新米魔王陛下はアシュレイドの力を借りながらも、必死で公務を
こなしている。戦の影響で飢饉が発生し、食うに困った魔族たちの
救済、孤児の受け入れ先の設立――
ここはどこだったか。
魔族の住む大陸。死者の国。魂喰らう島。
不吉な言葉でしか飾られない、不吉な大陸。
住まうのは魔族――ヒトと異なるもの。
しかし、やっていることはヒトと変わらない。夕莉の最も嫌う存在と
何一つ変わらない。彼女は歯を食い縛り、カロンの柄を握り締めた。
「……大丈夫、信じてる。信じてるから、深山――」
息を吐きながら、自分に言い聞かせるようにして呟く。その間にも
結梨は新しい書類に目を通して、判を押して、時折り叫んでいる。宥
めるアシュレイドの瞳はどこか冷たくて、彼もまた、新米魔王の言葉
を鵜呑みにしない――頭のいい、魔族のようだ。
かの四英雄の末裔、色を継ぐ者たちも魔王の言葉を完全には承諾
せずに、攻め入る人間たちの掃討に力を入れている。今日もまた、水
の国の民が死ぬ。他の国の人間たちが上陸して、魔族を殺しに来る。
結梨には分からない現実。
守られた、城にいる結梨には。
それでも――
夕莉は顔をあげる。決意の表情は二年前から何一つ変わることなく。
「僕だけになっても、僕はお前を信じてっから……頑張れ」
唯一の友の働く姿に背を向け、自分がするべきことをしようと歩き出す。
この城に、汚れは必要ない。
夕莉の夜の闇よりも深い漆黒の瞳は、迷うことを捨て、戦う者そのもの
だった。
「……行くぞ、カロン!」
バルコニーから飛び出す。少しずつ、冷たくなってきた空気に冬の訪
れを感じながら夕莉は、森の中に入り込んだ人間たちの気配を読み始
める。
「ヒンメル……か」
新しい気配が次々と消えていく。
それと同時に数多の精霊が消費され、大気の構成が少しずつずれて
いく。
それを肌で感じた夕莉は、何かを思いついたのか唇に微かな笑みを浮か
べた。
「まともに話すのは初めてだな。ま、いっか」
カロンを急降下させ、木々の間をすり抜ける。鳥たちは避難を終えて
おり、空の巣がやたらと目立った。どうりで、最近は戦闘能力のない鳥
たちの声を聞かないと思った。
「おい、ヒンメル!」
亡骸を魔獣に食わせているヒンメルへと手を振ってみる。常に閉じら
れた瞳と僅かに微笑んでいるかのような唇――これだけならば、魔族特
有の美青年も加わって物腰のやわらかそうな好青年だが二年の間、ヒン
メルを見てきた夕莉はまったく別の感想を抱いていた。
――暗殺候補上位。魔王殺害の危険性有り。
人間を憎む魔族なんて山ほどいる。笑いながら接してくるシュテルンも激
しい憎悪を人間に抱いており、温厚なメーアも人間が相手となれば容赦を
しない。ゾンネとて同じだ。
魔族は人間を憎悪している――最も、そうでない魔族いるだろうが、憎
悪しているものの方が多いことに間違いはない。先日、故郷へと帰した人
間の子供――アレスも最初の方は命を狙われていた。
大魔女ナナセ=ユーリの側近として。そして人間の子供という理由から、
貴族でもなんでもない魔族に、命を狙われていた。
しかし、それとは別の臭いを感じるヒンメルの憎悪。それが――夕莉に
とって、厄介であった。
「……ふぅ。魔族の礼儀に倣って返事は致しますが……何の御用です?」
嫌々、言葉を返す。ヒンメルの従兄弟のアシュレイドは、不機嫌そうだが
中身はそうでもない男だが――
ヒンメルは違う、性格が悪い。シュテルンとは違った意味で。
「用がないのなら話し掛けないでくださいますか? 私は所詮、魔王陛下の
駒にしか過ぎないのです、駒は動くだけしかできない……止まったら価値
を失ってしまいますからね。
こうして無駄な殺生をしないと生存すらできないのです、私を殺す気ですか?」
本当、性格悪い。
夕莉は殴りたくなる衝動をおさえ――
「期待に応えて殺ったらぁ!」
――抑えずに、ヒンメルの腹を思い切り拳で殴った。
この反応を予想していたのか、シュミなのかはしらないが、何故か腹部
