感情のない文字の羅列。
 記号の集まりでしかない手紙が電子音と共に流れ着く。
 少しだけ緊張して、少しだけ不安を抱いて、マウスを動かす。
 カチカチ、と軽い音が聞こえて画面が変わる。


「いいなあ、ツバサさん」


 差出人:ツバサ
 返信先:ケイ
 件名:チケットとれました!
 ケイさん
 やりました! チケットがとれました!
 Gluckのライヴ行けます! 今から楽しみですよー!

 ツバサ



 珍しくもなんともないメール友達というもの。
 仲良くすることは可能だが、顔を見て話せる学校の友人たちなどと比べると、
信用することが難しいのもまた事実だ。
 返事のメールを打ち込むためにキーボードを指先でテンポ良く叩いている少
年――ネット上ではケイと名乗っている小田慶介は、ネットの掲示板で見かけ
たメル友を装った殺人の見出しを思い出して、少しだけ背筋を寒くした。
「……い、いや。ツバサさんはそんな人じゃないって」
 かれこれ三ヶ月ほどメールを交換しているが、印象はファンサイトのチャットで
会話したときとそう変わらないし、むしろチャットよりもメールで大量の話をしてい
るせいか、チャットだけのときよりもずっと好意を抱ける。
 年も同じで、好きな音楽も、食べ物も同じ。最初は合わせてるのかと疑っていた
が、メールの内容に好きな食べ物のことが書いてあったりカラオケで歌った――
などのことを書いていることから、本当に好みがかぶっているのだろう。
 ケイは、完成した返信メールを読み直して誤字の確認をすると、送信ボタンをク
リックした。
「ツバサさんが近所に住んでたらなぁ……」
 メールを送信しています――の画面を見ながら呟く。ツバサの年を知っているも
のの、住んでいる場所を聞いたこともないし聞こうと思ったこともないが、やはりこ
こまで楽しく話せる相手だと実際に会って話したくなる。
 一緒にGluckのグッズを取り扱っている店に行けば、きっと一人で行く時よりもずっ
と盛り上がるだろう。グッズを眺めたあとにファーストフード店で長時間喋るのも悪く
ない。
 もしもツバサが性別を偽っていて、本当は男だとしてもさしたる問題ではない――
ケイは、恋人が欲しくてメール交換をしているわけではなく、純粋に友人としてメール
のやり取りをしているのだから。
 ――もっとも、もしもオフ会をすることが叶って、対面したツバサが自分好みな女の
子だったらいいな。という幻想がまったくないわけではないが。
 自分と好みが合う。
 自分好みの女の子。
 性格もすごくいい。
 彼女にしたいことこの上ない――
「いやいや。やめようぜ俺。やめようぜ、妄想」
 脳裏に過ぎった幸せなデート図を掻き消そうと頭を振る。ツバサとの交流が盛んに
なってから、こういうことを考えるようになってしまった――それはつまり、異性だった
らいいなあ。という希望が強いのだということに気がついて、罪悪感のようなものにか
られる。
 たとえ性別を偽っていても、その通りの性別だとしても、友達であることに間違いは
ないのだからこういった考えはない方がいい。欲望に忠実だとメール友達としての関
係が崩れてしまうかもしれない。
 それだけはどうしても避けたかった。
「えーと……あ、返事だ。早いなーツバサさん」
 クリックして開く。
 広がる白いメール画面。そこに書かれていた内容は、チケットが取れてうれしい―
―というものと、もう一つ。
――うちの学校にGluck好きな男子がいて、たまに話すんですよ。同じ学校にファ
ンがいるのっていいですよね――
「おー、いいなあ」
 ちょっとマイナー感のあるアーティストなだけに、学校でファンを見つけるのは至難
の技だと思う。ケイ自身、友人に勧めてみたものの目も当てられないくらい悲惨に拒
絶されている。
 そういうことがあったからこそ、ファンサイトで交流するようになったわけだが――
 個性的なアーティストなだけに好き嫌いが激しい。とファンサイトに集う人たちが口々
に言っているのを眺めながら深く頷いたのも記憶に新しいものだ。
 そういったファン事情を考えると、ツバサは運がよかったのだろう。
「あ」
 ふと思い出す。
 クラスが離れているせいで話す機会は滅多とないが、同じ学年に一人だけ――百
人以上いる二年生の中で、たった一人だけGluckを好きだと言っていた女子がいた
ことを。
「久しぶりに話し掛けてみるか」
 メールの返信を打ち込みながら呟く。
「……俺も運がいいのか。そういや」
 職場にファンがいなくて寂しい。とチャットで漏らしていた社会人を思い出しながら、
ケイは送信ボタンをクリックした。
「んー……」
 メールを送信し終えたのを確認すると、椅子の背もたれに体重をかける。それなり
に古い椅子のため耳障りな音を立てて軋むが、まだ壊れるほどではないだろう。
「んー……?」
 唸り声が疑問系に変わる。
「なんだこれ?」
 モヤモヤとする。胸の内がモヤモヤして、あまりいい気分ではない。
 普段ツバサとのメールのやり取りをしている時間は、楽しすぎて心臓がバクバクい
うほどであるのに。
「んー……眠いのかな? 寝るか」
 ブツブツと独り言を呟いて、パソコンの電源を落とす。いつもよりもメールのやりとり
が少ないのは残念なものを感じずにいられないが、モヤモヤしたままツバサと会話し
ても、何かと失言をしてしまいそうで怖い――というものもあったため、ケイはさっさと
布団へと潜り込んだ。
 枕元に置いたままの音楽雑誌。
 表紙を飾っているのは、もちろんGluck。
 ちょっとしたオカルト雑誌に見える――と騒いでいたクラスの女子たちのことを思い
出しながら、ツバサが同じクラスに、同じ学校に、同じ地域に住んでいれば、きっと二
人で騒げるのに。
 ツバサの言っていた男子とやらが羨ましくてしかたがない。
 ケイは、半ば逆恨みのような感情を胸に抱いて電気を消した。


