早足で廊下を進む。今日は不思議なくらいにメイドたちとすれ違わない。何よりも付きまとってくる――違う。身の回りの世話をしようと張り付いているクラリスがいないのだ。
 普段ならば鬱陶しいと思うこともあったというのに。
 いなければいないで違和感を感じて仕方がない。
 よくよく考えれば昼食の差し入れにだって来ていないではないか。曜日的に考えれば、そろそろニヴルヘイムの近海で獲れた魚を用いた料理を持ってきてくれるはずなのに。個人的に好物であるソレが食べられなかったことに気付き、夕莉は思わず足を止めた。
「……戦争続きで海が騒がしかったからな。
 きっと魚が獲れなかったんだな。かといって昼食抜きとか……」
 ついさっきまでは緊張していたらしい。特に感じることのなかった空腹感が津波のように襲いかかってきた。こういった感覚は気付かないほうが幸せだと思う。
 空腹に気付かなければ三日くらい何も食べなくてもどうにかなる。
「だよな。戦ってる最中だってうっかり拠点から離れすぎて迷ったりもするもんな。まあ、その場合は狩ればいいだけだけどよ。平時に飯抜き……」
 そこまで考えて、夕莉は当然のように食事がある生活に慣れ切っている自分に気がついた。
「今のがある意味異常だってのにな」
 苦笑を浮かべ、頬を掻く。
 ニヴルヘイムに来てから三年と少し。それより前は最低限の食事はとれていたが、今ほど豊かではなかったし、空腹という感覚を忘れるくらいには飢えていた。
 少しばかりアバラの浮いていた体はどこへやら。今となっては肉付きのいい――正直良すぎる気もするが――それなりの体型になった。
 それもこれもクラリスが用意してくれる大量の食事のおかげだと。
「深山たち見送ったら街で何か買って帰るか」
 メガネの良く似合うメイドを脳裏に描きながら再び歩き出す。
 勝手の分からない深山とは違い、シュテルンは最低限の荷物で出発することだろう。船自体が夕方になる前に発つと言っていたのだから、急がなければ旅立って行く船を見送ることになってしまう。
 相変わらず空腹を訴える腹を恨めしく思いつつ、夕莉は歩幅を広げた。
 殆ど走っているようなものだ。
「あら? ナナセ様。そんなに急いでどちらへ?」
 書類片手にのんびりと歩いているのはメーアだった。黒くて長い髪を揺らして、のほほんとした笑みを浮かべている。
「深山……っと。陛下の見送りだよ」
「まあ!」
 踵を返し、夕莉と同じ方向に歩き出すメーア。魔族の女性であるせいか彼女の身長は夕莉よりだいぶ高い。それに伴って足の長さも夕莉とは段違いであることは知っていた。
 だからといって小走り状態になっている夕莉の横でのほほんとした歩調で歩かれては、なんだか理不尽なものを感じてしまう。
「だから急いで……」
「ナナセ様は本当に陛下想いの素晴らしい家臣ですわ。
 そのような御方にお仕えすることができて、このメーアは幸福の極みにございます」
 先ほどまで抱えていた書類はどこへやら。
 両手を胸の前で合わせて、黒い双眸をキラキラと輝かせている。きっと今なら目の中でオリオン座辺りを見つけることができるに違いない。
「褒めてくれてありがとな。じゃあ急いでっから」
 キラキラ輝く眼差しを向けられても困る。吐きだしかけた言葉を飲み込んで、夕莉はメーアに背を向けた。歩調を速めても背中を見つめる黒い双眸の温度が変わらない。
 純粋な子供のように慕ってくれるメーア――というわけではないのだろう。
「……女って分かんねぇよ……キルケのことはあんなに嫌いなのによ」
 自分が自分ではなかった時間。そこの記憶をまったくもっていないならば、彼女からの想いに違和感を覚えることなんてなかった。だが、数日前に見た夢程度には残っている記憶が違和感を訴えかける。
「……同一視してない……ってことならいいんだけどな」
 独り言を呟いたとしても何も解決しないのは分かっている。
 夕莉は頭を振ると、何も考えなかったと自分に言い聞かせるように走り出した。
 港までは走っても時間がかかる。
 大鎌に乗るか否か。夕莉は窓の外を見遣り、小さく名前を呼んだ。
「カロン」
 刹那、窓ガラスの向こうに黒い柄と赤い刃の大鎌が姿を現す。
 冷たい金属の友人は器用に体を動かし、夕莉に乗ってよとおねだりする。
「あぁ。今行くよ」
 夕莉の顔に薄い笑みが浮かぶ。利き手で窓ガラスを開け放ち、左足を窓枠にかけた。
