家畜の鳴き声がする。酪農をして生計を立てている村なのだろう。エリン
が知っている村や街とは違う匂いがした。
 どこにも感じられない、硫黄も水銀も――体を毒に染めた同業者の姿
も見られない。
 どこから見ても平和なその光景にエリンは息を吐いた。肩にかけた荷
物を地面の上に降ろし、よそから来た旅人――よそ者を珍しそうに見て
いる村人たちへと小さく手を振る。
「ねえねえ、どこから来たの?」
 ボール遊びをしていた幼い少女が近寄ってくる。その少女を静止する
大人の声がないということは、この村はよそ者に偏見がある村ではないらしい。
 ――もっとも。
 安心して村で一泊することを決めた旅人を殺して荷物を奪う――とい
うものの可能性も否定できないので、油断をしないことに越したことはな
い。エリンは近づいてきた少女の頭を撫でた。
「北の方から旅してきたの。
 この先の国境を越えようと思ってね」
「そうなの?」
 首を傾げて笑う少女。
 愛らしい笑顔を見て微笑むエリン。
 その傍らで荷物を持っていたフリードリヒは、少しだけ顔を顰めてエリン
の背中をつついた。
「エリン……」
「あぁ……」
 フリードリヒの呼び声にエリンの表情が険しくなる。
 深い緑色の双眸に映りこんでいるのは、見慣れた衣服を纏った男。赤い
帽子をかぶっているのはここら一帯を警備する騎士隊の隊長だろう。
 フリードリヒはくすんだ色のコートについたフードを目深にかぶると、その
まま顔の下半分を首に巻いたマフラーで隠した。
「失礼だが! そちらは何用でこの村へ?」
 サーベルをさしたベルトに触れながら問われる。牽制しているつもりなの
だろう。
 二年前に起きた国境警備隊斬殺事件と、それ以来途切れることのない国
境を無断で越えるものの存在に、国はずいぶんと神経をピリピリさせている。
 その国に仕える騎士隊も同じなのだろう。
 エリンはコートの内側のポケットに入れてある小ビンへと小指を差し入れる。
気付かれないように慎重かつ、素早く。
「国境を越えた先にある街に用がありますので」
 顔を見られないように伏せる。
「ふーん?」
 ジロジロと見ている。その目がフリードリヒに向かったのを見計らい、エリン
は小ビンの中の薬が付着した指で左の瞼から唇の端へと一本の線を引く。
「そちらの君。フードを取りたまえ」
「あぁ、待ってください。私たちは顔に酷い怪我を負っていまして……とても見
せられた顔ではないのです」
「何をいう――っ!?」
 目の前の神経質そうな顔をした男が息を呑む。
 当然だ。その男の目に映ったエリンの顔の左半分は、醜く潰れていたのだから。
「国境を越えた先によい医者がいると聞き、ここまで旅をしてまいりました」
「そ、そうか! 早くな、治ると良いな! ふ、夫婦そろってその顔では大変だ
ろうに……で、では!!」
 あまりの醜さに男は声を上擦らせ、恐れおののいて逃げ出す。その際にぶ
つかった村人に物凄い剣幕で怒鳴りつけて、自らの地位を顕示している。
 その様子を眺めていたエリンは、爛れた皮膚へと爪を立てて呟いた。
「ここは早めに出た方が良さそうね。騎士隊が権力を持ちすぎてる」
 ペリペリと皮膚が――否、皮膚に似せた薄い膜が剥がれ、それはエリンの手
の中で跡形もなく消える。その様を眺めていた少女は、興奮した様子でぷくぷく
とした頬を朱色に染めていた。
「すごいすごい! おねーちゃんたちはマジシャンなの!?」
 少女の言葉にエリンは首を左右に振る。
「ただの旅人よ。
 ねえ、この村のもう一つの出口はどこにあるの?」
 問われた言葉に少女は嬉々として歩き出す。
「こっち! こっちだよ!」
 元気いっぱいに跳ね回るその姿を見ていると、思わず笑みが零れる。
 それはフリードリヒも同じなのか、程よく筋肉がついてガッシリとした肩が小刻み
に揺れていた。
「行きましょう、フリードリヒ」
