「隠したいよな。大魔導師を崇めるのなら、なおさらに」
口元に浮かんだ笑みは消えることなく、普段は変わらない夕莉の横顔にあり続けている。指先は何かを急かすようにページをめくり、漆黒の双眸は次々と字を追い、文章を追いかけていた。
今まで知ることのなかった事実、転生体である夕莉が知らない部分は、まるで雨が大地に吸い込まれるかのように脳髄を浸していく。
「だが」
ピタリと夕莉の指が止まる。
胸元で合わせを縛る紐へと指を伸ばし、一気にソレを引き抜いた。
はだける衣服。その下に覗くのは赤黒い痣のようなもので染まった肌だった。
特に痛みは感じない。だが、見ていて気分のいいものではなかった。
醜い。
ソレに指を這わせながら夕莉は呟く。
「僕の魂はキルケと同一のものだから魔族かもしれないけど。
体自体は人間のもの。だから魔術を遣うことによって、体が魔力に侵食されるのは分かる。
けど、キルケは魔族の生まれだろ? 魔力に侵食されることなんてありえるのか」
魔術とは便利なものなんかではない。
魔族が生まれながらに持ち合わせている魔力を使い、ニヴルヘイムに生息している精霊たちの力を借りる――この場合は略奪にしか過ぎない。殆ど目には見えない存在ながらも、精霊たちは信じられないような力を持っている。
だからこそ魔族は魔力を鍛える。
特に魔術を扱うものはそうだ。
力が及ばなければ、魔力そのものとなる精霊たちに喰われることもあるのだから。
それらを防ぐために魔術師、魔女の類はその才を見出された時から休まることなく、慢心することなく己を鍛え続ける。
大魔導師とまで呼ばれたキルケなら尚更だったろう。
古の大魔導師が修行をおろそかにし、その結果魔力に侵食されたとは考えがたい。ましてや精霊王の力をも操るキルケよりも強い精霊の力、魔力なんて考えられもしない。
夕莉は眉間にシワを寄せた。
「まだ何かあるはずだな。
…………世界が、精霊王を指すとしたら……な」
火の国との戦争の際にキルケが呼び出した隻眼の女。あれが火の精霊王であることは間違いない。確かに大気中を漂うだけの微弱な精霊とは段違いの力を持っていたし、何よりも使役される側でありながらも、尊大な態度を崩すことはなかった。
「遊びか、それとも取引か。キルケが自らの命と引き換えに精霊王を使役してたんだったらありえるけど……ないな。それはない」
読み終えた本を閉じ、夕莉は瞼を下ろす。
夢中になって文章を読みすぎたらしい。目が乾いて痛い。
目頭を指で押しながら、雨の中で対峙したキルケを思いだす。
「あれを相手に取引するほどキルケはバカじゃねぇ。
四属性の精霊王と取引したら魂なんて欠片も残らないだろうしな。
――じゃあ、なんだ。どうしてキルケは侵食された。僕と同じに……」
引っかかる言葉。
何かが引っかかった。
偽りの肉体によって復活したキルケの右目は人間に奪われた。その肉体は魔力に侵食された痕など見られず、生気のない青白い肌を外気に晒していた。
奪われた右目は人間たちが法術を遣うために使われると。
今までにもたびたび起こっていた魔族の子供の眼球を強奪する事件。それも同じ目的であり、人間にとって魔族の眼球とは法力を増幅させる力があるらしいが。
「……邪眼か?」
比較的新しい知識が頭を過ぎる。
古の戦争において、アスタロトの忠実なる家臣アガレスが手に入れた力。現在でも続く邪眼の元は、天使の眼球だったという。手に入れ方は至極シンプルであり、殺した天使の眼球を喰らうだけ。
あとの拒絶反応を乗り越えれば、強大な力が手に入るという。
しかしこれは便利なレベルアップ方なんかではない。
天使と魔族の力が元を辿れば同じである、神であるスルトと魔神王アスタロトが双子の兄弟であったからこそできたことでもある。
そう考えれば魔族の眼球を喰らうだけで人間が法力を手に入れられるとは考えられない。あいつらは天使に近いとはいえど、天使とはまったく別のものだ。
それでいて、脆い。
魔族の眼球を喰らったとしても発狂して死ぬくらいだろう。
まとまらない頭を殴りたい衝動にかられ、夕莉は気分を変えようと床に置いた最後の一冊を拾い上げてイスに腰を下ろした。
「……あぁ。まてよ、なにも喰わなくてもいいだろ。
キルケの眼球は二個までしかとれないんだからよ。もっと良い使い方くらい考えんだろ? ティ……ミカエルなら」
スルトと共に死んだ大天使とやらの姿を思い浮かべる。
もしも彼女が生きていたならば、そういった技術のことを吐かせることができたのだろうが。死んだものは戻らない、それが何であっても。
常識として頭で理解してはいるが。
夕莉は胸元に手を置き、息を吐いた。
「なんにせよ。アンタの存在は歪みすぎだろ。
キルケ……」
死んだ存在がいつまでも存在し続ける。
生きたい、生きたいと叫んで。
「……ぜってぇ、負けないけどな」
