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 エリン=ファウスト。
 史上最悪のアルケミスト。
 命を弄ぶホムンクルスを作成したとして国から追われる犯罪者。
 現在なおも逃亡中。
 捕らえたものには莫大な報奨金を与える。

 その際の生死は問わない。

 エリン=ファウストは存在してはならない者である。




 夕食はよく煮込んだシチューを作っていた。夫の好きなジャガイモの
たくさん入った温かいシチュー。サラダはとれたての生野菜をふんだん
に使って、いつも夫が世話している家庭菜園を褒めちぎろうと思っていた。
 ――あなたのおかげでこんなに美味しい夕食ができたのよ――
 激務を終えて帰宅する夫はどんな顔で笑ってくれるだろうか。
 優しく抱き締めて、キスをしてくれるだろうか。
 なかなか子供が出来ない自分にも愛想を尽かさない優しい夫の姿を思
い浮かべ、彼女は穏やかな笑みを浮かべた。最近は体の調子がいい。結
婚して二年、ようやく研究が一息ついて休めたからだろうか。
 今ならば子供を望める気がする。
 体に悪い薬品にはしばらく触れずに、ただただ宿るはずの命を愛でて
日々を過ごすの悪くない。やがて生まれた嬰児と夫だけを愛して、幸せ
な日常をおくるのも悪くない。
 四季の花を夫と、子と眺める幸せを知るのも悪くない――悪くない。
 けれどけれど。
「ファウストさん、大変だよ!」
 終わりの足音はいつだって気付かないままに傍へと忍び寄る。
「国境に不審者が……」
「騎士隊でも多大な犠牲が――」
「――まだ若いのに……」
 声が重なる。
 冷たい柩に横たわる愛しい人の顔を見下ろす。ふつふつと湧き上がる
感情を言葉で説明しようと脳内でどれだけ単語を並べ立てても、どれも
納得できないものばかり。
 事実として認めようとも。
 頭は理解しようとも。
 もっともっと深い部分が拒絶する。
 冷たく、硬くなった肉体を認めない。
 既に失われた二十一グラムが肉体に留まっているとどこかで考えてしまう。
 ありえない。ありえるはずがない。
 頭の中で声が聞こえる。
 きっとこれが正しい。けれど、それを認めることは出来ない。
 失いたくない。失っていいことがあるか。
「……フリードリヒ……」
 暗い部屋で蹲っていると、優しい声が降り注いだ。
「どうしたんだい、エリン?」
 顔をあげれば、そこには優しい夫の姿。
 出かけたときと変わらない笑顔で立っている。
「どこへ行ってたの?」
「パラディソスへ……なんて言ったら怒られるか。
 君は特別そういう概念を大切にするからね」
 苦笑を浮かべて頭を撫でる。
 夫と同じ色をした金色の髪。優しく撫でてくれる手が、指がたまらなく愛し
い。失いたくないものと出会えた喜びと、いつか失ってしまうかもしれないと
いう不安がぶつかる音が響く。
 カツン――聞こえた音は、耳の奥で何度も何度も繰り返される。やめてく
れと嘆く気力もない。
「……フリードリヒ」
「なんだい?」
 このぬくもりが冷たい死肉に変わる前に。
「もう二度とあなたを失いたくない。だから……」
「エリン――」
 首をしめて。
 苦しみを長続きさせないように。
 気道ではない、血管を――――
「エリ……ン?」
 苦しそうに眉を寄せて、震える手を頬に伸ばして。
 穏やかで優しい顔が死んでいくのを眺める。
 大丈夫。大丈夫だからと口の中で呟いて。
「すぐに……作り変えてあげるから」
 血液と、精液と、あなたを象る全ての情報をください。
 暖かい試験管の中で育ててあげる。
 はじめは小さい体かもしれない。けれどすぐに大きくしてあげるから。
 それだけの知識を培ってきたこの頭を最大限に活用するから。
 あなたのためだけに。
 だから今はこの手で死んで。
 死んであなたは生まれ変わる。
 二度と傍を離れない――二十一グラムを逃がしはしない。
「愛してるわ。フリードリヒ」
 頬に触れていた手が床に落ちる。
 物言わぬ骸を見下ろして例えようのない喪失感に叫びたくなった。
 早く、早く作らないと。
 早く。
 消えてしまう。
 二十一グラムが消えてしまう。
 あぁ――違う。違う。
 こんなことを望んでたんじゃない。
 終わりの来る幸せだからこそ刹那の幸福を味わえた。
 喪失感から最大の罪を犯してしまった。
 死後硬直が始まる。
 どうすればいい――どうすれば――




「……また……」
 痛む頭を抑えて身を起こす。通りかかった街道に廃墟があって助かった
――と会話していたのが数時間前。火を起こし、簡易に持ち運べるように
作られた寝具を取り出して眠って。
 そしてあの夢を見た。
 どこまでが現実か。どこまでが夢か。
 自分でも区別がつかないほどに全てがリアルな夢。
 何度見ても慣れることはない。
 あの夢を見る限り何度でも夢の中で夫が死んで、夫を殺すことになる。
そのたびに喪失感と罪悪感にかられることになる。
 例え全てが夢だとしても。
「まだ夜だよ。エリン」
 ふいに聞こえた声にエリンは、吐きかけていた溜め息を思い切り呑んだ。
「フリードリヒ……起きてたの?」
「火の番をしないといけないからね」
 エリンの言葉に返すフリードリヒの横顔は、穏やかに微笑んでいる。夢の
中と同じ、今まで生きてきた中で一番愛した男の顔――
 上司から勧められた娘を断って自分との結婚を決めてくれたときは、嬉し
さのあまり泣いてしまった記憶がある。慌てるフリードリヒとエリンが泣いた
ことに驚く職場の同僚たち。
 ささやかに行われた結婚式は祝福に満ちて。
 幸せの絶頂とはあれを指すのだろうと思った。
 結婚してからの数年間を思い出したエリンは柔らかな笑みを浮かべ、フリー
ドリヒの肩へともたれかかった。
「どうしたの?」
 大きな手が頭を撫でる。
 夫と二人で同じ色をした金色の髪。結婚したときよりも髪を短くしたのは、
旅に不都合と考えたから。出会ったときと同じよう肩口までの髪――積み重
ねてきた思い出が髪を切り落したとて消えるわけではない。
 この色さえあれば、二人の積み重ねた思い出は消えることなんてない。
 誓いの言葉に彼はそう付け加えていた。
「次は……」
 幸せな思い出を振り返っていると、大切なことを忘れそうになる。
 あの幸せな日々を捨てた理由を忘れてしまっては意味がない。
 小さな村を飛び出して、二人で旅に出た理由を。
「次は、どこに行こう」
 ぽつりと呟いたエリンの言葉にフリードリヒは穏やかな声音で答える。
 それは、彼女の内側に芽生える不安の芽を摘み取ってくれる優しい言葉だった。
「エリンの行くところならどこへでも」
「……うん、わかった」
 安堵に満ちたエリンの顔。
 そのままゆっくりと目を閉じて。
 フリードリヒにもたれかかったまま眠りに落ちる。
 静かな寝息を立てているエリンの髪を撫でていたフリードリヒは、薪を数本
焚き火の中へと足した。
 パチパチと弾ける音が聞こえて、紅蓮の炎が揺らめく。
 夜は深く、闇夜に光る星々が視界から消えるまでずいぶんと長いようにも感
じられた。
「おやすみ。エリン」
 その額に口付けて、フリードリヒは青い双眸を細めた。
 優しい夢が見られますように――