「ひゃくはちじゅう……ひゃくはちじゅういち……」
 ぶつぶつと数を数えるユーリスの手が実体のない炎の矢で
射抜かれる。鮮血を迸らせ、悲鳴を上げそうになったのをグッ
と堪えた顔には他にも数え切れないほどの傷があった。
 泣きだしそうな顔で血の滴る手を水晶へと翳す。
 ぼんやりと映りこんでいるのは闇の中に佇む一人の姿。
 真紅の髪と双眸をもった女性――かつては女性であったその
人がこちらに気付いたかのように目を向けた瞬間、乾いた音を
たてて水晶が砕け散った。
「またですか」
 聞こえた声にユーリスが体を震わせる。
 手は新しい水晶へと伸ばされ、急いで魔力を込めるもすぐに
それはただの硝子球のように砕け散ってしまう。
「……その程度の水晶では彼女を捉えることはかないませんか。
 あなたの魔力が弱すぎるというわけではない。むしろ逆のようで
すし……あなたはいたぶればいたぶられるほど力を発揮する。
それが生存本能から来るものなのか、はたまた性癖なのかは知り
ませんが」
 振り上げられた腕から降り注ぐのは氷の針。全身に襲い来るそ
れを避けようにも、足は折れていて動かなかった。皮膚を裂き、肉
が抉られる。
 悲鳴をあげる余力も残っていない。
 魔力を使いすぎたと脳の奥で騒いでいる。だが目の前の少年は
無表情のまま、
「殺す寸前まで追い込めば、もっと素晴らしい力を発揮できるかもし
れませんね」
 呟くように告げた。
 背筋が冷え、頭が真っ白になった。
「マコト様! いくら大賢者様とはいえども……やりすぎです」
「誰ですか、あなたは」
 振り返ることなく告げられた言葉。
 魔族からすれば赤子同然の年である真がそのような態度をとれる
のは、彼の魂がかつて魔神王アスタロトとともに神を――スルトを打
ち倒した大賢者ネビロスのものであり、ただの転生体ではなく記憶と
力すべてを継承しているがゆえ。
 どのような生命として生まれようとも、彼は気の遠くなるような年月
をニヴルヘイムと共に過ごしている。今や、魔王とて彼には逆らえな
いのだ。
 魔神王の転生体である深山裕梨を除いて。
「あぁ……分かりました。セリスですね、あなたがこんなところに何の
用です?」
 見たものすべてを凍てつかせるような冷たい眼差しに射られ、女は
しばし言葉を失った。丁寧に編みこまれた水色の髪を魔力で紡がれ
た風が撫で、暗い青の双眸は血と涙に塗れて蹲っているユーリスを
見ていた。
 手足が震える。
「せ、セリス……ジークルーネ。看護兵をしています……」
「知っていますよ。あなたの一族は代々優秀な看護兵を生み出して
ますからね」
 眼鏡の奥の漆黒。嘲笑うように細められ、細い腕は何もない宙を
撫でる。
「ユーリスの一族も代々占い師をしています。
 その力を借りているのですよ。
 あなたが口を挟んでどうするのです?」
「我々は一族の掟に従い、あなた方に忠誠を誓っています。けれど
……このような仕打ちをされては――」
 セリスの言葉が詰まる。
 冷たい漆黒に睨まれ、息を呑んだ。
「私が何も知らないとでも思っていますか? セリス」
「う、あっ……!!」
 見えない手が頭蓋を握りこんでいる。
 ミシミシと嫌な音をたてる頭蓋とブレる視界。幾重にも重なる真の
顔には変わることのない笑みが浮かび、足元で新しい水晶へと手を
翳したユーリスの双眸から涙が零れ落ちた。
 金色の髪は血で汚れ、いつもなら澄んでいる青の双眸はどんよりと
濁り始めていた。
 人間との争いにも決着がついたというのに。彼が何を求めるのか、
記憶を継承した過去の英雄は何を求めているのか。
 分からないと言うようにセリスは目を閉じた。
 歯を食いしばり、訪れるであろう時を待つ。
「潔いですね。
 退屈な女だ……古の時代から存在していた血も最早腐敗しましたか。
 ――いっそすべて壊れてしまえばいい。私の愛しい夜と私さえいれ
ば、それで」
 真の言葉を遮るように水晶が砕ける。破片で手を傷つけたユーリス
は新しい水晶を拾おうと震える腕を伸ばし、耳障りな呼吸音で言葉を
紡ぎだした。
「ずっと……考えて、ましたわ。
 水晶が砕ける……理由を。キルケ様の仕業ではない、原因を」
「ユーリスっ」
「何が分かったというのです? あなた程度に」
 セリスから視線を逸らし、ユーリスを見下ろす。冷たい双眸に見据え
られた小さな体が強張り息を呑むが、歯の根を鳴らしながら口を開いた。
 青の双眸は涙が溢れている。
 一粒、二粒とこぼれて頬を伝った。
「マコト様は……何を、お望みなのですか?