見慣れた文字の羅列。ニヴルヘイムで使われる魔族の公用語より少しだけ古い文法だった。それでもまだまだ通じる、年寄りあたりなら日常的に使っていそうだ。
ということは、この本が書かれたのはつい最近なのだろう。
最近といっても魔族の時間でいうのならば、百年単位で昔なのだろうが。
「つか、そんだけ最近ってことは誰が……」
奥付というものの存在しないニヴルヘイムの書物。
中表紙に著者の名前が綴られている以外には。
「ブリュンヒルデ……って、おい!」
音を立てて立ち上がる。
脳裏を過ぎるのはメガネが特徴的なメイドの姿。しかし彼女の字とは違う、それでも同じ姓を持つということは、彼女の血縁であることは間違いない。
クラリスの家が古いことは知っている。
古の戦争のころには存在し、アスタロトに良く仕えたとも聞く。
だが。それだからといって知っているはずがない。
キルケのすべてはネビロスが持っていってしまった。肉体と魂以外のキルケに関するすべてを大賢者が持っていってしまったはずなのに。
今更。なぜ、今更クラリスの家でこんな本を書く。
捏造かと疑いたかったが、散らばる本すべての内容を統合しても真実を書いているようにしか思えない。何よりも夕莉自身の本能――否、魂が疑っていない。
キルケであった部分が書物の内容を肯定している。
「クラリスっ……!」
部屋を飛び出そうとした夕莉の耳に特徴あるノックが響いた。
「ナナセ様、よろしいでしょうか」
続いて聞こえるのは不機嫌な声。
きっと扉の向こうには不機嫌な顔がいる。
つい先ほど、目覚めた時に会ったばかりの顔を思いだすと胸がざわめいた。寝起きの時には感じなかった不安に息が苦しくなる。
会いたくない、見たくない。
クラリスの同期で、王の補佐やら大賢者の補佐やら補佐役ばかりで、そして――
「ナナセ様?」
「……鍵は開いてる」
「失礼します、ナナセ様」
音をたてて扉が開く。
会いたくない。
見たくない。
必死に立っている足を折られしてしまう。
崩れずに保っている魂を壊されてしまう。
不機嫌な顔を見れば思いだしてしまう。
胸が痛かった。
顔を上げられない。
目覚めたばかりのつい数刻前は、あんなにも普通に会話ができたのに。
頭の中がクリアになればなるほど拒絶したくなる。忘れたくても忘れられない現実と彼はあまりにも強く結びついていて。考えなければならないことすべてを忘れそうなくらいに、頭の中を侵食していく。
「クラリスから大量に書物を借りたそうですから。
目に良いハーブティーをお持ちしました」
不機嫌な顔でティーセットを持ちあげる。
「あ、あぁ……悪いな」
「私が勝手にしていることですから」
食事以外では滅多に使わないテーブルの上で準備を始める姿。無骨な手でハーブティーを入れる姿は酷い違和感を感じさせるものの、半ば慣れてしまったような気がする。
「お前の趣味は理解できないな。アシュレイド」
何かを誤魔化したくて呟いた言葉だった。
何かの答えを期待したわけでもなく、ただ吐きだしただけの言葉。
けれどアシュレイドは夕莉が望まなくても答えをくれる。
「長生きをしていると増えてしまうものですよ。
……違いますね、今の私はあなたに喜んでもらいたくて色々と覚えるのです」
不細工なぬいぐるみもそういうことか。
夕莉は机に置いたままの小さなぬいぐるみへと目をやる。未だに正体が分からない。
頭についているのは耳なのか、別の何かなのか。そもそも生物かどうかすら怪しい。そもそもアシュレイドは手先はそれなりに器用なくせに、こういうことをやらせると絶望的に大変なものが出来上がるのだ。
なんでもそつなくこなすのかと思えば、そうでもない。
そういうところは好感がもてるが。
夕莉としては、これ以上に部屋を不思議博にしないで欲しいとも思う。なんてことを考えていると胸の痛みが和らいだ気がした。
そのまま、良い香りをさせているハーブティーを二人で飲めれば良いのだが。
「本当はハーブティーなんて口実でしかないのですけれどね」
どこか冷めた口調でいわれた言葉は、和らいでいた胸の痛みをぶり返させ、そのまま胸を引き裂くのではないかと思うほどに鋭かった。
嫌だ。
拒絶しか浮かばない。
「あなたが寝ている間にヒューゲルを弔いました」
その名前が出るだけで頭の中が真っ白になるのに。
「死体もないのにか?」
「せめて剣だけでも。私と同じクレイモアを使っていたヒューゲルをニヴルヘイムの大地に弔う。それが私にできる唯一のことです」
静かな言葉が次々に胸に刺さる。
肉体も残さず消滅したヒューゲルの姿が瞼の裏に蘇る。それはあまりにも鮮明で、眠りから目覚める少し前に自分の手で殺めたなんてことが嘘のようだった。
今も彼は火の国で虎視眈々と夕莉の命を狙っているような気すらする。
死んでなんていないと思いこみたいくらいに。
