「人間の王はもう帰るのか」
「やっぱ色々忙しいみたいなんだよな。
オレももう少し話とか聞きたかったけど、仕方ないよな」
「申し訳ない。ですが、ニヴルヘイムで学んだことは、祖国に戻ってからも生かそうと思います」
荷物を――主にニヴルヘイムのお土産を詰め込んだ鞄を抱え、スルトは笑った。まるでどこぞの旅行趣味の男のような姿は、どこからどう見ても一国の、しかも数の多い人間たちを治める王の姿とは思えない。
平和そうな姿を横目にシュテルンは息を吐く。
人間とはかくも平和な生き物だったろうか。あれほどに獰猛で脆弱な生き物もないと思っていたが。
思い違いだったろうか。
裕梨やスルトを見ているとそう思えた。
呆れ顔のシュテルンとその目に気がついたスルトの視線がぶつかる。
「ふむ」
考え込むかのような仕草。
「なんだよ。ニヴルヘイム一の美貌に惚れたか?」
「シュテルンさんっ!?」
あまりにもな発言に裕梨の肩が大きく跳ねた。
「美しいのは間違いありませんが……やはり、見覚えがある顔をしていると思いまして」
食い入るように見つめる眼差し。
深い空の青は魔族が敬愛して止まない、魔神王アスタロトと同色の青。
輝く金の髪もまた、アスタロトと同じ色をしていた。
違うのは、野心に満ちぬ穏やかな双眸くらいであろうか。
肖像画のようなその姿に魅入られそうになり、思わず息を呑むシュテルン。その内心を読んだかのようにスルトは笑った。
「似ていますね。白に頭髪と赤の眼に……けだるそうな顔立ちは」
「けだるそうってなんだよ。性的って言えよ」
「似たような意味ですよ」
笑いながら告げられ、シュテルンは反射的に頬を膨らませた。見た目が若い魔族だからこそ赦されるクセであると、以前に夕莉が言っていたのを思いだす。
もしも見た目が年齢通りの中年であれば、即座に首を落とされても文句を言うなと真顔で告げていた。だがいいのだ。
美しいのだから。シュテルンは本気でそう思っていた。
「え? なんでだるそうなのと性的なのが同じ意味……?」
きょとんとしている裕梨を振り返り、
「いいのですよ。我が友、あなたはキレイなままでいてください」
人間の王は腹立たしいくらい爽やかに告げた。
「おい、テメェこのやろう」
本音がだだ漏れになる。本来の立場を考えるのならば発言を慎むべきなのだろうが、そんなことは正直言ってどうでも良かった。
聞きたいことは唯一つ。
「おい。スルト――」
「もう少し真面目な話をしろよ」
窓が大きく開け放たれた。
飛び込んできた声は怒気を孕み、向けられている視線はやや冷たかった。年頃の娘の反応だと思うよりも先に、言葉を遮られたことに対しての怒りが飛び出た。
「おい。ナナセ!
オレ様が喋ってるのに邪魔すんじゃねーよっ」
「うっせぇ! タイミング見てりゃシモネタ言いやがって!
おっさんかテメェは!」
「美しいおっさんだ!」
「認めんのかよ……」
あまりにも堂々とした立ち振るまいに思わず息を吐く夕莉。
その漆黒の双眸はシュテルンのさらに向こうへと向けられた。
「あ、深山……」
「……七瀬っ!」
絨毯の敷かれた床を蹴って裕梨が飛び出す。
窓から上半身だけを出していた夕莉の顔が驚きに満ち、そのまま少しだけ照れたような笑みが浮かび上がった。
普段の表情は大人びていても、そういった表情は年相応の子供なのだと思える。次の文句を考えていたシュテルンの表情も緩み、下がっていた口角が無意識の間に持ち上がった。
「もう体はいいのか? 痛い所は? 苦しくないか?」
両肩を掴んで顔を覗きこむ。
間近に迫った顔から少しだけ目を逸らし、
「大丈夫。
どこも悪くない……」
ぽつぽつと答える。
「そっか……良かった」
安堵の笑みを漏らす裕梨。その顔を確認するように目をやり、すぐにまた戻す。その視線の先は真っ赤に絨毯であったが、頬を染める微かな赤は紛れもなく裕梨に向けられているものだった。
恋情ではなく、もっと深く、もっと強い彼女の誓いを表す感情が垣間見える。
「ユーリ……そちらが……」
「あ、すいません。えと、七瀬夕莉って言って、オレの――」
「七瀬夕莉。双黒の大魔女って呼ばれて」
「深い漆黒ですね。
すべてを呑み込む原初の闇と同じ色をしています。あなたは」
突然の言葉にスルトを除く、三人の動きが止まった。一人は意味が分からなく、一人は警戒を表し、もう一人は言葉を忘れるように。
「神の記憶が残ってる……とか言うなら消すぞ」
双眸を細め、大鎌に乗せていた足を折り曲げる、いつでも室内に飛び込めるよう体勢を整えた夕莉の声は静かでいて、同時に恐ろしいほどに冷たかった。
「な、七瀬……?」
いまいち状況の飲み込めていない裕梨の言葉を腕で制す。
「神の記憶ではありません。
これは、ムスペルヘイムに伝わる伝承の一部ですよ」
穏やかな微笑を浮かべ、スルトは右手を夕莉に差し出した。
「原初の闇はすべてを創る。
深き深き深淵の闇こそすべてが故郷。国に伝わる御伽噺のようなものです」
「……へぇ」
吐き捨てるように返事をし、体を完全に室内へと入れる。遅れて大鎌のカロンが器用に身を曲げて狭い窓枠を潜り抜けた。
「スルト=レーヴァテイン=ムスペルヘイムです」
「七瀬夕莉」
大きな手と小さな手。
二つが繋がれ、すぐさま離される。
