死の香りが包む港。

 あの船が着いたのは地獄か――はたまた。

 重なり合って倒れている数多の亡骸。それらを一蹴して、夕莉は口の中

で詠唱を始める。響き始める癒しの言の葉に、ヒザをついていた魔族たち

が顔を上げた。

 彼らは口々に告げる。

「ナナセ様が……」

「大魔女様がいらしてくれた……」

「我らに勝利を……人間に死を……」

 傷が癒え、立ち上がる魔族の軍人たち。死者が蘇ることはないが、骨折て

いどならば瞬時に治癒する。内臓が失われていようと、数日は死を遅らせる

という癒しの魔術。

 古の時代にキルケが遣ったのが最初だという。

 神々との戦において、数多の魔術を残したキルケ。今でもそれらは魔族の

間に伝わり、息づいて。まるで、今でも彼女が生きているかのようにも感じられた。

「キルケの遺したモノ……ってことか」

 小さく呟いて、体勢を変える。それに合わせるようにカロンが角度を変え、降

下を始めた。口の中ではすでに次の詠唱が唱えられ、疲弊した魔族たちに休

息を与えてやることが可能のようにも思えた。

「眠れ。冷たき柩に収められし死者。血すらも凍る世界へと誘わん!」

 港で、水があるところで戦いを仕掛けた人間が愚かなのだ。

 魔族の魔術は自然を操る。そして、近くにその自然があればあるほど、強力

なものとなる。魔力で構成された偽りの炎よりも自然の炎が、魔力で生み出さ

れた偽りの水よりも自然の水が、より多くの精霊の加護を受けているかなど、

考える時間ももったいないほど。

 夕莉が吐き出した言の葉が船を取り囲む海水を凍りつかせ、波打ち際に

流されてきた人間たちを凍らせていく。夕莉の魔力の影響が及ぼす距離に

ある、海水はすべて術者の意思に従い、船底を凍りつかせ、そこに乗る

人間たちを凍えさせる。

「一気に押せ! ぶっ潰せ!」

 地に足をつけた夕莉の手から生まれた水の刃が、死ぬ気で剣を振りか

ざした人間の胸を貫く。血を吐いて、倒れる人間。

 質素な防具から見るに、ろくな訓練も積まない内にニヴルヘイムへと送

られてきたのだろう。この程度では魔族の子供すら殺せない。

 数だけの軍隊など恐ろしくない。魔族の力をもってすれば数秒でケリが

つくだろう。だが――

 夕莉は怯えた顔のまま死んでいる、年の近そうな人間の亡骸を見やり、

頭をふった。

「テメェのことを大事に想ってたヤツはどう思うんだろうな。テメェが死んだ

ことに」

 吐き捨てるように告げ、顔を上げる。いくらでも這い上がってくる人間

たち。悲鳴が響いて、まぐれにも魔族を殺そうものなら、雄叫びを上げ

て勝利を宣言する。

 その雄叫びを喰らうのは、他の魔族。殺された魔族の友――

 人間よりもずっと、仲間意識の強い――化け物と言われる種族。

 夕莉の手の中のカロンが震える。血を求めて、さえずる。

「平気で自分のガキを殺す、人間はなんだ? 化け物じゃねぇのかよ」

 振り上げて、周囲に群がる人間たちを一掃する。血の雨が降り注ぎ、夕

莉を濡らす。それでも顔色一つ変えず、一寸の狂いもなし――確実に、目

の前にいる敵を排除しようと動く。

 口はすでに次に遣う魔術の詠唱を始め、手はカロンを振り回している。

 身の丈ほどある大鎌を揮い、血の雨の中で歌うように詠唱を紡ぐ。その

姿はさながら戦乙女。かつて、大魔導師キルケがそう囁かれたように、夕

莉もまた、戦乙女に相応しい姿となっていた。

 ようやく応援に駆けつけたゾンネが言葉を失うほど――その姿は美しく。

「…………夜の闇の中、燦然と輝くは……血の月……」

「は?」

 ゾンネの存在に気付いた夕莉が、紡がれた言の葉に振り返る。返り血で

濡れた顔には不機嫌な表情が張り付いており、お世辞にもキレイとは言い

がたかった。

 それでもゾンネは躍りかかる人間を片手で殺し、その血を身に浴びながら、

どこか恍惚とした顔で告げた。

「美しき、大魔女――黒き咆哮、私……赤の一族、ゾンネ=ロート=サルガナ

タスはあなた様に永久なる忠誠を。この、愚かなる者を生贄として捧げま

しょう」

 カロンが人間を狩る中、ゾンネの大きな手が隙の大きな動作で剣を振り

上げていた、男の胸へと減り込む。赤で統一された衣装を、血がよけいに

赤く変えていく。

 何を探しているのか、それを理解するよりも前に腕が引き抜かれる。事

切れている人間が倒れ、体温を失っていくだけの体から血が流れ出る。

「この赤き流れに誓い、私は永久にあなた様の僕です……」

 ヒタリ、と血塗れた指が頬へと触れる。

 恍惚とした笑み、その手は血濡れて――それを誓いとする。だいぶ前に

メーアから聞いた、色の一族に伝わる儀式はこのことだったのか。

 夕莉はメーアの言葉を脳裏に浮かべた。

 周囲に積み重ねられる屍の数が増えていく、どれほどまで増えるのか。

 この足の下に積もる、軟らかくも冷たい屍の山は。

 

