どこか冷たいものを孕んだ言葉に若い父親は絶句する。
 刹那、罅割れた窓ガラスを突き破るようにして銃弾が飛び込んでくる。
「やはり。この周辺の領主は都会への羨望が強いようですね。
 こんなにも高価な武器を持ち出すのですから」
 懐から取り出したペリカンを一つ。床に叩きつけて砕く。
 そこから飛び出した淡い光が薄い幕を張り、銃弾がエリンの肉体を傷つ
けないようにと包み込む。それらを見ていた若い夫婦は悲鳴をあげて、互
いに抱き合っていた。
 少し遅れて見慣れた装備の騎士たちが扉を蹴破り室内へと入り込む。
 エリンは酷く苛立ったかのような表情を浮かべ、口を開いた。
「ここを治める領主はアルケミストに毒されているようね」
「エリン=ファウストだな? その身を拘束させてもらう」
 騎士の一人が口を開く。それと同時にエリンは、先ほどとは別のペリカン
を取り出すと、床へと思い切り叩きつけた。
「ウンディーネ!」
 凛とした声と共に濃い霧が立ち込める。一寸先も見えぬような霧の中で、
冷静なエリンの声だけが響き渡る。
「身勝手な王の命に屈するつもりはないわ。
 見逃して頂戴。そうすれば誰も死ななくて済む」
「馬鹿げたことを抜かすな!」
 サーベルを抜いたのだろう。
 視界の自由も利かないというのに、やぶれかぶれで振り回せば当たると
でも思っているのだろうか。辺境とはいえど、教育の行き届いていない騎士
の姿にエリンは小さく息を吐いた。
 このまま逃亡することは得策ではない――興奮した騎士たちがこの家の
人間を皆殺しにする可能性を危惧し、彼女はコートの内側に縫い付けてあっ
た短剣を取り出した。
「アゾート頼むわよ」
 小さく語りかけると、アゾートと名のついた短剣は鈴の音のような音を奏で、
がむしゃらに振り回されるサーベルの切っ先を受け流す。
「もう一度言うわ」
 血の臭いが濃くなる。
 同士討ちか。悲鳴が途切れていない所を見るに、若い夫婦はまだ無事らしい。
しかしそれも時間の問題だろう。
「私たちを見逃して。
 むやみに人が死ぬ必要はないのよ」
「犯罪者如きが偉そうな口を!」
 金属同士がこすれ合う音がし、エリンの細い腕に重い衝撃が走った。
 一人だけ腕がたつのがいる――そう考え一瞬で脳裏に浮かぶのは、偉そう
なあの騎士。赤い帽子をかぶっていた騎士隊隊長の姿を思い出して、エリンは
苦笑した。
「犯罪者? 私のどこを指して犯罪者と呼ぶの」
 アゾートから聞こえる鈴の音が強くなる。その力に任せてサーベルを振り払う
と、エリンはそのまま隊長の帽子を切り裂いた。
 この赤い帽子は罪の証――騎士隊を治める隊長は、罪の欠片を握っている。
「ホムンクルスを作成するという行為は――」
 上擦った声で告げられる言葉。
 その言葉にエリンは破顔した。
「ホムンクルスは禁じられていたわけじゃないわ。誰一人として成功しなかった
だけよ。
 国がエリン=ファウストを追う理由はそこじゃない。彼女が知った国の事実の
せい……知っている? ホムンクルスは、作られたクリスタルの器の中でしか生
活が出来ない十五センチの小さな小さな命なの。手配書にはホムンクルスのこ
とはなんて書いてあったのかしら?」
 笑いながら告げられた言葉に隊長は震え上がった。
 ただのアルケミストの女としか言われていなかった。力も弱く、頭脳しかとりえ
のないさもしい女だと。殺すのは容易いと――
「そ、そのことは触れられて……」
「ほら! 命を冒涜したホムンクルスが罪というのなら、そのホムンクルスも捕
えないといけないのに。国は私しか追っていない……分かる?」
 赤い帽子を取り上げ、床へと叩き付ける。それを足で踏みにじると、エリンは
緑色の双眸を細め忌々しそうに唇を噛んだ。
「この家の住人も殺すつもりだったんでしょう? 火の臭いがするもの」
「お、お前さえ捕えれば……おれたちゃみんな出世できるからなっ」
 完全に腰を抜かしている隊長が告げるとほぼ同時に、若い夫婦の悲鳴が聞
こえた。
 斬り付けられたのではない。燃え上がった子供部屋を見て悲鳴をあげたのだ。
よほど念入りに準備をしていたのだろう、燃え上がり方が半端ではない。
 ガラガラと木材が落ちる音が扉の向こうで聞こえ、弱々しい泣き声が聞こえる。
「アルバート! アルバート!!」
 若い母親の悲鳴と、それに混ざって聞こえるのは同士討ちで斬り付けられる
騎士の声。
「……馬鹿馬鹿しい」
 エリンは大きく息を吐くと、コートの中から空のペリカンを取り出し、その蓋を
開けて小さくその名を呼んだ。
「ウンディーネ」
 その呼び声に反応して濃い霧が一気に姿を消す。
 まるで最初から霧なんて存在しなかったとすら思わせる。だが床の上に横た
わっている血塗れの騎士と、負傷して蹲っている騎士が多数いるのは、先ほど
までの霧が本物であったことを痛感させる。
「フリードリヒ」
「エリン」
 フードを外し、その素顔を外気に晒す。
 それと同時に隊長が素っ頓狂な声をあげていた。
「な……なんで、お前がっ……!!?」
「やぁ。久しぶりですね、セーレ先輩」
「お前はっ……あの時確かに!!」
「確かに……なんですか?」
 温和な笑みを浮かべているフリードリヒの手がエリンの肩を抱く。