「そうだね。エリン」
 二人で並んで歩き出す。
 黒いコートのエリンと、くすんだ白いコートを纏っているフリードリヒ。コートを着用
した二人の旅人の姿に村人は驚いているようであったが、誰一人としてそれを口
にするものはいなかった。
 かかってくる声といえば、旅の必需品だとチーズを勧めてくる声くらいなもの。
「じゃあ一ダースちょうだい……あ、この通貨で大丈夫?」
 一口サイズのチーズが詰まった箱を一つ受け取ると、エリンは懐から一枚の紙
幣を取り出す。それを見た初老の男の双眸が見開かれた。
「こりゃたまげた! あんた、ずいぶんと都会から来たんだな!」
 珍しそうに紙幣を眺めている――この村にはまだこの紙幣が伝わってきてない
らしい。この紙幣が使用され始めたのは五年程前だったが、やはり王都からかな
り離れているだけある。
 そういう類のものが伝わるのが遅れているらしい。
「行商しててもあんま見れないよ。えーと……つりはこれでいいか?」
「あってるわ。ありがとう」
 つり銭を受け取り、根掘り葉掘り旅の理由を聞かれる前に少女の傍へと戻る。
「手を出して」
 先導して歩いている少女へとそう呼びかけると、少女は小さな両手を前へと出す。
その小さな手の平にチーズを六つ置いてやる。すると少女はどこか嬉しそうな顔で
エリンを見上げた。
「いいの?」
「お礼よ――といっても、この村の特産品だから珍しくもないかしら」
 肩をすくめるエリンを見上げている少女の双眸が輝きに満ちる。
 花が咲いたような満面の笑みを浮かべると、少女はもらった六つのチーズのうち
五つをポケットへとしまい、残りの一つを口の中へと放り込んだ。
「ん〜! マシューおじちゃんのチーズは美味しいんだぁっ! おうちに帰ったらミリー
とケリーにもあげよっと」
「妹さん?」
「うん! ミリーが三つで、ケリーが二つ!」
「じゃあ、あなたは?」
 エリンの問いに少女は小さな手の平を広げて大きく左右に振った。
「エリーは五つ!」
「そう。五歳なの」
「うん!」
 元気に飛び跳ねている。その姿は、自分の住んでいた村ではあまり見ることが出
来ないものだった。
 あの村に子供はいなかったから――
「あ。ちょっと待ってて」
 ふと、エリーの足が止まる。
 どうしたのかと眺めていると、彼女は教会の外で祈りを捧げている親子へと近づい
ていた。何を話しているのかは聞こえないが、若い夫婦の間に置かれたバスケットの
中では小さな子供が苦しそうに座っている。
 それと近づいたエリーはポケットの中からチーズを三つ取り出すと、祈りを捧げてい
る父親と母親へ一つずつ渡し、もう一つをバスケットの中で座っている子供へと渡すと、
若い夫婦と同じようにして祈りを捧げる。
 その行為に若い夫婦はエリーを抱き締めてその小さな頭を撫でていた。何を言って
いるのかは分からない。けれど、若い母親が泣いているのは見えた。
「子供が病気みたい。これくらい離れてると、医療も遅れが出るだろうからね」
 フリードリヒの言葉に、エリンは唇をきつく結んだ。
「エリン」
 細い肩へと手を置いて、フリードリヒは微笑む。
「したいことをするといいよ」
「……出発、明日になるかもしれないけど……いい?」
 申し訳なさそうに問うエリン。その肩を抱いたフリードリヒは、小さく頷いた。顔を隠し
ていたマフラーをずらして微笑むと、その大きな手で頭を撫でる。
 金色の髪が揺れて、緑色の双眸が細められた。
「ごめんね」
 小さく呟いてから親子の前へと駆け寄る。
「少しいいですか?」
「な、なんでしょう……?」
 若い母親と、若い父親。その間にいる幼い子供は、顔を真っ赤にさせて苦しそうな
呼吸を繰り返していた。
「私は医療の心得もあります。
 お子さんを少し診断してもよろしいでしょうか?」
「ほ、ほんとうですか?!」
 若い父親は自らの妻の肩を掴み、
