黒い、闇。
夜の闇の中に、焔が一つ。
それは心地良い、絶望を教えてくれる。
絶望の中で育まれた、一つの希望。
一筋の光。
守ると決めた、愛してくれる存在を守ると。
ソレは口を開いた。
「ニヴルヘイムは魔族の領土。侵すことは何人たりとも赦さない」
体の周りを浮遊するのは刀。自らの意思をもつかのような刀は、まる
でソレを守るかのように、抜き身のまま銀色の刀身をギラギラと輝かせ
ていた。
「魔神王、アスタロト。大賢者、ネビロス――両名に永久なる忠誠を誓う者。
私は双紅の大魔導師となりし者……シュピーゲル・マテリアル、精霊
王の玩具。ニヴルヘイムを侵したあなたたちを始末する」
漆黒が、赤に蝕まれる。
髪が、目が、ほどよく陽に焼けた肌は白く、白く、透き通るような白さへ
と変わり、黒い髪は赤く染まる。夜の闇をそのまま写し取ったかのように
瞳は、血の赤へと変わる。
無感情なその顔は人形のような造形美で、付着し凝固した血液をも彩り
へと変える。
無機質な美しさ。
ソレは眉一つ動かさずに、久しく唱える祝詞を口にした。
「それは大いなる恵。万物に与えられし光に焼き尽くされよ。罪人」
透き通るような声が魔力を解放する。
天を裂く、光の柱が雨となりて降り注ぐ。
古を知る者なら戦慄したであろう。かつて、魔族と名づけられた闇の眷属
が遣った、光の術の存在、唱えた大魔導師の存在に。
水晶の前で笑う少年。その顔に浮かべられた笑みは狂気が滲んでおり、
優しげな瞳には水晶の中の存在しか映っていないようだった。
「キルケ。その体はどうですか? 多少狭いかもしれません、けれど――貴
女なら変えてくれる。脆弱な人間から、朝でも夜でもない黄昏を、美しい夜へと」
光の柱がすべてを焼き尽くす。
人間を、人間の船を、ニヴルヘイムを侵すすべての罪人を焼き払う、強い光。
あまりの眩しさにすべてが真っ白になる。
もう、自分の手だって見えはしない。
真紅の双眸は光を眺め、変わらない大陸を見詰める。
縦に長く割れた瞳孔は魔族でも珍しい瞳――古の時代に忌み嫌われた者の瞳。
ソレは口を開く。
「精霊王――あなたがたは、この体まで蝕むというか」
まるで人形のようなソレの周囲に集まる、四つの光。それらはそれぞれヒト
ではなく、それでも化け物と呼ぶには整っている容姿で、姿で、笑っていた。
緑色の光を漂わせる一見すれば全裸の少女にしか見えない、首に繋ぎ目
のある少女が特徴的な笑みを浮かべて口を開く。
「久しいのう、古の伝説。歪んだ転生はどうであったか?」
「風精王、皮肉であればその体を斬る。
黒い私は私ほどではないけれど、十分な力を持っている」
「それでも夜には勝てぬよ。すべてを呑み込む深遠なる闇、そなたですら抗え
ぬ黒にはの」
風精王と呼ばれた少女が笑う。小刻みに震える体から首が落ち、両腕がそ
れを受け止める。顔は笑ったまま、人間のような肢体をしながらも、人間らしさ
など一つもない――子供の玩具のような、人形のような体に後頭部を預け、頭
部だけで喋り始める。
「黒には抗えぬからこそ、餌になる。そなたと同じように……くく、愛しておるぞ。
――欠け始めた我らの贄。喰われ、消えていく哀れな魂の骸よ」
「此度は王が無能である。我らの玩具ではなく、勝者として歴史というものを紡
いできたお主らの負けやもしれんな」
赤い光を纏った、隻眼の女が告げる。纏う真紅のドレスに四肢の存在は感
じられず、ドレスの袖自体が手であるかのように揺れていた。
「ネビロス様がいる、神々との戦よりは楽である……あなたたちが、何もしな
ければ」
強い、凛とした瞳。
それらに見られ、精霊王と呼ばれた四つの光の中で揺れる、ヒトに近い形
をしたヒトではない者たちが笑いあう。
「我らの玩具をどうしようと、我らの勝手……くく、新たな贄の完成を待ち侘び
ておろう」
風精王の姿が消える。
それに続いて、他の三人の姿が掻き消えた。
白い光が去り、再び緑の美しいニヴルヘイムの大地が視界へと戻ってくる。
ソレは眼を閉じて、闇の中へと消えていった声へ耳を傾ける。
「……弱き者は消える……それだけ。拒むのなら、強くなれ」
呟かれた言葉は誰へのものか。
足元の白い砂は海水に濡れて、潮の香りが血の臭いを流していく――そん
な、気がしていた。
闇の中。
動けない。
ここはどこ?
わたしはだれ?
恐い。
こわい、寒い。
手が動かない。
足が動かない。
だれか、だれか。
いないんだ。
どこにもいないんだ。
わたしがどこにもいない。
僕はここにいるのに。
わたしがどこにもいない。
だれか――助けて、気付いて。
ここにいるから。ここにいるの。
――探しました……こんなところにいたのですね――
優しい声が聞こえた。
――……帰りましょう。魔王城へ――
手を引かれて、歩き出す。
――私だけは……せめて、私だけはあなたの…………でいたい――
この声が導いてくれる方へ歩けばいい。
この手が導いてくれる方へ歩けばいい。
わたしは、ここにいるの?