足音が一つ。
 近い。すぐそこまで迫っている。
 身体を起こせ、腕を動かせ。
 今すぐに体勢を整えろ。
 のんきに寝ている場合じゃない。
 もう少しで体が動きそうな気がした。けれども四肢に力は入らず、
唇すら動く気配はない。足音はこんなにも近づいているというのに。
 夕莉はもう一度繰り返すように自らの四肢に命令した。
――動け!――
 閉じたままの瞼。その向こうで誰かが刃物らしきものを振り上
げたのが見えた気がした。


「――何をされるおつもりですか……!!」
 細い手首を掴む無骨な手。静かな黒の双眸はゆっくりと腕の先
をたどり、そこにある顔を仰いで苦笑を浮かべた。
「お前か。邪魔をしないでくれる? ボクはやることがあるんだよ」
「ですから……なぜ」
「離せと言ってるんだよ」
 漆黒の双眸に睨まれ、アシュレイドは息を呑んだ。見目は幼い
子供でしかないというのに、七瀬夕莉と同じくこの少年が纏う殺気
は歴戦の戦士のそれよりも恐ろしいものを感じた。
 か弱い人間の兵士であったならば、この殺気だけで命を落として
いても不思議ではない。
「ですが……」
 退くわけにはいかない。
 この手に握れられているものが殺意である限り。
「ナナセ様に何をなさるおつもりでしょうか」
「……お前はボクの部下だろう? ボクにたてつく前にやるべきこ
とをしろよ。
 七瀬の為を思うならお前は今すぐヒンメルに首を差し出すべきだ
ろう?」
「それ……は……」
 漆黒の双眸がまっすぐに見据える。
 光という光の一切を拒絶する深遠の闇は二つ。深すぎる黒に魅
入られてしまえば狂気に堕ちるか、従うかの二択しかないとは言っ
たものだとアシュレイドは思った。
 七瀬夕莉の宿す黒と酷似しているようでまったくの別物の黒。
 彼女の双黒をすべてを包みこむ闇とするならば、駿河真の双黒
はすべてを消し去る闇。そこにヒト――否、魔族としての温情は一
つとしてないように思えた。
 すべてを識りうる大賢者。
 その魂に幾億の知識を宿した永遠の旅人。
 アシュレイドは息を吐いた。
「人間との戦争は終わりました。
 私は……この首を差し出す機会を失いました。ですから」
「終わった? 何が? お前の目は何を終わったと認識したんだ、
アシュレイド」
 眠ったまま目覚めない夕莉を指して真が叫ぶ。
「人間との戦が終わった程度ですべてが終わってなるものか!
 始まったばかりだ! これが終わらなければキルケはボクの元
に還らない、人間の王など小さな敵でしかない!! それすらも分
からないのか落ちぶれた魔族どもは!」
 怒気に打ち震えた精霊たちが悲鳴を上げる。
 窓ガラスが揺れ、締め切ったままの窓を覆うカーテンがはため
いた。奇妙な魔力の渦が真を中心に生まれ、気味の悪い音色を
奏でている。
 まるで笑われているようだ。
 女のような、男のような、どちらともとれる音は次第に大きくなり
耳朶を激しく叩いていく。
「やはり必要なのは七瀬じゃない。キルケだ! 美しい夜にこそ未
来が必要なんだよ。
 だから邪魔をするな。ボクは今ここで七瀬を殺す!」
 渦巻く魔力をなぎ払う細い腕。
 携えられたナイフを見た瞬間、血の気が失せた。
 死ぬはずがない――それは、真にだって分かっていたことだと
いうのに。
「…………おのれ……」
 赤い血が滴り落ちて夕莉の頬を濡らした。
 刃の貫通した厚みのある手は小さく震え、その腕の先にある顔は
痛みに耐えるように歯を食いしばった。小さく呻き声が漏れる。
 青の双眸を細め、眉間のシワを深くするも苦痛に表情が歪んだ。
「邪魔をするなという言葉の意味が理解できないのかい?
 これだからなりそこないは、あぁ……同じなりそこないの七瀬とは
いい縁だね。
 二人の子供はもしかしたらりっばな魔族が生まれるかもしれない
