――さぁ、祈りの時間だよ。


 懺悔せよ。
 この庭にて懺悔せよ。
 深き罪を吐き出し懺悔せよ。
 赦しを請う神は未だ母体にて眠る日々。
 懺悔せよ。
 生まれし神に懺悔せよ。
 忌まわしき罪人よ懺悔せよ。
 血塗れた罪を贖うならば、
 愛したものよりの口付けが与えられよう。
 断末魔の祈りを捧げよ。


 
 木ノ下に捧げよ。
 断末魔の懺悔を。
 さくらに懺悔を。
 きのしたへ懺悔を。



 気を付けろ。
 遠藤は言った。
 その意味は痛いほど理解している。
 人形の詰められた腹。死んだ笹川に刻まれた言葉。
 単語でしかないそれは、意味を知るものに重く圧し掛かる。
「懺悔……!」
 背中に大きく、ナイフで刻まれた文字。警察はその意味を調べるために当
時の同級生に聞き込みを行っているらしい。遠藤の家には三日前に訪れたら
しい。
 じきにこの家にも来ることだろう。
 会社は事件が落ち着くまで出社しなくていい。と言ってくれた。
 本音を言ってしまえば、事件の被害者と交友関係にあった人間と関わりたく
ない、というものもあるのだろうが。それでも今の状態では、助かったとしか言
いようがない。
 どこに殺人犯が潜んでいるか分からないなか、身重の妻を一人にしておけ
なかった。二人で食事をとり、二人で買い物に行く。常に一緒に行動すること
が日課になりつつあった。
 その間にもお腹の子は成長し、事件が一向に解決に向かわないまま、予定
日まで一ヶ月を切っていた。
「あと一ヶ月かー……」
 ぼんやりと大きくなったお腹をさする。
「女の子って話だけど、どっちに似てるのかしらね」
「お前に似てるといいな」
「あら。なんで?」
 クスクスと笑う妻へと寄り添い、
「お前が二人いたら……癒される」
「あら。私一人じゃ癒されないの?」
「二乗でもっと癒される……」
 妻の笑い声が聞こえる。
 目を閉じて、腹の中へと耳を澄ました。
 元気に育っている我が子。生きている子供は、噂がただの噂であることを再
確認させてくれた。子供達の間に流れていた噂は、噂にしか過ぎない。
 現実にそんなことはありえない。
 笹川の件だって、偶然に決まっている。
 そう、決め付けたい気持ちが半分。思いこみたいのが半分。
 どこにも根拠のない確信は、すぐに崩れてしまう。
「テレビ、見ようか」
「そうね」
 手元に置いていたリモコンで電源を入れる。最近、少しだけ調子の悪いテレ
ビは雑音と共に見覚えのある風景を映し出した。
「霧中?」
 妻が呟く。
 つられて画面を凝視すると、そこには確かにライトアップされた霧中が映っ
ていた。テロップはあの事件から二ヶ月、犯人は今。となっている。
 もう二ヶ月が過ぎたのかと驚く一方、画面の片隅に映りこんでいる何かから
目が離せなかった。
 鉄棒に何かがぶら下がっている。
 シルエットだけならば大きなてるてる坊主にも見えるが――