 キルケ様を求めているの……ですか」
「それ以外に何があるというのです」
「邪魔をするのです……赤い炎を捉えようとすると……形のない闇が、
水晶を砕くのです……わたしは……マコト様の、心を介してキルケ様
を……探しているのに。
 あなた様の心が……迷って」
「――愚かな」
 感情のこもらない言葉が紡がれると同時に、ユーリスの体は見えな
い糸に引っ張られるように壁へと叩き付けられた。
「ユーリス!!」
「黙りなさい」
 絶叫をあげたセリスの体が床に叩き付けられ、そのまま動かなくなる。
 双方共に生きているのかは分からない。もしも死んだとしても代わり
はいくらでもいる。今はあの時代ではない、九人の女戦士が活躍した
時代は終わりを告げたのだ。
 今や城に仕えるメイドとなんら変わらない。ただの兵士でしかない。
 それらを見下ろし、真は自らの胸へと手を当てた。
「私の心が迷っている……? そのようなこと、あるはずがない。
 あの時代から私はずっと…………そう、ずっと想い続けているんです。
 美しい夜のことだけを、忘れぬために記憶を継承しているんです……」
 脳裏を過ぎる過去の姿。
 まだ彼女の髪は黒く、双眸も漆黒だった。笑うことは少なく、多弁では
なかったけれど多少の会話が愛しかった。
 庭に咲く白い花を仰いで語らったあの時間が愛しかった。
 時が過ぎて少女の片隅に女性が見え始め、抑えられないと思った。
 髪の香り、瞳の輝き、唇の言葉、その腕の温度――すべて忘れぬよ
うに、いつまでも想っていられるように、たとえ叶わぬ想いであっても、
永久に愛せるようにと願った。
 冷たくなった体を抱きしめ、魂水晶の柩に埋葬したその瞬間からずっと。
 美しい夜は赤い炎の如き強い女。
 求めて焦がれる自らは羽虫かもしれない。それでもいい。
 あの夜に焼かれて死ぬのなら本望だ。
 ――形のない闇。カタチを持つことのできない闇など心においてなる
ものか。
「……どうして、お前はボクを覚えてないんだ……?」
 ぽつりと漏れた言葉。
「……ボクを見ろ。ボクを、見ろ」
 赤い炎を想えば想うほど闇に沈む少女から目が放せなくなる。
 頭を支配する形のない闇を振り払うように真は顔を上げた。足元の水
晶を一つ拾い上げ、魔力を込める。
 浮かび上がるのは大魔導師キルケその人。
「……愛してます。永遠に、貴女だけを」
 囁くように告げると同時に水晶が砕ける。
 破片は頬を掠め、僅かに血が滲んでいたが、それを拭うことはせず
に真は歩き出した。夜が更け、朝が訪れる。
 もうじき帰ってくるだろう友人の姿を思い浮かべ、そして目覚めぬ人形
を想う。
「七瀬を殺してキルケの魂と融合させればいいのか。
 そうすれば――――はボクだけのものに」





 白い花はまだ蕾。
 どのような想いを秘めて開花の時を待っているのだろう。
 アスタロトと酷似した容姿をもちながら美少女と謳われるエリゴール
の末娘は、花壇の前でぼんやりと立ち尽くしていた。
 昨晩から帰ってこない魔王陛下を待つように。
「……はぁ」
 思わず溜息が漏れ、慌てて口を手で抑える。元王族だというのにこの
ようなはしたないことをするなんて。自分を戒めようと目を閉じ、頭の中
で叱責の言葉を探す。
 しかし溢れてくるのは――
「まだ……帰って来ませんの? ユーリ」
 人間の王と共に城を出て行った魔王への言葉ばかり。戦争に勝利し、
人間たちは途端に大人しくなったとはいえど、何があるかわらかないと
いうのに。