「深山んトコまで行くぞ、カロン!」
 飛び出した夕莉を受け止めた大鎌は頷くように体を上下させ、そのまま風を切って前進した。舵をとる必要のない武器兼乗り物兼友人は、平和な空を跳ぶことに喜びを見出しているかのようにも思えた。
 深い緑の森。その上空を駆け、復興途中の集落を見下ろす。
「このまま平和ならいいんだけどな」
 平和は長く続かない。本能に近いところが叫んでいるが、人間と和解が済んだというのにこれ以上どこに敵がいるのか。
 いるはずがない敵を想定して民を不安がらせてはいけない。
 それは夕莉にも分かりきっていることだった。
 しかし彼女の胸に過ぎる不安の一つ一つは重なり合い、今にも形をとって暴れだしそうなほどに膨れ上がっていた。
「――クラリス……」
 姿を見せないメイド。
 クラリスと同じように他の八人も姿を消しているのならば、何か意味があるのかもしれない。大賢者さえも知らない情報を記した書物を手渡された瞬間から、何かを感じていたのかもしれない。
 ただ、信じたいだけで。
「杞憂でいてくれよ。杞憂で」
「おおぉぉぉぉぉいっ!!」
 暗い表情をしている夕莉の耳に元気な声が聞こえた。
 視線を向ければ、そこには両手を振っている裕梨の姿があった。
「やべ、もう港についたのかよ」
 考え事に夢中になりすぎてた、と呟きながら大鎌の柄を軽く叩いた。夕莉の言いたいことを察したか、大鎌はゆっくりと地上へ向けて降下を始める。
 次第にはっきりしている風景の中には、裕梨だけではなくシュテルンやスルトの姿もあった。ついでに言えば、あと数人の人間と魔族たち。
 全員が全員、火の国へ向かうわけではないが準備係としてついてきてくれたらしい。
「七瀬ー! 通り過ぎるのかと思ったぞ」
「悪い悪い。思ったより空気が気持ち良かったから夢中になってた」
「へぇー。じゃあ今度、オレも乗せてくれよー」
「ん、あぁ。じゃあ帰ってきたらな」
「サンキュ。七瀬」
 笑う裕梨。
 含むところのない会話は、地球にいたころを思いださせた。悪い記憶ばかりではない、むしろ彼との記憶は暖かいものばかりだと覚えている。
 夕莉は不器用に微笑み、裕梨へと手を差し出した。
「深山、いって――」
「ハイハーイ。ここからはオレ様の出番な?」
 割と骨ばった男らしい手が夕莉の手を掴む。拳で戦うクセに爪の手入れがしっかりされているうえに、細かい細工まで入れているのが憎らしい。
 よその国に勉強に行くはずのシュテルンは、今日も女装にしか見えない格好で自らを飾り立てていた。
「いや、離せよ。僕は深山と」
「いいから黙れって。
 オレの言うことを忘れるなよ?
 オレは白の一族、シュテルン=ヴァイス=フラロウス。
 オレの忠誠はお前に、オレの愛はすべてお前に。
 応えるのなら口付けを……この血に」
 どこか笑んでいるようにも見える顔。
 白い手に歯を立て、ぷくりと浮かぶ赤い血液を差し出された。
「……どういう風の吹き回しだか」
 呆れたように呟く夕莉に笑いかけ、
「お守りみたいなもんだよ」
 シュテルンは苦笑を浮かべた。
 その唇が声を出さずに言葉を紡いだのを夕莉は見逃さなかった。
――本当はもっと早くにできたのにな――
「……双黒の大魔女、僕は七瀬夕莉……お前の忠誠と愛を受け入れるよ」
 白い手に浮かぶ赤い血液に唇を這わせる。
 不思議な光景にぽかんとしている裕梨。彼を除いた人間や魔族たちは、この光景に言葉を失っていた。
 捻くれ者のシュテルン。個人的に気にいったとして、誓いまでたてるとは思わなかったと誰かが呟いた。それは夕莉としても同意だった。
 友人にはなれるかもしれない。けれど、仲間にはなれないだろうと思っていた。
 ――そう思っていたのは、夕莉だけだったのかもしれない。優しい微笑とともに愛しそうに黒髪を撫でるシュテルンを見上げ、そう思った。
「じゃ! 行って来るからな、ナナセ」
「あぁ。元気でな。深山にケガさせんなよ」
「当たり前だろ。大事な大事な陛下だからな」
 笑うシュテルンに手を引かれ、裕梨が歩き出す。
「七瀬! 帰ったらあの鎌に乗せてくれよーっ」
「分かってる。約束だからな」
 二人の姿が船の中へと消え、継いで魔族たちが乗り込んでいく。それより遅れて人間達が乗り込むと、なぜか最後にスルトが残った。