よ。お互いの魔族の部分だけを引き継げばね。そうでなければ同
じなりそこないだよ。
 可哀想に。二人が役目を全うしなかったせいで生まれる命は生ま
れたことを悔やんで死んでいくんだよ。お前たちを憎んで死ぬ運命
の子なんて生まれないほうがいい――」
 乾いた音が静寂を呼ぶ。
 カラカラと床の上を転がるナイフは夕莉の眠るベッドの下へと潜
り込み、身を屈めても腕を伸ばしても届かない位置に落ち着いた
らしい。頬に赤い手形をつけたまま呆然としている真の肩が揺れ
ている。呼吸が荒いのは極度の興奮状態にあるからだろうか、そ
れとも何かしらの術を発動させようと魔力を練っている最中なのか
は分からない。
 だがアシュレイドは思い切り振り抜いた手を悔いてはいなかった。
「私は確かになりそこないです。
 それは認めましょう。けれど、ナナセ様は違います。彼女はなりそ
こないなんかではない、彼女はナナセ=ユーリその人です。そしても
しも……もしも、私とナナセ様の間に子が生まれたとしたら……そ
の子は大魔女の血を引く魔族の仲間です。
 なりそこないは私ひとり。私が存在する限り、私ひとりだけがなり
そこないなのです。
 こんな簡単なことをお忘れですか…………大賢者様」
 漆黒の双眸が揺れていた。
 眼孔から眼球が零れ落ちてしまうのではないかと思うほどに目を
見開き、唇を震わせて声にならない声で叫ぼうとしているようにも
見える。赤くなった頬を抑える華奢な手も細かく震え、それはもし
かすると怒りを表していたのかもしれない。
 カーテンが激しくはためく。
 目を閉じたまま動かない夕莉の黒い髪が揺れた。
「誰に……」
 真の手が風を切る。
「誰に口をきいているんですかっ!! なりそこないの分際で!!!!」
「――ッ!!」
 怒気と共に全身を襲うのは激しい風。まるで存在自体が刃のよ
うなそれは、ただ吹き荒ぶだけで必要なものと一部のぬいぐるみ
以外置いていない夕莉の部屋を切り刻んでいった。
 黒い綿が飛び散り、四散する。
 生ぬるい風に一撫でされた皮膚が裂け、頬を体温に近い液体
が伝った。
 殺される。咄嗟に感じたのは恐怖、だがそれよりも勝っていた
のは一つの感情。
「私はナナセ様を守ると決めました。
 もう二度と彼女を失わないと! マコト様……たとえあなた様の
命であっても、私は二度とナナセ様を裏切りはしません! ナナ
セ様のことを、私は――」
「形無き闇に愛を語ろうとでも? アレは人形ですよ、愛なんて存
在しません。
 魂に刻まれた想いで動く自我の無い操り人形なんですよ。キル
ケの足元にも及ばない、不完全な転生体は殺して完全な生命に
しましょう。今こそ大魔女の復活祭を」
 空気が揺れる。
 精霊を見ることのできないアシュレイドにも分かるくらいの大掛
かりな魔術構成。それは古の時代に栄えた魔術であり、同時に
今では失われた技術でもあった。
 大量の魔力と、幾千の精霊たちを消費して行われる大魔術。
 それは時として神の部下であった大天使を一撃で屠ることも
あったという。
 伝承でしか姿を見ることのなかった大魔術の片鱗が真の華
奢な手に宿った。
「これなら……お前を殺せるよ。
 七瀬。なりそこないなんかには邪魔をさせない。七瀬、今す
ぐ殺して……あげるよ」
 双黒の双眸が微笑む。
 密集した魔力は一振りの槍へと姿を変え、風の中で身動きのと
れないアシュレイドの視界を揺るがす。切っ先は夕莉の心臓へ、
迷いはない。
 殺される。
 夕莉が殺されてしまう。
「――フェアガンゲンハイト・シュペーア」
 古い言葉の羅列を聞いた。
 黒い光が一閃し、視界のすべてが黒に染まる。
 風が止み、音が消え、そして時が止まったように感じる刹那。
 辛うじて絞り出た震えた声は彼女の名前だけを呼んだ。
「ナナセ……様っ……!」