 メイドを三人連れて行くだけだなんて迂闊過ぎる。
 その場に自分がいたら意地でも付いていったのに。かつて魔神王ア
スタロトが実子のためにと鍛え上げた剣を継いだ自分が、命に代えて
でも守るのに。
 こんなことを言えば、きっと彼は怒るのだろう。
 魔王なのに争いごとを嫌うその姿勢に一度は城に集う魔族たちに見
放され、特殊な立場にあった大魔女のみが味方だった。それは今でも
あまり変わらないのかもしれないとも思う。
 魔神王の転生体として大切にされてはいる。
 けれど、ユーリ=ミヤマという存在は無意味なものとして、ただの器と
してしか考えられていない。だからこそ護衛を付けずに出て行くことを
許され――否。このような時期に四英雄が王の傍を離れていた。
 魔神王の転生体が訪れるから安泰だと思っていた彼らにとっては、
思いのほか使えない魔王だったことで色々と予定が崩れたのかもしれ
ないが。
 王族として過ごした日々を想いながらアイリーンを空を仰いだ。
 気付けば二度目の夜が訪れている。暗い、闇色の空には小さな光の
粒が瞬き、その存在を主張している。
 鼻先を掠めるのは甘い匂い。
 後少しで開花するのか。
 古の時代よりあり続ける白い花が。
 この城と共に、この国と共にあり続ける白い花。
 かつてここで行われた継承式を思い出す。一番上の兄が、今は亡き
ホルスが魔王となった日、赤の一族の当主がゾンネとなった日、ヒンメ
ルが母親より当主の座を受け継いだ日、シュテルンがより優れた白の
一族の当主として祝福された日、姉が黒の一族当主となった日。白い
花は見守るように咲き乱れ、甘い香りと花吹雪で祝福してくれた。
 それは――裕梨が魔王となった日も。
 室内で行われていたせいで白い花を見ることはできなかったけれど、
彼らは咲いていてくれた。代わる代わる世話をし、何代にも渡って大切
にしてきた。
 キルケの愛した花。
 アスタロトに愛された花。
 ニヴルヘイムに咲く花。
「……早く……ユーリ」
 知っていますか? この花は私たちを守護してくれるけれど、同時に
この花はたくさんの魔族の血を吸っているのよ。魂すらも吸い取ってし
まうの。
 この花が咲く場所で誓ってはダメ。
 叶わないどころか悲劇を呼ぶわ。
 幼い頃に聞いた言葉。
 それが誰の言葉かは知らないけれど、誰に話しても首を傾げられた。
そんなやつは城にいない。繰り返し繰り返し思い出す言葉。
 この場所で誓ってはいけないよ。
 魔族と共にある白い花。
「無事に帰ってきて……」
 月明かりに照らされたその姿は神秘的。
「何してんだ? アイリーン」
 月明かりの下で彼は訪れた。
 漆黒の髪に花飾りを付けて、なぜだかゴテゴテと飾り付けられた状態で。
「ユーリ!!」
 叫ぶように名前を呼んで駆け付ける。その身に怪我はないか、どこか
痛めてないか、何もなかったか。確認するように、縋りつくように背中に
腕を回した。
「あ、ああぁっ、アイリーン?!」
 裏返った声で名前を呼んで、手にしていた花束を落とす。
 心臓の鼓動が早くなり、体温がやや上昇したけれど異変はそれだけ、
外傷もなければ見えない部分に傷を負っている様子もない。
 強いて言うならば顔つきが少し変わったくらい。それが何を意味するか
は夜闇にまぎれてしまう今では分からない。だから朝が訪れたら聞こう、
でも今は。
 今は。
「心配……してましたのよ!!」
 力いっぱい抱きしめる。
 軍人としての訓練を受けているアイリーンの力で抱きしめられた裕梨