「私の最初で最後の弟子でしたから。ヒューゲル=グリューン=べレスは」
「裏切り者なんだろ。最初のころと態度が違うぞ」
顔をあげて声を出すと、思いのほか近くにアシュレイドの姿があった。思わず後ずさるが、肩を掴まれてそれ以上後ろには下がれなくなってしまった。
不機嫌な顔が、それでも整いすぎた端正な顔がまっすぐに夕莉を見下ろしている。
青い双眸が見つめている。青い眼球に映り込んだ夕莉は、今にも泣き出しそうな弱い顔をしており、それを認めたくないと言わんばかりに彼女は思いきり顔を背けた。
「私にとっては裏切り者です。
キルケ様の墓守を勝手に捨て、そしてあなたに刃を向けた。
私が殺すはずでした。彼に剣術を教えた私が彼を殺すべきでした」
大きな手が頬に触れる。
これは義手だ。魔族の肌に近く作ってはあるが、そこに生命の温度は存在しない。微弱な魔力で本当の腕のように動くように作られた精巧に義手でしかない。
夕莉が作り上げた技術で製作された最初の腕だった。
その義手は包むように夕莉の頬を撫ぜ、俯いていた顔を上に向かせた。
青い双眸が見える。
表情は変わらない。不機嫌そうないつもの顔。
「ヒューゲルはあなたを救おうと奮闘し、そして役目を果たして死にました。
私ではできないことを彼がやり遂げたのです。
どうかヒューゲルを褒めてあげてください。彼の墓標に、本懐を遂げた彼を褒め称えてあげてください。ナナセ様」
本懐? 告げられた言葉に息が詰まる。
大魔導師の墓を守り、いつしか大魔女の復活祭に捧げる人形を迎えることを命じられた緑の一族。それを裏切り、一族の命を見捨ててまで成し遂げようとしたことが大魔導師の転生体に殺されること。
アシュレイドはそう言いたいのだろうか。
「そんなわけねぇだろ。
アイツは……僕に殺されることなんて」
「ヒューゲルの本懐はあなたを導くこと。
死ではなく、もっと先に。あなたが孤独でなくなるように背中を押すことが彼の本懐でした。命を賭してでも……」
「そんな……わけが。つかお前に分かるわけ――」
「分かりますよ」
アシュレイドの顔に微笑が浮かぶ。
滅多に表情の変わらない無愛想な顔が微笑む。
酷く優しく。
「私はヒューゲルの友で、師ですから」
それが、辛かった。
「行ってあげてください」
「……分かった。そのうち……な」
顔を背けたくてもアシュレイドの手は夕莉の頬を放しはしない。
まっすぐに見詰め合ったまま、微笑を凝視するしかなかった。
「ふふ……私も……不謹慎な男です」
自嘲するように呟くアシュレイド。
触れる手に体温は存在しない。けれど震えているのが分かった。
「想い人を亡くしたあなたに酷いことをしている。
傷つかないはずがないのに。
想い人を自らの手で殺めた現実にあなたが傷ついてないはずがないのに。
それなのに私はあなたにヒューゲルのことを話している。
…………最低ですね」
「お前はっ……悪くなんか、ねぇ……よ」
言葉が震える。
どうしたらいいのか分からない。
この腕を振り払って逃げればいいのか。
思いつく限りの言葉でアシュレイドを罵倒すればいいのか。
色んな感情でぐちやぐちゃの頭では何一つとして分からなかった。
「ナナセ様……あなたは本当に…………お優しい」
筋肉質な腕が背中に回る。抱きしめられたのだと気付いたのは、少しだけ屈んだアシュレイドの頬が触れたのと同時だった。
頬が熱い。
声が、近い。
「愛しています。ナナセ様」
耳元で囁かれ、顔が熱くなる。
胸の痛みがさらに増して、心臓が潰れるかと思った。
「今ではなくていいのです。
ずっと、永久に私はあなたを想います。
ですからいつか……いつの日か、私を見てください……ナナセ様」
一度だけ強く抱きしめられた。
なすがままになっていた夕莉は何も答えず、無言のままアシュレイドの体温を感じていた。
ふいに抱き締めていた腕が離れ、アシュレイドの灰色の髪が揺れるのが見えた。
「……私は、行くから」
振り返らないように。
それ以上喋らないようにアシュレイドの横を通り抜けた。
ドアノブを掴み、回して外へ出る。静かな廊下を見渡して大きく息を吐いた。心臓の音はまだ煩い。
顔はきっと真っ赤なのだと思う。
膝が笑っている。
情けない。
夕莉は苦笑した。
きっとこんな姿じゃあヒューゲルの墓になんていけない。
彼には強いところを見せたいのだから。笑われぬように。
「……もう少し落ち着いたら言うから……
ヒューゲルが私に気付かせたかったこと、ちゃんと言うから……
もう少しだけ待ってて……アシュレイド」
小さく呟いて歩き出す。
静かな室内でアシュレイドは吐き捨てるように呟いた。
「嘘つきですね……私も。
永久なんて、私には用意されてなどいないのに」
義手を見下ろして笑う。
悲しそうな顔で。
「それでも……愛しているのです。
ナナセ様…………愛しています」