――色の一族の誓いは血の誓いです。

 応える時は、その血に唇をくださいまし――

 

 手を取り、指に口付ける。

 鉄の味がする――人間の、血の味がする。魔族とは違う味なのだと思った。

「理由は後でたっぷり聞いてやる。シモベならシモベらしく、僕の役にたてよ」

「お任せください――ナナセ様」

 ゾンネが笑う。一度サヤへと収められた大剣を再び抜刀し、息のある人間

たちを潰すために走る。強く蹴られた地面が削れ、足跡が残る。

 ありえない男だ――そう呟きながら、夕莉は自らの手から離れて行動して

いたカロンを引き戻す。ズッシリとした重みは、魂水晶が数え切れないほど

の人間の魂を喰らい、血を啜ったことの現れ。

 夕莉は唇に残った血を袖で拭うと、まっすぐに氷に阻まれて立ち往生して

いる船へと目を向けた。

「行くぞ、カロン!」

 声もなく、頷いたように感じる大鎌の刃に足をかけ、飛ぼうとした――刹那。

「ナナセさまぁ!!」

 情けない、グレイの悲鳴が耳をつんざいた。

「あ゛?」

 危うく滑り落ちそうになるのを、必死で立て直した夕莉がそちらを向く。

そこには一対の漆黒の翼で空を駆けてきたグレイが涙目になって息を切

らせていた。

「あのね……あのねぇ……」

「どうした?」

 少しだけ宙に浮いた状態でグレイの言葉を待つ。

「魔王さまが……ユーリさまがぁ……お城からでていっちゃったの。戦争を

止めるってぇ」

「……は……? おい、ウソだろ。マジで……クソッ」

 脳裏に浮かぶ死のイメージ。ただの人が戦場に出れば死ぬ、何の訓練

も積んでないのならなおさらだ。訓練をつんだ兵士が三週間生き延びたとし

て、一般人ならば運がよくて数時間。運が悪ければ戦場に足を出した瞬間

に死ぬ。夕莉は全身の血の気が失せたのが分かった。

 きっと、酷い顔色をしているだろう。

「グレイ、居場所はわかるか?」

「たぶんね……だから、ナナセさまも、きてぇ」

 子供のようなことを絶世の美形顔で言われ、夕莉は脱力する。それでも

神経は張り詰めたまま、いつでも敵を殺せるようにしていた。

「ユーリさまの匂いはこっちからね……」

 黒い翼が羽ばたいて、宙を駆る。カロンよりも早く、自由に空を舞うのは、

彼が元々空を飛ぶ種族であった――古の時代では、吸血コウモリであった

由縁なのだろう。長い時間を生きる間にヒトや魔族と同じ姿をとったという。

 夕莉は無駄のない動きで空を駆ける、グレイの背中を睨みながら、空中

戦では勝てる気がしないと呟いた。こちらの動きが制限されていようとも、

彼は悠々と空を駆り、こちらを殺すことができるだろう。

 ――ありえない未来ではない。

 今の味方が敵に回り、孤独のまま戦い、死ぬのも。

 ありえない、話ではない。

「あ、いたよ!!」

「分かった」

 グレイの顔を見ないまま、急降下する。どうやって、このようなところまで迷

い込んだというのか。城より距離はないものの、海が近い――人間が流れ

着いているかもしれない。地球では平凡のこの姿、この世界では異質なも

のとされ、迫害され、やがては殺される。

 夜の闇の色は魔族の色。

 畏れられ、忌み嫌われる色。

 夕莉は表情を引き締めた。できるだけ、姿を見られないようにして結梨を

城へと連れ戻す。

 以前ならできない芸当も、いまなら容易にできる。醜い姿を見せずに、し

ばしの闇の中で安息を貪り、その間に夢の如き、魔王城と名のついた籠

へ戻せばいい。

 逃げた小鳥を連れ戻すかのように。

「――んだ! 戦わなくていいだろ?! なあ、あんた人間だろ!!」

 まだだいぶ距離があるというのに声が聞こえる。心地良い声――心地

良い、はずの声。その声が向けられているのは、傷付いても剣を落とす

ことなく立っている人間。

 殺気はなく、ただただ怯えている。剣を持っているのは僅かな理性か。

 夕莉は砂浜に降り立ち、カロンから手を離すと一つの指令を下した。こ

の場所の近辺に潜んでいる、人間を始末しろ。

「オレは戦う気なんてない! あんたも自分の国に帰って、偉い人に伝え