は、少しだけ苦しそうに息を吐いたが、それ以上は何も言わずに肩に
触れた。
「えーと、うーあー」
 言葉を探してるのか口からは音だけが出ている。
 顔を肩に埋めれば白い花とは違う甘い香り。スルトを案内するのに
ソーマを訪れたのだろうか、リリスの付けている香水と同じ匂いがする。
 他には汗の匂い。たくさん歩いたんだろう、ニヴルヘイムは広いから。
「あ、あのさ……アイリーン?」
「なんですの?」
 肩に顔を埋めたまま聞き返す。
 落ち着かない様子の裕梨は視線を空へと移し、
「オレ……頑張るから。ぜんぜん、何もできない魔王だけどさ。
 七瀬に迷惑ばかりかけるし、スルトさんみたいにカッコよくできないし、
魔神王の転生体って言ったって……こんなもんだしな。
 凄いのはオレじゃなくてアスタロトで、オレはただの中学生なんだよな。
 二年間、オレを待っててくれた七瀬に頼ってばかりで……情けないな、
オレ。
 だから……変わりたいし、七瀬に笑って欲しいんだ」
 ぽつりぽつりと告げ始めた。
 スルトと出かけたことで何を見たのだろう。
 声が震え、何かに耐えるように唇を噛む姿。肩に触れていた手が背中
に回された。抱きしめられる、強く――腕力はそれほどないように思える
が、それでも力強く感じられた。
「オレ頑張るからさ。アイリーンも」
「本当に……ユーリは私がいないとダメなんですね。いいですわ私が生涯
をかけて傍にいてあげましてよ!
 ユーリがどうしても言うのですからっ。私以外にいませんもの、こんなヘタ
レな魔王と一緒にいれる女なんて。感謝してくださいましね」
 言い終わってから少しだけ自己嫌悪。
 もう少し言い方があるのに。長年培ってきたこの喋りを直すことができない。
これが原因でグレイにも逃げられたというのに。
 恐る恐る裕梨の顔を伺う。
「はは。ほんとだよな」
 苦笑を浮かべている裕梨の顔。
 本人は十人並みと言っているが、これほど素晴らしい顔は他にいない
とすら思える。あのグレイよりも、顔だけはいいゾンネよりも、ずっとずっ
といい顔をしている。
 夜の闇の如き黒い髪と同色の双眸。
 目元は少々穏やかではあるが、鼻筋は通っているし、唇の形だっていい。
 その顔に苦笑を浮かべている。
「よろしくな……アイリーン」
 苦笑が穏やかな微笑へと変わった。
 胸が高鳴るのを感じた。背中に回していた手が勝手に動く。
 頬へと手を伸ばし、近かった顔をさらに近づけて――


「……リリスのところでサラダを食べましたわね?
 クラリスのサラダと同じ味がしますわ…………」


 少しだけ恥ずかしそうに俯いた。
 白い花の蕾が揺れる。笑うように、囁くように。




「知っているか? そなたが幸せになれぬことを」
 闇の中に響く声は告げる。
「陰陽のバランスがとれぬ魂は滅ぶのみ。
そなたはヒトにすらなれずに散るのだ」
 逃げられない足元には無数の荊。
「開放されたくはないか? 不幸な運命から」
 差し伸べられる黒い手。
「我のみがそなたを救ってやれるのだ……さぁ、受け入れよ」
 笑う。
 笑う。
 笑う、声。
「フザけんな。誰がテメェ」
「いつまでその虚勢がたもつか……見物よ」
 笑い声が遠ざかる。
 闇の中に方向感覚はない。
 けれど分かる。
 こっちが出口だと。
「お前らはそっちにいるんだろうな。眩し過ぎだっつの」
 目がくらむほどの光。
 けれど愛しい。
 今、行くから。
 今、戻るから。

 →NEXT