 軽く背伸びをして顔を近づけるエリンは、セーレという名の隊長を尻目にフリー
ドリヒの首へと腕を回した。二人の息が近い。
「生きてるはずがない! はずがない! あの時確かに……!!」
「メフィストフェレスの言っていたことは正しいみたいね」
「悪魔だからってウソばかりついてるわけじゃないようだね」
 二人の唇が重なる。
 フリードリヒの口の中にある賢者の石を口移しで受け取り、エリンは濡れた唇
を指で拭う。どこか妖艶な微笑を浮かべている彼女の目の色が徐々に変化して
いることに気がついたのか、セーレが息を呑んだ。
「死んだはずのフリードリヒが生きていて驚いた? えぇ。私の夫は、フリードリ
ヒ=ファウストは確かに死んだわ……ここにいるフリードリヒは、ホムンクルスよ。
 クリスタルのお家も、一ヶ月に一度の食事もいらない、人間と殆ど人間と同じ
ホムンクルスなの」
「そんなことが……か、可能なはずはっ……!!!」
「可能にしたのよ。
 賢者の石と、悪魔の力で」
 コクリ――喉が動く。
「悪魔? そんな、バカなことが」
「目にしたら信じられる?」
 セーレが目を剥く。先ほどまで目前にいたのは、金の髪と緑色の双眸をした
華奢な女性――黒いコートと、アルケミストたちが集まって住んでいるという噂
のある村で好んで着られている衣服を纏った、見目の麗しい女性だった。
 けれどどうだろう。
 今――セーレの首を掴んでいる、女性は。
「はじめまして。
 メフィストフェレスという悪魔です。二年前にエリン=ファウストの呼びかけに応
じて出てきたついでに願い事を叶えてやりました。
 ついでにこの国の秘密もいくつかペラペラと。ところで炎が暑くてたまらないん
だ、どうにかならない?」
 やたらと饒舌なこの女性は――
 白銀の髪と、金色の瞳。その瞳孔は縦に細長く割れて、禍々しいものを感じさ
せる。
 そしてなによりも。この細い腕に込められた力。
 これは人間ではない。
 セーレは本能で悟った。
「だから悪魔だって。
 賢者の石と、エリン=ファウストの求めに応じて飛び出す素敵な悪魔。便利で
いいと思わない? あぁ、でもお前じゃだめだよ。信仰に厚くないし。
 彼女くらいに神を信じ、尊ぶ力があったからこそ私を使役できるんであってね
……あぁ、それにしても暑い暑い」
 セーレの顔から表情が消える。
 メフィストフェレスと名乗った悪魔は、ニコニコと屈託のない笑みを浮かべなが
らセーレの頭を鷲掴みにした。徐々に、徐々に、その手に力が込められて行く。
「お前の首を窓から投げ捨てたら火を止めてくれるかな?
 どう思う? 仲間殺しのセーレ」
「なんで、それっ……を!! や、やめて。やめてくれっ、死にたくない。死にたく
ない!」
 涙を浮かべ、死の恐怖に腰が抜けたのかメフィストフェレスに頭と首を掴まれ
たまま宙に浮いている、その二本の足から異臭のする液体が流れ落ちる。
「あぁ、やだやだ。汚いなあ。
 そんな汚い人間はこうしてしまおう」
「やめで――っ!!!」
 鈍い音。
 赤い雨。
 捻り切られたセーレの頭部を鞠のようにして遊んでいるメフィストフェレスは、と
ても明るい笑顔でそれを窓から放り捨てた。
 外から聞こえる悲鳴。
 同時に生き残っていた騎士たちまでもが逃げ出す。
 火の手が周り始めた小さく、古びた民家に残っているのは若い夫婦と、メフィス
トフェレスと、フリードリヒだけだった。
 最愛の我が子を失ったと嘆いているのだろう。
 火が迫っているにもかかわらず逃げようとしない若い夫婦を見ているメフィスト
フェレスは、胸を二、三度強く叩いて口から賢者の石を取り出した。
「フリードリヒ。お前が持ってろ」
 傍らで佇んでいるフリードリヒの口の中へと賢者の石を押し込むと、彼女はそ
のまま火に包まれ始めている民家へと手の平を向けた。
 口の中で小さく言の葉を紡げば、青白い皮膚全体に赤い文字が浮かび上がる。
 その様はまるで、何かの儀式のようにすら思えた。
「次に呼び出すときは、賢者の石だけじゃなくて他の面白いものも用意してくれる?
 そしたらもっともっとサービスしてあげるよ。それはもう、エリンも不老不死にし
ちゃうくらいにね」
 赤い文字がメフィストフェレスから離れ、天井へと舞い上がる。
 刹那、眩い光と共に燃え盛っていた炎が姿を消す。かといって、炎が燃え盛る
よりも前に時間を戻したわけではないのか、アルバートの眠っている部屋は半壊
していたし、何よりも若い夫婦には痛々しい火傷が刻まれていた。
「私はここまで。じゃーね、また会えた時は願い事が全部かなってるといいねー。
 あははは、ばいばーい」
 明るいノリで大きく手を振るメフィストフェレス。その白銀の髪が元の金色へと戻
り、双眸も輝くような金色から深く穏やかな緑へと変化する。
「……酷い格好」
 返り血を浴びてドロドロになっている自分の姿に悪態をついて、エリンは嘆いて
いる若い夫婦の肩へと手を置く。
「アルバートくんは無事ですよ。
 アルケミストに毒されているこの村で、あなたたちが私を通報するのは目に見
えていましたから」
 どこか優しく、けれども淡々と告げると、エリンはフリードリヒの抱えていた荷物
の半分を持って壊れたドアから外へと一歩を踏み出した。
 