てくれよ。ニヴルヘイムは戦争なんて望んでないって!!」

 必死に叫ぶ。

 その声が聞こえているのかいないのか、人間はガタガタと小刻みに震

えながら結梨を見ている。双黒を畏れ、忌み嫌うものの瞳だ。

「オレ、会見とか。そういうのだってするから! 戦争でこんなに死んじゃ

いけないんだよ!」

 

――無駄だ。双黒の言葉は誰にも受け入れられず、朽ち果てるが運命。

始まりの戦は終焉が訪れるまで止まることなく、すべての命を喰らい続け

ながら闇を育む――

 

「……なんだ……?」

 脳裏に響いた声。

 見えたイメージ。

 自分の知るはずがない記憶。

 炎の、ゆらめき。

「……頭……イテェ……」

 小さく呟いて、痛み出す頭を抑える。聞こえる声が、心地良い友の声が

疎ましい。何を綺麗事を、何を世迷いごとを、始まった戦は止まらない。

 死んで、死んで、死んで。

 殺して、殺して、殺して。

 すべてが真っ赤になるまで、流れるものがなくなるまで止まらない。

「――あぁ、早く……お前をここから隠さなきゃ。ここは良くない、お前に

は良くない現実だ」

 ――夢見る、幼い子はベッドで平和の夢を見ていればいい。汚れを知

らなければいい。

「オレは誰が死ぬのも見たくない、オレは平和な国を作りたいんだ!!」

「――魔王、が……! 汚らわしき、魔族の!!!」

 

 それは力の限りに叫んだ結梨の見た錯覚だったか。突然、赤い鞠が

弧を描いて飛んで、次の瞬間には、生臭い腕に抱かれた。

 揺れる視界に泳ぐ漆黒の瞳には怒りが浮かんで、憎悪が滲んで。

「無礼な口を閉じろ、クズが!」

 口を開いて飛び出た罵声は深い悲しみと、優しさに包まれて。

「――――」

 誰かの名前を呼ぼうとしたけれど、何も言えなかった。

 結梨は眼を閉じて、その腕の中で深い闇の手をとった。懐かしい、匂

いがした。

 一瞬だけ。ほんの瞬き一回分だけ時間が止まったように思えた。

 体が動かない、視線を感じるのに反応できなかった。

「ナナセさまぁっ!!!」

 悲鳴のような声。刹那、グレイの腕に突き飛ばされ、夕莉の体が吹っ

飛ぶ。骨の軋む音に顔を顰めながら、それでも視界の中で広がる光景

を見逃すことはなかった。

「グレイ――?!」

 銀の矢が黒い翼を射抜いて、深くつきたてられている。傷口から溢れ

る血液はグレイ自身の体内に流れる、特異な血液。他に誰も同じモノを

もつ者のいない、孤独の証。

 笑う、その顔には苦痛が滲み出て。

 反撃として放った血の短刀が弓手の息の根を止めたことを確認すると、

砂浜の上に倒れこんだ。純の魔族ではない、獣から変化したグレイには天

敵とも言える銀の矢。

「グレイ! おい、グレイ!」

 結梨を背負ったままの夕莉が駆け寄る。近くに気配は感じない――気を

失っている友に気をとられすぎたことを悔やみながら、それでも決して止ま

ることはせずに、夕莉は口の中で癒しの魔術の詠唱を始める。

「な、なせ……さまぁ」

 冷たい手が、震えて伸ばされる。

 触れた腕を掴んで、すがるような目で見られた。

「ニヴ……ル、ヘイムは……キレイな……ま、ま。キルケ……さまの、

守った……大地。

 どうか……守って……この、国……この……ナナ……セ、さま……」

 掠れた声で、途切れた途切れたに告げられる。

「喋るな、体力を温存しろ。カロン! 二人を城に連れ帰れ!」

 なおも喋ろうとするグレイの傷口から矢を引き抜き、癒しの魔術を施す。

表面の傷は癒えたが、周囲は爛れ、すでに腐敗が始まっているように思え

た。

 純粋な魔族であればこうはいかないというのに――夕莉は歯を食い縛

り、グレイの額に手を置いた。

「いいか、死ぬな。キルケに会うんだろ!」

「……ん……あい、た……い……」

 消えていく声が呟く。

 大魔導師の名を。懐かしい名を。あの、炎のような女の名を。

 

――双紅は炎の色。これは炎、誰の体にも宿る、真紅の炎――

 

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