「お前も行くんだろ?」
 夕莉の言葉にスルトは深く頷き、
「……ユーリは必ず守ります。
 私を信じて下さったあなたに報いるために」
 低く囁いた。
「……あぁ」
 身を翻し、船に乗り込むスルト。
 その長身が視界から消え、しばらくして船が動き出した。
 港に集まった魔術師たちが祝詞を上げ、ニヴルヘイム全体の海流を大人しくさせる。外から敵が侵入してこないようにしていた自然の要塞は、戦の終わりと共に少しばかり厄介なものになった。
 外との貿易を行うために、この場所には専属の魔術師をつける。
 まだ納得していない貴族も存在するが、これは以前のように力で黙らせるのではなく、長い話し合いで決まっていくことだろう。
 外と関わり、ニヴルヘイムにはないものを取り入れ、変わっていくのだろうか。
 夕莉は唇に付着した血液を指で拭った。
「ずいぶん、増えたよな。こういうのも」
 最初は一人だった。
 いつの間にか増えていた。
 いつの間にか変わっていた。
 それを悪く思っていない夕莉の唇には自然と笑みが浮かぶ。
「あとは減るだけだけどね」
「おま……」
 空気の読めない真は今までどこにいたのか、両手にイカのような生物を焼いた土産品を持った状態で姿を現した。中性的な顔には嫌味ったらしい笑顔が一つ。
「クラリスもどっか行ったみたいだし、お前の友達は減っていくだけだよね。
 深山も遠い空の下。寂しい?」
「……はぁ」
 大きな溜息を吐いた。
 噛みついてもいいが、乗り気ではない。
 基本は理知的な真。それがこんなにも幼稚な行為をする理由が分からない。キルケの魂を持っているということが理由だとすれば、好きな人に幼稚な部分を見せるだろうか。ええかっこしいの真が。
「僕に何言っても、意味ないんだからやめとけよ」
「……!! な、七瀬っ」
 背を向けて、城に帰ろうと顔を上げた。
 視界の先で見覚えのある顔が手を振っている。セリスのようだ。
「ナナセ様。探しました」
 長い水色の髪を一本に編み、暗い青の双眸は今までずっと走っていたのか疲労困憊している。
「呼んでるみたいだから。
 じゃあな」
「七瀬!!」
 振り返ることなく夕莉はセリスと肩を並べて歩き始める。
 手を伸ばし、もう一度名を叫ぼうにも二人の姿はすでに小さくなっており、とても真の声では届かないような気すらした。
「……ボクは……」
「今のナナセさまは優しいから。
 ボクはナナセさまのお傍にいよっ。きっとシュテルンみたいに受け入れてくれる気がするんだよね。
 ボクのアイはナナセさまにあげようっと」
「……グレイ?」
 いつの間にそこにいたのか、ヴァンパイアのグレイが楽しそうにニコニコと笑いながら背中の羽を羽ばたかせていた。今にも飛び立ちそうな体にしがみつき、
「裏切る気かヴァンパイア! キルケに命を救われておいてっ」
 同じ古の時代から存在するからこそ、グレイの言葉に耳を疑った。
「裏切る? 違うよ!」
 子供っぽい仕草で怒りを表すグレイ。
 戦のときとは別人のようだ。
「キルケさまはボクの一番だけど、ナナセさまだってボクの一番なんだよ。
 ボクは欲張りだから二人とも一番でないと嫌なんだ」
「な、なんて……」
 突拍子もない発言にずるずるとその場に崩れ落ちる真。
 その顔を覗きこんで、グレイは口を開いた。白い牙が見える。
「マコトさまは違うの? どっちかだけで、いいの?」
「それは、もちろん……」
 グレイが笑う。
 それは子供のような無邪気な笑みではなく、魅惑的な夜の王の名に恥じない邪悪な笑みだった。
「ほんとうに?」
 囁くような声音で呟かれた言葉が頭の中で響く。
「ほ、本当……だよ」
「うそつき」
 クスリと笑ってグレイが飛び立つ。
 一人残された真。頭を抱えながら交錯する二つの名前と姿に胸を騒がせた。
「……ボクは、ボクは迷ってなんか……ずっと、ずっと……
 ナナセ……キルケ……?」


 思いだしてください。
 思いだしてください。
 あんなにも近くにいたのです。
 あんなにも近くにいたのです。
 思いだしてください。
 思いだしてください。
 私はあんなにも近くにいました。
 ボクはこんなにも近くにいます。

 思いだしてください。
 ボクを、思いだして。

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