「では実際の現場へっ……ぃぎゃああああああぁぁぁっ!!!!!」

 テレビのリポーターが絶叫を上げた。
 同時にカメラが激しく揺れ、砂煙を上げて地面だけを映した。
 聞こえてくるのはざわめき。
 別のカメラに切り替えたか、鉄棒が再び映りこむ。
「どうしました。なにがありましか」
 スタジオでニュースを読み上げていたキャスターが声を張り上げた。
 返すのは震えた声のリポーター。
 顔は青白く、腰が抜けたのか砂場に座りこんだまま震えていた。
「あ、あぁ、あああああっ」
 震える指が指すのは、鉄棒。
「……遠藤君?」
 隣で妻が呟いた。
「……え……んど……」
 同じ言葉を続ける。
 テルテル坊主のように揺れていたのは、カメラに納まった途端にモザイクが
かけられたのは、間違いなく遠藤だった。
 坊主頭につなぎ。
 何の仕事をしているのか即座に答えられない外見の男。
 中学時代と印象の変わらない友人は、ゆらゆらと鉄棒に吊るされて揺れて
いた。
「あ、あ。以前の事件と同じように……お、お、腹部に人形が詰められていま
す。
 ……ふ、ふ、ふ……復讐。と……またナイフで書いてあります」
 プロ根性からか必死にリポートを続けている。
「ふくしゅう……?」
 繰り返す妻からリモコンを奪い取った。
「あ」
「見るなっ!!」
 乱暴に電源を切ると、そのままリモコンをテレビへと投げつけた。
 鈍い音を立てて床に落ちるリモコン。突然の出来事に、部屋は静寂に包ま
れていた。
 彼の行動が理解できないといわんばかりに首を傾げている妻。
 本当ならばフォローを入れるべきだった。だが、その言葉が思いつかないほ
どに頭が混乱していた。
 偶然ではなかった。
 笹川が殺されたのは偶然ではなかった。
 笹川の懺悔。
 遠藤の復讐。
 腹に詰められた人形。
 埋められたタイムカプセル。
 吊るされたてるてる坊主。
 導き出される答えを、彼は知っていた。
「……なぁ」
「なあに?」
 首を傾げている妻の両肩を掴み、真っ直ぐに目を見た。
「引っ越そうか。こんな物騒な場所じゃあ子供が育てられない」
 逃げ出したい。
 これが本音。
 妻はしばし考え込むような仕草をし、やがて小さく頷いた。
「こんなに続くと怖いものね」
「あぁ。お前は、俺が……まもるから」
「ふふ……」
 白い手が頬を撫でる。
「ありがとう。あなた」
 ほのかに薫る不思議な香り。
 何の匂いだろう。気にはなったが、考えることも、質問する気も起きなかった

 頭の中が真っ白になる中で、ただ明日からの行動手順ばかりがシミュレート
された。


 
 中学の途中から妻と知り合った。
 いつでもついてきて、笑っている妻が好きだった。
 高校にはいる頃に告白をした。
 妻は喜んでくれた。三年間つきあった。
 大学にはいり、卒業してからプロポーズをした。
 妻は喜んで承諾してくれた。
 ずっとこのひとを守って生きていこうと誓った。
 少年であった日々の罪から逃れるかのように。