「危ないっ」

 フリードリヒに突き飛ばされ、エリンは前のめりに転ぶ。
 強かに鼻を打ったがそれを抗議するよりも前に目に入った光景に、思わず息を
呑んだ。脳裏を過ぎる夢の光景。
 けれど――これは違う。
 エリンは冷静な顔のまま起き上がった。
「……無事ね?」
 あの時とは違う。
 目の前にいるフリードリヒは、二度と――
「はい。行きましょう」
 穏やかに微笑んで、二人で歩き出す。
 フリードリヒの胸を貫いていた矢は、何かに溶かされるようにしてその姿を失い、
千切れ落ちた部分だけが土の上に落ちていた。
 泥に塗れて転がっているセーレの頭部。
 それに気がついたエリンは、一瞥してそのまま歩き出す。
 背後で若い夫婦たちの歓喜の声があがろうとも、エリーが別れの挨拶をしようとも。
 ――二度と振り返ることはなかった。




 二年前。発狂するほどの知識を得たエリンは上司へと問うた。
「メフィストフェレスは言いました。
 この国は破滅に向かっています。王は何を思い、あのようなことを――」
 上司は淡々と告げた。
「お前が知る必要はない。お前はいつもと同じようにアルケミストとして国に尽くして
いればいいのだ。
 さもなくば……」
 肥えた手が肩を掴み、耳元でささやく。
「夫のようになりたいのか?」
 その言葉にエリンは確信した。
 やはり殺された。夫は確かに殺された。
 隠しとおして作り上げたホムンクルス――夫と同じ姿をした別人。
 このホムンクルスを夫として愛する日は来なくとも、同じ思い出を共有する友人と
して過ごすと決めた。クリスタルの子宮で育てたエリンとフリードリヒの子。
 二人の間に子供は恵まれなかったけれど。
 このホムンクルスと共に外へ出よう。
 その決意がエリンの中で固まり、確かなものとなる。
「本日限りで、私はこの国のアルケミストではなくなります」
 腕に刻まれたフェニックスのシンボルを削ぎ落とす。夥しい血の量と、激しい痛み
に顔が歪んだが彼女はそのまま言葉を続けた。
「この国の破滅とは、私のことを意味するのかもしれませんね」
「エリン? 何を考えている。そのようなことをすれば、夫と同じように君も死ぬこと
になるぞ」
 上司の言葉にエリンはアゾートを机に刺した。
「やれるものならやればいい。
 私があなたたちを赦す日は死後も訪れません」
 アゾートの魔力に侵食された机が崩れ落ちる。慄いている上司を尻目にエリンは踵
を返した。
「失礼します」
 背を向け、歩き始める。
 この日から運命は決定付けられた。
 広い高原を歩いているエリンは、傍らを歩くフリードリヒへと問いかけた。
「どこへ行こう」
 フリードリヒは出発した日と代わらない穏やかな微笑を浮かべ、
「エリンの行くところへ」
 二人は微笑を交わし、歩き続ける。
 隣国へ行くことだけが役目ではない。メフィストフェレスは、もっと別のことをエリン
にさせるつもりなのだろう。そのためにフリードリヒを人間と同じ大きさに――夫と同
じ大きさへと変え、同じ記憶までもを持たせた。
 そして、旅の監視をさせる。
 間違った道に進まぬように、メフィストフェレスの望む未来から外れぬように。
 エリンのするべきことは――恐らく、本当に故郷を滅ぼすことなのだろう。旅を続
けて二年の間に確信した彼女は、それでも歩き続ける。


「今度はどこへ行こう」

「君の望む場所へと」