見上げる漆黒の双眸は一瞬の隙も見せず、
「ニヴルヘイムの観光はどうでした? スルト陛下」
「学ぶことの多いものでした。
あなたの噂もたくさん聞きましたよ」
「ではでは次はわが国の番だと思いませんか?」
夕莉のやや芝居がかった仕草に裕梨が首を傾げた。
「七瀬?」
「と、いいますと?」
わざとらしく首を傾げるスルト。どうやら彼は、この大げさな話し方を楽しんでいるらしい。口元が子供の遊びを見守る大人のそれになっている。
それに気付いているのかいないのか、夕莉は芝居がかった口調と仕草のまま、
「わが国の王を火の国観光にいかがですか? と」
「それはいい案ですね」
あっさりとしたやり取りに驚いたのは裕梨ただ一人だけだった。
シュテルンはしめた、とばかりに指を鳴らしていたし、スルトはニマニマと笑っているし、夕莉も笑いはしなかったが唇の端を少しだけ持ち上げていた。
「な、七瀬も一緒に行くんだよな?!」
縋るように夕莉の肩を掴むが、その願いもむなしく。
「僕は調べごとがあるからな……」
よく見ると、とても深い色をしている幼馴染の少女の双眸は流れるようにシュテルンを見た。
「シュテルン。お前に任せっから」
「ご指名ありがとっ! ってな」
「キメェ」
吐き捨てるように言われるも、そんな細かいことに傷つかないシュテルンは、両手の拳を鎖骨の前で合わせたままウインクをスルトに向けた。
「息子の方! 光栄に思えよ? オレ様を連れて旅ができんだからなっ!」
「我が友。道中に分からないことがあったら、すべて私に聞いてくださいね」
「おぉいっ! シカトしてんなよ小僧!!」
出発前から騒がしい二人に、声で挟まれた裕梨。助けを請うような視線が夕莉へと向けられた。だがその視線に返すわけではなく、彼女は短く告げた。
「シュテルンがいりゃあ安心だからな。
頑張れ、深山。お前の帰りを待ってるよ」
縋るのは彼女だった。
いつの間にか逆転していた。
どこか大人びた顔には何かが確かに宿っていた。
それが何か分からない魔王。
強くなろうと誓った魔王。
震える拳を握り締めて顔を上げた。
「ま、任せろ!」
震えた声で笑った。
「さすがだな。深山」
返す夕莉の微笑が嬉しかった。
強くなろう、誓った意思が奮えていた。
「じゃあ僕は行くから。
気を付けてな、深山、シュテルン」
返しの言葉を待たずに背を向け、茶色いドアへと歩みを進める夕莉。
その耳に微かに聞こえたのは低く抑えたシュテルンの声。
「本当に……オレに似た人間がいたんだな?」
彼を裕梨に付けることは間違った判断ではない。
窓の外で様子を伺っているときに確信した。人間嫌いのシュテルンがこだわる何か、それが火の国にあるのならば、探せばいい。求めればいい。
壁はどこにもないのだから。
茶色のドアを開け、廊下へと踏み出した夕莉は無言のままに足を止めた。
ドアの閉まる音が重く、響く。
「ナナセ様」
毎日毎日聞いているメイドの声。
振り返った先には見慣れた眼鏡メイド、クラリスが数冊の本を抱えて立っていた。
「前に仰ってましたキルケ様の資料です」
「……頼んだか? まぁ、いいか」
受け取る前に自分の胸へと手を当てる。
確認するように息を吸い、確信した顔で小さく呟いた。
「時間もないしな」
「どうなされました?」
「なんでもない。ありがとな、クラリス」
分厚い本を受け取り、両腕で抱え込んで歩き出す。
「お役に立てて光栄です。ナナセ様」
背中に投げかけられる言葉はいつもと同じ響きだった。
ニヴルヘイムに来てから二年と少し、毎日聞いていた声は故郷とは違う懐かしさを感じさせ、同時にいつ壊れる分からないものの香りを抱いていた。
かび臭い本は今までどこにあったのか分からない。
少なくとも、この城にはなかった。
かといって黒の一族の領地にあったとも考えられない。
古いものの集まる黒の一族の城。だが、そこにも存在しない――エリゴールはキルケに関する書物の保管だけはしなかった。すべてネビロスに委ね、ネビロスもまた自らの脳にすべてを叩きこんで書物自体は燃やしてしまったと聞いている。
ならば、ならばこの本はどこにあった?
「……それほどまでに隠したいこと……ってところか?」
歩き慣れた廊下の先には、もはや住み慣れた自分の部屋がある。
傍を歩いているような動作で前進しているのはお供の大鎌。それにドアを開けてもらい、自室へと入った瞬間に出迎えたのは静寂だった。
「みんな静かだな。
…………たまにはいいか」
囁き声すら聞こえない無音。
床に一冊、机に一冊、手に一冊。ランプに火を灯して表紙をめくる。
しばしの無言は集中するための手段。
ぱらぱらと文字を指で追い、ページをめくる度に、口元に浮かんだ笑みが深くなっていった。
「そりゃ……隠したくもなるよな。こんな内容じゃあな」
ネビロスが隠したかった現実。
もしくは彼も知らない彼女の現実。
不可思議な本のページがめくれていく。
不思議な匂いのする本だった。
甘いような、苦いような。
それでいて懐かしい匂いがした。
――大魔女は死んだ。世界に喰われ、そして大魔導師になった。
この世界から解放された自由は呪いを生み出す。
いつかの時代に降り立つ魂なき人形を依代に甦った。
そして再び喰われる。
世界ではない、戦争と死の神によって喰い尽くされる――