「私たちの祈りが天に通じたのかもしれない!」
「え、えぇ。どうか……息子をよろしくお願いします……」
 二人の了承を得たエリンは、バスケットで座っている幼い子供の首へと触れた。
「……なるほど」
 この症状は、エリンが住んでいた村付近で腐るほど見てきた。感染病ではないにし
ろ、幼い子供が次々と運び込まれてきたあの日々は、恐怖以外のなんでもなかった。
 原因を追求し、薬を作り出すまでにどれほどの子供が死んだことか。
 何人の悲しみに暮れる親を見たことか。
「大丈夫です。すぐに治療できます」
 目の前で不安そうにしている両親の目が悲しみに濡れぬ内に――
 エリンはバスケットを抱えて立ち上がった。
「家へと案内していただけますか? 野外では薬が飛んでいってしまうかもしれないので」
「はい! こちらです」
「おねーちゃん?」
 きょとんとした顔をしているエリーへと笑いかける。
「ここまでの道案内ありがとう。エリー」
「アルバート、治る?」
「アルバートっていうの? えぇ。治るわ、絶対に」
 無邪気な笑みを浮かべてエリーが走り出す。
 大きく手を振って、
「アルバートが治ったら一緒に遊ぶんだ!」
 ――だから、治してあげてね。
 エリーの姿が見えなくなり、エリンはバスケットを揺らさないように気をつけて歩き出し
た。その手をフリードリヒが支えて、
「ありがとう。フリードリヒ」
 二人でバスケットを抱えて歩き出す。
 太陽が高い位置にいる。
 久々の出番だと、コートの内側に収納してあるペリカン――長い年月を共に過ごした
ガラス器具たちが、カタカタとを音を立てているのがわかった。
「ここが我が家です」
 若い父親が足を止めたのは、古びた小さな家だった。
「汚くて申し訳ないのですが……」
「そんなことありませんよ。こういった場所の方が安心できますし」
 エリンはそう告げると、フリードリヒと共に家の中へと足を踏み入れた。古びてはいる
ものの清潔にしてある。なによりも一番喜ばしいことは、この家は信仰心に厚い。
 これならば最高の状態で治療が出来る。
 エリンはコートの内側から数本のペリカンを取り出した。そのガラスで出来た試験
管のようなものには、一つ一つにシンボルが刻まれている。
「申し訳ありませんがご両親はこの部屋には入らないでください。
 集中力がいる作業ですので」
 両親の返答を待たずに扉を閉めたエリンは取り出したペリカンの蓋を開け、その
中で眠っている者たちを起こすための言葉を口の中で紡ぐ。
「賢者の石を作る……」
 ペリカンの中を満たす液体が淡い光を放つ。
 それらがふわりと浮かび上がると、エリンの手は素早く蓋を閉めて浮かび上がった
小さな光を別のペリカンで掴まえる。
「火の精霊サラマンダー。目覚めはどう?」
 呼びかけられた淡い光――サラマンダーはペリカンの中で激しく動き回ると、大きく
燃え上がった。それを言葉で御しているエリンは、必要な言葉をもう一度口の中で紡ぐ。
「ニグレド――」
 黒化を意味する言の葉を紡ぐと、次の段階へと入るべくサラマンダーの入ったペリカ
ンを指先で小突く。すると再び激しい炎が燃え上がり、黒く染まった小さな光を包み込む。
「アルベド――」
 白化を意味するその言葉。それを紡ぎながらペリカンの表面に刻まれているシンボ
ルを指でなぞる。そこに描かれているのは、自らの尾を呑んでいる蛇の姿。
 ウロボロスのシンボルをなぞると黒い光は発光し、純白へと色を変える。
 それを二つに分離させると、硫黄と水銀のかぎなれた匂いが鼻先をくすぐる。
「……賢者の水銀――」
 二つに分けた白い光を再び融合させる。
 ペリカンの中でカラン、と音がして転がるのは白い石。
 賢者の水銀と呼ばれるこの物質を、純化させるべくエリンは他のペリカンから違う色
の光を取り出す。
「ウンディーネ、サラマンダー、シルフ、ノーム。手伝って」
