何も考えたくない。何も考えたくない。何も見たくない。何も見たくない。
 どうしよう七瀬。やっぱりここは怖いよ、早く地球に帰りたいよ、七瀬も
そう思うだろ。起きてくれよ、起きて、起きて、起きて。
 笑ってオレに同意して。
 七瀬。
 七瀬。
 七瀬……お前は……オレの……


「フォルセティっ!」


 窓ガラスが砕ける音と共に響き渡るのは金切り声ともとれるような声だっ
た。思わぬ騒音に思考の渦に全身で浸かっていた裕梨は跳ねるように顔
を上げる。少し前に見たことのある顔だと思った。
 名前は――そう。なんとかリス。イリスやクラリスたちとよく似た名前をし
ていた。
 そして、彼女もまた七瀬夕莉という存在について嬉々として語ってくれて
いたことを覚えている。
 その彼女がどうして窓ガラスをぶち破ってソーマ店内に飛び込んできた
のかは分からない。しかも、なぜだか腹を抑えて呻いているフォルセティ
へと駆け寄り、心配そうに顔を覗き込んだかと思えば、
「あなたのお仕事の場所はここじゃないでしょうっ!! もうっ、そんなこ
とばかりだから超がつくような合金を作れないんですのよ! いつもいつ
もシリとかコンとかの人形ばかり作って!」
「ふぐぁっ!?」
 フォルセティの横っ面を真っ赤なヒールで蹴り飛ばした。
 何がしたいのか分からないといった面持ちで眺めている裕梨。その姿
に気がついたのか、なんとかリスさんは長い金の髪を頭の上の方で二
本――いわゆるツインテールという髪型にした頭を軽く振った。
 赤い目はにっこりと微笑んで、それと同じ色をした爪が印象的な手は乱
れた白衣の裾を直している。
 悶絶しているフォルセティの背中をヒールでぐりぐりと踏みつけているの
は見えない。
 見えませんと自らに言い聞かせる。
「ふむ……昨今の女性は可愛いだけでは物足りないというが……」
 隣でぽつりと呟いたスルトの言葉もできれば聞きたくない。
 強すぎですよ。
 年期が違うとは言えど、男である裕梨が一切抵抗できなかった相手をこ
うも簡単にやっつけられると、プライドとかそんな感じの名前のついたもの
が真っ二つに折れてしまいそうになる。
 もっとも、裕梨のプライドなど魔族の誇りからすればごみくずにも満たない
ものなのかもしれないが。
「陛下っ」
 カツカツとヒールを鳴らして近づいてくるなんとかリス。名前が思い出せない。
「申し訳ございません。フォルセティはフラロウス様の命により私が保護して
いましたが、研究に没頭するあまり脱走に気づくのが遅れてしまいました。
 御身が無事であることを喜ばしく思います……この、エリス=ヴァルトラウ
テいかな罰でも喜んでこの身にお受けいたします!」
「エリ……」
 少し離れた場所でフォルセティが呻き声を上げた。
 縋るように手を伸ばし、跪いているその背中を求めている。裕梨の目の前
で真剣なまなざしを向けているエリスは、以前に城で顔を合わせた新米研究
員とは別人に思えるほどの気迫を身に纏い、よくよく見てみれば着ている白
衣もあのときのものとは違った。
 金と赤の糸で刺繍された腕章をつけ、以前は質素なゴムだった髪留めには
小さな飾りがついていた。出世したのだろうか。
 ほんの少しの時間の間に。
 変わってしまったのだろうか。
「陛下。いかがされますか?」
 裕梨の傍についたカリスか問う。
 赤の双眸はキルケを髣髴させ、一瞬だけ心臓が重くなったような錯覚を覚え
る。だが、すぐにそれらは勘違いだということに気付きはした。気付いただけ、
後のことは何も分からない。
 何を言うべきなのか。
 何をすべきなのか。
 つい先日まで明確に抱いていたすべてが崩れ落ちてしまうような幻想。
 それはなぜ。どうして、あの強い想いが消えてしまう。
 ――いないから。
「陛下?」
 あのひとがいないから。
 脳の奥の奥。記憶の奥の奥で繰り返し再生される。
 夢を見るように見てきたはずの光景は目覚めると共に忘れてしまい、今まで
自覚してこなかった。真が何に執着していたのかも、キルケが何を想って復活
し、そして再び消えたのかも。本人の望まない形で存在し続ける理由も何もかも。
 この想いに繋がっていたはずなのに。
「……すいません……オレ、魔王なのに。こんなで……すいません」
 謝ることで何かを許されたような気分になるかもしれない。
 優しいメイドたちは微笑んで受け入れてくれるかもしれない。そう思ったのは
間違いない。ただ現実はそこまで甘くなく、冷たい眼差しを向けているフォルセ
ティが現実なのだと思った。
 困惑した顔のメイドたちは互いの顔を見合わせ、沈黙に耐えかねたクラリス
が口を開いた。
「陛下が涙を流す理由が分かりませんが……フォルセティのことなら気にしな
いでくださいませ。もとよりこのような子なのです、ナナセ様以外には懐かない
一匹狼気質なところがありまして……」
「その七瀬はオレのせいで危ない目に遭うんだ。今回だってオレのせいで起き
ないのかもしれない。もしかしたらこのまま一生、七瀬は目を覚まさないのかも
しれない……オレは、誰かの大事な人をいいように使って壊しちゃったのかもし
れないと思うと……!!」
 自分がもっとしっかりしていたら。
 もっと強ければ。
 七瀬夕莉のような力があれば。
 こんなことにはならなかった。誰からも疎まれることなく、理想を貫けたのに。
「でもオレっ、どうしたらいいのかわかんないよ!!
 七瀬もいない、駿河も怖いっ、オレはどうしたら――」