「城島ー」
「小田くん、どうしたの?」
 図書室で発見したポニーテールの少女――城島ことりは、やたらと分厚い本を片手
に振り向いた。
 文学少女ではなかったような気がするが、何かしらの課題でも出されたのだろうか。
「宿題?」
 分厚い本を指差して問うと、城島は頷いてげんなりとした表情を見せた。
「レポート書きなさいだって。苦手なのよね……レポート」
「俺も嫌い。読書感想文とどう違うのさ」
「さぁ?」
 肩をすくめて笑う城島。
 一見しただけだと、大人しい文系少女に見える彼女が実は理系であることや、Gluck
の大ファンで、ライヴに足しげく通っていることも知っている――というよりも、本人から
聞いている。
 清楚な外見とは裏腹に物事をあけすけに喋る城島は、異性の中でも接しやすいほう
なのだろう。話し掛けようと思ったら気兼ねなく話し掛けることができる。
「城島は、今回もライヴ行くの?」
「ん? うん。いつも通りお姉ちゃんと行くよ、たぶん」
 図書カードに自分の名前を書いている城島。女の子らしい文字ではなく、キリッとした
印象をもたせる字は、小学生のときの漢字ドリルを思い出させる。
「小田くんは?」
 図書委員にカードを手渡し、レポートを書くために借りた本を小脇に抱えている城島の、
限りなく黒に近いこげ茶色の双眸が慶介を見上げる。こうした仕草は、女子らしいと意識
してしまうのは、年頃の男子の性なのだろうか――彼は、気恥ずかしさから少しだけ視線
をそらした。
「……今回もチケットとれなかったよ」
「そっかー……残念だね。あ、そうだ。じゃあーなんかお土産買って来ようか?」
「マジ? じゃー頼むっ! 会場限定とかオークション待ちの生活はもう嫌だーっ」
 予想外の言葉に、慶介は切実な思いを口に出してしまった。静かな図書室に響き渡る
叫び声――とまでは行かなくとも大きな声。メガネをかけた図書委員が眉間にシワを寄
せて睨んでいる。
「……城島……次の授業は?」
「私? 物理だから教室ね」
「じゃあ途中まで一緒に歩こうか」
「あぁ、いいね」
 頷きながら答える城島。
 二人並んで歩くと、自然と口からGluckの話題が飛び出していく。
「んで、あのシングルに入ってた隠しがマジよくて!」
「あぁ! 星の行方? うんうん。私もあの曲好き。いいよねー」
 廊下を歩きながら。階段を登りながら。
 互いに好きな曲や、良かったライヴの話で盛り上がる。その時間は、まるでツバサとメー
ルのやり取りをしているときのような気分だった。趣味の合う友人と盛り上がることので
きる瞬間は、高級レストランのコース料理を食べているような――どこにでもいるような
高校生である慶介は実際に食べたことはないが――幸せな気分にさせてくれる。
「んで……あ」
「教室についちゃったね」
 気付けば城島のクラスの前にたどり着いていた。休み時間も残り少ない。
「ちぇー」
 うなだれて残念がる慶介。それを見ている城島は、クスリと笑ってポケットの中からケー
タイを取り出した。
「使えるものは使わないとね。ケータイならパソと違って、いつでもメールできるし」
「あ、そっか。じゃあ俺も……」
 互いのメールアドレスを交換する。
 間違いがないかを確認すると、城島はずっと持っていた分厚い本を抱えなおしてから、
ケータイをポケットの中へとしまいこんだ。
「じゃ。また喋ろうね」
「あぁ。じゃーな」
 小さく手を振ると、それに返すように城島は分厚い本を揺らした。
 始業を知らすチャイムが鳴り響く――パタパタと走り出す生徒たちと、少しばかりせっ
かちな教師の声。その声に急かされるように歩調を早めると――
 ポケットの中のケータイが細かく震えて。
「はは。さっそくかよ」
 感情のない電子の文字。
 綴った言葉はたったの一行。
――新曲の隠しもオススメ――
「知ってるって。いい曲だもんな、あれも」
 慶介は嬉しそうに笑って、理科実験室へと向かう自分のクラスの列に混ざりこんだ。