつくことなかった。
 流れていく景色は見覚えのないもの。
 会社に辿り着ける、辿り着こうとなんて思わなかった。
 何も考えられない頭を抱え、時間だけが過ぎていく。



 霧ヶ崎第三中学校の噂。
 雪の下には死体が埋まってる。
 死体は起き上がって登校している。
 人を殺した男の子供は死体。




「おい」
 背後からかけられた声に男は軽く振り返った。
「やっぱりか」
 短く告げ、駆け寄ってきたのは、
「遠藤……」
 笹川や妻と同じく、中学時代の同級生だった。当時とあまり印象が変わらな
いのは、坊主のままだからかもしれない。
 本来ならば再会を喜ぶべきだろうが、場所と状況が悪すぎた。
 同窓会よりも前に、こんな形で会うことになるなんて。
「驚いたな」
「あぁ、そうだな……」
「……あのさ。久保田……」
 見た目の変わらない同級生は言いづらそうに声を潜めた。
「覚えてるか? タイムカプセル」
「……」
 男、久保田は息を呑んだ。
 タイムカプセル。当時の子供なら、一度は試したことがあるはずだった。宝
物を入れて、埋める。そして数年後に掘り出すという至って単純でいて、どこ
か儀式じみた遊びを。
 掘り出すその時までの友情を誓い、大人へと近づくための記念碑。
 一般的にはそういった意味合いだろう。

 けど、違う。

 少なくとも彼らにとっては違う意味合いを持っていた。
 隠語と言うべきだろうか。当時の仲間にしか分からない内容。当時の仲間で
共有し続けなければいけない出来事。
 抱え続ける、黒いもの。
 なぜ、このタイミングで聞くのか分からなかった。
 確認したかったのか?
 裏切っていないかを。妻に話していないかを。
「疑ってるのか? 遠藤」
 低く抑えた声に遠藤の肩が跳ねた。
「違うって。そんなじゃない」
「じゃあなんだよ」
 逃げ腰で言い訳をしているように見えた。
 場所が場所でなければ、事態が事態でなければ、きっと頬の一つは殴って
いた。
「……笹川の死体よう……腹が……」
 歯切れが悪い。
「腹が、どうした」
 急かすように問うと、遠藤は意を決したか真っ直ぐにこちらへと目を向けた。
「笹川の死体には人形が詰まってたらしい。
 赤いマジックで血が書いてあって、首に縄跳びが引っかかってる人形がさ…
…」
「……それ、って……」
 霧中の噂が頭を過ぎる。
 噂は噂。現実にはありえない。
 分かっていても、込み上げる吐き気を抑えることができなかった。
「わるい……ッ」
 遠藤へと背を向け、駆け出す。その背に投げかけられるのは、
「気を付けろ。お前も……例外じゃないからな」
 胸に突き刺さる一言だった。
 そんなことは分かっていた。
 分かりきっていたことだった。


 霧ヶ崎第三中学校の噂。
 ある生徒は二人いる。
 ある生徒は超能力が使えて心が読める。
 ある生徒は不死身。

 ありえない噂を信じた子供が罪を犯した。



「大丈夫?」
 トイレから出てくると、妻が青白い顔で待っていた。
「あぁ……」
 差し出されたハンカチを受け取り、口元を拭う。まだ気持ち悪い。心臓が嫌
な音を立てていた。気を紛らわせようと、妻へと目をやっても現実しか見えな
いようだった。
 泣き腫らした目と、涙の痕が残る頬。
「お前、笹川と仲良かったのか……?」
 ほんの好奇心からの質問だった。
「最近ね。子供のことで相談してたのよ」
「そう言えば、笹川のところは三人だったか……大変だな、奥さんも」
「ううん。誰もいないわ」
「え?」
「いなくなっちゃったのよ。
 奥さん、子供さん連れて逃げちゃったの……」
「なんで……」
「分からない。ただ何日だか前に突然出て行っちゃったんですって」
 浮気でもないだろう。笹川はそんな器用な性格ではなかったはずだ。
 ギャンブルもしない、酒も呑まない、煙草も吸わない。
 優等生みたいな男だった。いい企業に就職して、これからは子供達をいい
学校に入れると張り切っていたのに。
「人生って……わからないよな」
「そうね……」
 小さく同意する妻の肩を抱き寄せ、
「お前は……俺より生きてくれよ」
 請うように告げた。
 はにかむように笑う妻は、白い手で優しく頬を撫でてくれた。
「女性の平均寿命の方が長いのよ。
 むしろ私はあなたが凄く早く、先に死んじゃうのが不安だわ」
「……お前を置いてなんていかない……」
 口の中で呟いた言葉。
 それが聞こえた妻は、恥ずかしそうに笑っていた。
 お腹の大きな妻を見る度に思う。
 噂は噂でしかない。
 けれど時に不安にもなる。
 因果応報。
 その言葉を理解したそのときからずっと。
 不安は全身に圧し掛かっていた。