「陛下、失礼いたします」
 カツカツと響くヒールの足音。
 綺麗な姿が近づいてきたかと思えば、真っ白な手は何の迷いもなく振り上げ
られ、そのまま振り下ろされていた。
 乾いた音が響き渡り、左の頬に痺れが走った。
「エリス!! なんて無礼な――」
「クラリスは黙っていて」
 凛とした声。
 どこかアイリーンと似ていると思った。けれど目の前の美女は怒りに眉を吊り
上げ、真っ赤な双眸を鋭く尖らせている。
 裕梨の頬を叩いた手は僅かに赤くなり、女性の軟い肌も少なからずのダメー
ジを受けたのだと熱くなる頬を抑えた。
「陛下。しっかりなさいませ! 我らがナナセ様を敬愛する理由はその力にあり
ます。フォルセティとて同じです、強大な力をまっすぐに扱うことのできる強さに
惚れているのです」
「じゃあ、何の力もないオレには……」
「何を仰るのですか!!
 民の力は王の力。王の力は民の力。
 あなたはすでにその両手に強大な力を持っているのですよ! それなのにな
んです、いじいじと。そんな状態では人間との和平なんて納得できません。
 いつ陛下が騙され、もしくは暗殺されるか分かりませんもの。
 いいですか、陛下? あなたがすべきことは――」
 びしぃ、と指差される。
 迫力に思わず肩をこわばらせていると、不意にエリスが微笑んだのが分かった。
「学ぶことです。この国のこと、魔族のこと、人間のこと、すべてを学んでそれを
力にすればいいのです。私もそうして出世いたしました。今ではフォルセティ片
手に新たな合金を生成し、後の未来に必要な巨大なロボを作るプロジェクトに
身を置いていますの」
 後ろの方でクラリスたちが安堵の溜息を漏らしている。何を言い出すか不安
だったのだろう。あの剣幕では魔王陛下相手ということを忘れ、本能のままに
罵っていたかもしれない。それが真の耳に入ろうものなら大変なことになる――
 深山裕梨にそれほどの価値を見出していない大賢者の転生体は、恐ろしい
ほどの執着心を彼の魂に抱いている。
 それは七瀬夕莉の魂も同じであり、事情を知る城のものにとっては彼らを扱
いにくくする理由でもあった。
 もっとも、それがあるからこそ政敵ができずにすむ。
 魔神王の転生体を手玉にとるような、騙すような行為を魔族がとれるとは思
わないが、古の時代から流れた年月は半端ではない。魔族の時間とは言えど
長すぎた。
 もしかしたらアスタロトなんて過去の魔王を信じない輩もいるかもしれない。
 ――子供たちの眼球を人間に売りつけていた裏切り者がいたように。
 真剣な眼差しのクラリスは、傍らで口角を上げたままのスルトを見遣る。気付
かれぬように一瞬だけ。人間の王であり天使たちを束ねていた神の血を引くこ
の人間は本当に魔族との和平を望んでいるのか。
 魔王陛下との友情を望んでいるのかどうか。
 ことによってはこの場で始末する必要性があるかもしれない。
 息を呑むクラリス。
 脳裏に夕莉の姿が過ぎった。
「ロボって……エリスさん……ちょっと」
 言い辛そうに後頭部を掻く裕梨。興味深そうにツインテールを揺らすエリスを
チラチラと見て、すばやく小さな声で呟いた。
「マッドですよね」
「マッド? それはどういう意味ですの、陛下」
「ナナセさまと同じ異国の言葉だと思いますよぉ。
 やーんイリスに分かるように話してくださぁーい。陛下ぁ」
「……む。今、なにやらイリスの行動に老婆じみたものを感じたのは気のせい
だろうか」
 驚きに満ちた眼差しでイリスを見遣るスルト。
 頬をひく付かせたのはカリス。
「ちょ、ちょっと。何をおっしゃいますかスルト様。
 イリスは見た目どおりのあいら――」
 閃光の如き眼差しがスルトを射抜く。予想だにしない殺気に全身を緊張させ、
すぐにでも戦闘体勢に入れるように床を踏みしめる足に力を込めた刹那。
「エクスプローディング・アミュニション!!」
 真っ白な白衣の胸元にV字が浮かび上がる。それは一瞬で赤く染まり、魔術
とは違うような気がする熱光線を発射した。
 その温度は近くにいただけの裕梨に顔を背けさせ、通り道にいたフォルセティ
の髪を見事なまでに焦がした。これで半年は理容室に行く必要性がなくなった
に違いない。
 それの直撃を受けたイリス――野性的なろりっこと書いて年齢詐称と読むメ
イド――は自転車につぶされた蛙のような悲鳴を上げて窓から逃げて行った。
 ちょっとだけ当たったスルトは呆然としたまま、
「なんだかとてもスーパーな技だな……」
 ぽつりと呟いた。
 その反応にエリスは微笑みながら告げるのだ。
「私はリアルよりもスーパーですから。
 そして陛下の仰るマッドですから」
 胸の赤いVの字はまだ消えていない。
 少しだけ逃げ出したくなった裕梨は足元で頭を抱えて嘆いているフォルセティ
へと目をやった。
 その視線に気付いた彼は少しだけ気恥ずかしそうに服で頭を隠すと、くぐ
もった声で一気に告げた。声がくぐもっているのは服のせいか、それともエ
リスから受けたダメージが重いのか。
 それは裕梨には分からないことのようにも思えた。
「ナナセを……不幸にすんなよ」
 言葉が重すぎて。
 朝までの時間がこんなにも長く感じたのは初めてだった。
 早く昇れ。
 太陽さえ昇れば。
 明るい世界にいれば怖くない。
 進むべき道も、足元も見えるはずだから。

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