 大樹に揺れる人影が一つ。
 腹から血を流してゆらゆら揺れている。
 欲しいのは力。
 欲しいのは力。
 求めて求めて求めて求めて。
 ようやく手に入る力は器の中にしまってある。
 この槍で引き裂いて手にいれよう。
 前は失敗したけど今度は大丈夫。
 時間はすべての生物を弱体化させてくれたから。
 手に入れようか。
 世界をも打ち滅ぼす力を。


「バカにするな」
 弾ける音。
 黒い光の中に生まれるより黒く、暗い闇。
 闇から伸びた白い腕が槍を掴んで笑う。
「その程度の力で負けてたまるか」
 形のない槍を掴んだ手に力が込められた。
「七瀬……?」
 目を見開いたままの真が呟くも、白い腕は闇の中で一振りの
槍を握り締めて小さく震える。声など聞こえないかのように黒い
髪を揺らし、赤い唇に笑みを浮かべていた。
 光を宿さぬ漆黒の双眸には赤い絶望が宿る。
「抗う……滅びの運命に。生命体の限界を超える魂」
「――七瀬じゃない?」
 俯いた顔が前を見る。
 闇に阻まれた顔には黒い痣が浮かび上がっていた。それはまる
で紋様のようであり、同時に見えないものに侵食されている姿の
ようにも思えた。
 握られた槍が悲鳴を上げる。
 皹が入り、魔力が漏れだした。
「この娘が宿した魂は我が物。
 誰にもやらぬわ……我が産み落とした子であろうともな」
 赤。
 双紅。
 大魔導師となった夜が浮かんだ。
「キルケ? あなたは、こんなものを見ていたのですか……?
 それとも、あなたがこの…………」
 赤い唇が笑う。
 紡ぐのは短い言葉。
 古の言葉。誰も知らぬ禁忌の言葉。
「ディーサイド」
 刹那、闇が弾け飛んだ。
 黒い塊がすべてをなぎ倒し、一瞬でも気を抜けば頭蓋ごと持っ
ていかれてしまうのではないかと思うほどに。
 部屋に満ちた黒い光を呑み込み、そして姿を消していく。
 まるで最初から何も無かったかのように。
 けれどその爪跡は凄まじく残れさていく。壁が崩れ、本棚が消え、
飾られた赤い花が朽ちていく。すべてが呑み込まれる世界は酷く
恐ろしく、同時に懐かしい気すらした。
「ナナセ……さま? これは……」
 神殺し――ある伝承では双紅の大魔導師キルケが使用したこ
とがあるとされていた魔術。これにより神々の軍勢は多大な損害
を受けたと。
 これが同一のものであるとするならば。
 感覚の無い風に全身を撫でられながらアシュレイドは唇を噛んだ。
「……あなたに安息が訪れることは……ないとでもいうのですか」
 音が消える。
 すべてが消える。
 その中で聞こえるのは産声だと知っている。
 視覚に訴えるのではなく聴覚に訴える生命の胎動。
 大いなる闇が訪れた後には生命が誕生する。
 新しい精霊が生まれた。
 まるで創生の時代のように。
「お前ら……ヒトの部屋でなにしてんだよ」
 夢うつつな二人をアシュレイドを見上げるのは夕莉の姿。服装
は寝巻きではなく、いつもの彼女専用の軍悪。改良に改良を重
ねた特別な衣服を揺らし、底の厚いブーツの踵を鳴らして歩いていた。
「ナナセ様……?」
「せっかく戦争が終わったんだからこれからのこと考えるべきだろ。
 深山探して相談しないとな……それにしても僕はやたらと寝てた
みたいだな。
 背中がいたくて仕方ねぇ」
 しかめっ面で窓を開ける夕莉。
 先ほどの騒動なんて一つもなかったかのようだ。
「そういや」
 振り返る漆黒の双眸はいつもと同じ張り詰めた黒。
「なんで駿河が倒れてんだ?」
 絨毯の上で横たわっているのは目を硬く閉じた真。それを見下ろ
して夕莉は頭を掻いた。
「徹夜で看病とか言うなよ。
 キモい。つーかコイツがんなことするわけねぇか」
 なんて言葉を返していいのか分からなかった。
 だが、アシュレイドは口を開いた。
「貧血ですよ。
 ナナセ様のために水を汲んでくる最中に倒れてしまいました」
「ひ弱だなおい」
 驚いたように瞠目する夕莉。
 そのすぐ後に真の傍でしゃがみこんで手を伸ばす。
「お前がんなことするようには思えねぇけどな。
 少しは体鍛えろよ、貧弱野郎め」
 悪戯っぽく笑う顔は年相応。
 その身に何かを宿しているようには思えなかった。ましてや魂の
半分が欠けているなどとは微塵にも感じられなかった。
 だが、
「あぁ。そうだアシュレイド……」
 ふと浮かべる静かな表情は歴戦の戦士。
 終わりを知る命の浮かべる表情だった。
「時間がないからな。
 深山たちと話が終わったら僕は少し調べモノしてくる。後は頼んだぞ」
 触れることが赦されるのなら。
 アシュレイドは伸ばしそうになる手を抑え付け、ぎこちない笑み
を浮かべた。
「はい。ナナセ様」
「ありがとな、アシュレイド」
 返事に笑う夕莉の顔は酷く寂しそうだった。
 漆黒の双眸には小さな光が宿っている。少しでも目を逸らせば
見逃してしまいそうなくらいに小さな光が。
 それが希望であればいいのに。
 希望であれば。

 

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