 そういえば、罪を犯してからだった。
 妻が話し掛けてくる様になったのは。

 結婚だというのに、妻は家族にあわせてくれなかった。
 時間が合わないから無理と笑っていた。
 一度たりとも家には連れていってくれなかった。
 
 そういえば、妻の何を知っているのだろう。
 そういえば、妻の何を知っていたのだろう。



 運転席と助手席。
 二人を阻むのはギアだけ。
 シートベルトを緩める妻を見守り、引越し先へと走り出す。
 前を行くのは荷物の運送を頼んだ引越し業者。運転がやや荒いのが気にな
るが、荷物は無事だろう。そう思わせるような過剰な包装をしてくれた。
 静かな車内にはラジオが響いている。
 テンションの高い喋りは、普段のドライブなら気にならないものの、こういっ
た沈んだ気分の時は腹立たしいもの以外のなにものでもなかった。
「ラジオきるな」
「うん。いいよ」
 軽く断ると妻は笑って承諾してくれた。
 そして、再びの静寂。
 引越し先まで二時間。
 そわそわと妻が鞄を漁る。
「どうしたんだ?」
 忘れ物したのかと聞いてみると、妻はいつもと変わらない笑顔を浮かべてい
た。
 赤い唇がゆっくりと紡ぐのは。
「タイムカプセルは見つかった?」
「…………」
 誰が話した。
 そう質問するよりも前に、
「私ね。ずっと黙ってたことがあるのー」
 いつもと同じテンポで妻は言葉を続けた。
「私の両親って変わってて、生まれてくる子供が双子だって分かった途端に離
婚を決意したのよ。どっちかを引き取って、大人になった会わせるって。変な
こと考えたの。
 そして生まれたのは二卵性の女の子。全然似てない」
 何を話してるか分からなかった。
 同級生に双子いるなんて初耳だった。
 会わせてくれれば良かったのに、と口を開こうとした瞬間に息を呑む。
「私の旧姓が佐倉。双子の妹が木ノ下」
 鞄の中から包丁。
 笑ったままの妻が息を吐く。
「木ノ下みずえ。
 一年の時に行方不明になって、一年後にグラウンドで見つかったのよね。
 タイムカプセルって、みずえのことなんだってね」
「だれが……そんな、ことを」
 シートベルトを切る。
 自由になった体で、腹を撫でながら笑っていた。
「笹川君がね、酔った勢いで話してくれたの。
 奥さんに逃げられたのは、タイムカプセルの話をしたから。
 何で逃げるんだよ。根性なしだな俺の嫁は、ってクダまいてたから。
 せっかくだから体験させてあげちゃった。タイムカプセル。
 遠藤君は頭がいいよね。字の筆跡で私がやったって分かったんだって。
 だからてるてる坊主を体験させてあげた。
 懐かしいでしょ? 両方とも……
 あ、お腹の人形はね。みずえの気に入ってたのと同じ物なの。
 復刻版ていうのよ。
 人形は昔の物が再現されて、また売り出されるけど――」
 包丁が振り上げられる。
「みずえは復刻されないのよ。
 私が似てればよかったけど、似てないから。
 年々、忘れていくのよ。
 みずえの声も、好物も、顔だって。
 耐えられないわ。
 タイムカプセルを作った張本人たちが生きてるのに。
 幸せになるなんて耐えられないわ」
 いつ振り下ろされるのかと思った。
 あの二人と同じように殺されるのだと悟った。
 落ち着いた妻の眼差しは正気を保っている。
 こんな状況にあっても、妻の両目は買い物をしているときと何も変わらなか
った。
 表情も声色もすべてが平時と同じ。
 恐怖は沸かなかった。
 ただ、
「……最初から……復讐のために俺に近づいたのか?
 俺を殺すために、近づいたのか?」
 罪を犯したときとは違う胸の痛みに襲われた。
「……少し、違うわ」
 目を伏せて答える。ゆっくりと降ろした包丁を見つめ、言葉を探している時と
同じように唇を尖らせる。
「なにが、違う?」
「……あなたを殺すために近づいたわけじゃない」
 ――愛されていた、と思いたかった。
 顔を上げた妻は、違和感を感じるほどの明るい笑顔を浮かべていた。
「あなたが私から大切なものを奪ったみたいに、あなたの大切な物を奪おうと
思ったの。
 大切の物を調べるなら近くでしょ?
 共犯者も、妻も、子供も、全部私が握ってるのよ」
 包丁の切っ先が腹へと向けられる。
 浮かんだ笑顔は徐々に消え、残るのは今にも泣き出しそうな顔だった。
「や、やめろ……やめてくれ。やめてくれっ!!」
 思い切り叫んだ。
 その様子に妻は笑うばかり。
 嬉しそうに、楽しそうに。
「ありがとう」
「お前がいないと俺はっ……」
 心底幸せそうに微笑む。

「私に依存してくれて、ありがとう」

 細い体にまずは一突き。
 ずるりと抜ける包丁は赤黒く染まっていた。
 迷うことなく次は腹へ。

「これが大事な人を失う痛みよ。あなた」

 何度も、何度も、突き刺す。
 血が、水が、車の中を満たした。
 呼吸音が呼吸音に聞こえなくなる。
 ゆっくりと動かなくなった妻は、腹を撫でて呟いた。

「ヒトゴロシの子は、死体。
 死体は登校している。
 死体の正体は双子
 みずえ、お姉ちゃんやったよ。
 みずえ、みずえ……
 みずえにお祈りの時間だよ……
 そう、お祈りの………………」


 ずたずたになった皮から、へその緒で母体と繋がったままの赤子が転がり
落ちた。
 泣く気配はどこにもない。
 静かな車内には血の臭いが充満していた。
 何も、聞こえなかった。

 何も。