 その声に応えるように四つの光が白い石の周囲を廻る。
 廻り廻って、その白い石が色を変えて行く――精霊たちによって、不純物が取り除か
れる様を眺めていたフリードリヒは口元に薄く笑みを浮かべ、両親が誤って扉を開けな
いようにと背中を使って扉をおさえていた。
 合計して十二回。不純物を取り除き、完全に純化された石へと別のペリカンに入って
いる液体をかぶせる。それを注ぐと同時に淡い光は、逃げるように自らが入っていたペ
リカンへと入った。
「精霊も酸は怖いのね」
 クスリと笑うと、エリンは酸の中で色を変えた石へと小さく息を吹きかけた。
「緑の獅子――」
 その名のとおり、緑色の小さな石は最後の仕上げを待っているかのように淡く輝いて
いた。その石を手に取り、エリンは自らの吐息を意思へと吹きかける。
「賢者の石」
 血のように赤い、赤い小さな石。
 それの欠片を削り、粉状にして苦しみに喘ぐアルバートの口の中へと落とす。それを
飲み込ませるための水を口の中へと注いで、喉が賢者の石の欠片と水を飲み干した
のを確認すると、エリンは大きく息を吐いた。
「久しぶりに賢者の石を作ったわ」
「お疲れ様。エリン」
 優しく微笑むフリードリヒ。
「看病は俺がしようか?」
「ううん。平気、自分でやるから」
 そう答えるとエリンは、コートの内側へとペリカンをしまい、代わりに取り出した小さな
宝石をアルバートの眠るベッドの下へと転がした。
「疲れてるなら休んだ方がいいよ」
 扉から離れて、エリンの傍らへと佇む。投げかけられる言葉の優しさに思わず涙が出
そうになる。けれど、エリンは小さく頭を振ってそれを拒絶する。
「……私がしたいの」
「悲しそうな顔をしないで。俺はエリンの笑った顔がみたい」
 エリンの肩に触れ、その頭を撫でる。
「……フリードリヒ」
 潤んだ眼差しでフリードリヒを見上げ頬へと手を伸ばすと、エリンは今にも泣き出しそう
な表情を浮かべた。
「顔も、声も……全てが同じ、というのは辛い……」
 小さく吐き出された言葉。
 頬に触れる手に優しく握ると、そのしなやかな指先へと唇を這わせる。
「エリンが望んだ今を拒絶しないで。
 俺はエリンのためにここにいるんだから」
「あぁ……そうね。そうよね……ごめんなさい……フリードリヒ」
 指先に触れる唇の感触と、優しい言葉に胸が痛む。
 フリードリヒをつれてあの村を飛び出して――隣国を目指す理由を、忘れてはいけない
理由を、今を選んだ理由を忘れてはいけない。
 まだ、やるべきことがある。
 まだ――まだ。
 静かに瞑目し、熱の引いてきたアルバートの呼吸を耳で確認する。
「……もしも産まれてたらあの子くらいの大きさだったかもしれないわね」
「そうだね」
 エリンの言葉に答えるフリードリヒは、彼女が手に握っていた賢者の石を唇で挟み込
むと、そのまま口の中へと含む。飲み込むわけではなく、ただ口の中で転がす様は飴
玉を食べる子供のようにも思えた。
 小さく噴出して笑うと、エリンは扉越しに外の会話へと耳を傾けた。
「行きましょうか……フリードリヒ」
「分かったよ。エリン」
 ドアノブを握る手に力を入れる。
 突如開け放たれた扉に若い夫婦が驚愕のあまり悲鳴をあげる。その様子を静かな眼
差しで見据えたエリンは、小さく頭を下げた。
「驚かせてごめんなさい。
 治療が終わったので連絡に来ました」
「あ――そ、そうですか……ありがとうございます」
 どこかよそよそしい若い父親。その妻の方は、何かに怯えているらしく小さく震えてい
るようだった。
「報酬は……」
「報酬は受け取らない主義です。
 ――あぁ、ところでご主人」
 コートの中から白い手袋を取り出し、両手にはめる。
 その手の平に描かれているのは、ペリカンの表面に描かれていたものと同じウロボロ
スのシンボル。
「通報はお済みになられました?」