には厚い本がベルトで巻かれており、夕莉の拳の衝撃はすべて本に吸収
されていた。
「ふぅ。あなたも人間ですね、私の予想通りの行動しかしない」
「一緒にすんな」
ジワジワと痛んできた拳を逆の手でさすりながら、声を潜める。
「――魔剣がねぇ、って確信して襲ってきてんだろ。アイツら」
「間者は減りませんね。まるであなたのようです」
「僕は分裂しないと思ったが?」
夕莉の睨むような視線に、ヒンメルは目を閉じたまま、笑ったような顔の
まま、
「メーアには程遠い体躯ですね。人間なのですから仕方ないのでしょうが」
「死ねコラアァァッ!!」
反射的にカロンを振り上げる夕莉。
爆音が轟き、身を潜めていた人間たちが姿を現す。恐いもの見たさとは
言ったものだ。
「あなたが煩いから……」
「僕のせいかよ……ウゼェ!」
吐き捨てるように呟きながら夕莉の手を離れたカロンが、音もなく人間た
ちを斬り殺す。その速さに反応できない程度の実力しか持ってない人間を
ニヴルヘイムに送り込むとは、人間側も少しは追い詰められているらしい。
数では圧倒的に勝っているのだから――人間は。
「……本当にあれを王と信じる気ですか?」
ふいに背後で呟かれる言葉。
その言葉に背を向けたまま、夕莉は口の中で詠唱を始める。それは二
年前と比べると自然な発音で、夕莉自身の声で紡がれているように感じた。
「アスタロト様の転生体とはいえど、酷すぎます。あれは人間でしかない…
…魔族の王の器ではありません。これ以上、ムダに殺す気ですか?」
地面を抉るように、木々の根が飛び出る。それらは逃げ惑う人間たちを
ことごとく貫き、その血を養分に成長する。
血を吸い、花を咲かせる。その花粉が舞い始めれば掃討は終わる。
風に乗り始めた甘い香りに、夕莉は少しだけ困ったように笑った。
振り返り、戻ってきたカロンの血塗れた刃を撫でる。
「僕は信じてんだよ。アイツを――」
風が生まれる。
夕莉が手を振ると同時に、ヒンメルの背後に数多の木の根が迫る。それ
らを咄嗟に展開した結界で防ぐと、ヒンメルは眉間にシワを寄せた。
こういった顔をするとアシュレイドとの血の繋がりを確認できる。
夕莉はクツクツと口の中で笑みを漏らしながら、木の根を退かせる。
その手には小刻みに震えるカロン。
「友達として、僕はアイツを信じてんだよ、つぅわけで……侮辱したらブッ殺す」
「……なるほど。そういうことですか……あの方も残酷なことをなさる」
苦笑を浮かべて、ヒンメルは結界を解く。ロッドを握り締めた手の中が汗
ばんでいた――自慢の結界を破られる寸前にまで高まった、人間でありな
がらも魔族と同等以上の魔力をもつ少女の力に、僅かな恐怖と――
「あなたのことは大嫌いですが、今だけは同情しますよ。どちらにもなれな
い人」
髪と瞳の漆黒は孤独の証――
今となっては誰も入ることのない場所。
墓守の一族は墓所を守ることを放棄し、その一族の血を絶やさんとして
いる。
鍵である一族が消え、誰一人として入れなくなった、その場所に彼はいた。
「あの頃と変わらず美しいまま……貴女は今、どのような夢を見ていますか?」
水晶の中で眠る、赤い髪の――かつては女性だった者へと語りかける
その口調はどこまでも優しく、愛しさに満ち溢れていた。
「貴女と陛下の守ったこの大陸は、今でも美しいままです。
ただ――相も変わらず、狙う輩は多いようですが……あの頃の敵は神で
した。今は人間という種族です、神よりも厄介な……愚かな、存在です」
水晶の中で眠り続ける、愛しい姿。
失われたあの瞬間を忘れはしない。
「私は決めました。貴女と陛下の守ったこの大陸を、私もまた守ると。
――ですから」
漆黒の瞳が細められて、水晶へと唇が寄せられる。
「悲劇を繰り返すことを、怒らないでください……愛しい人。美しい、夜」
水晶の中の女性であった者は何も言わない。その水晶はかつて柩の代
わりに、愛しい人の肉体を朽ちさせぬためにと、使ったもの。あの頃から
時間の止まった、この場所。
気が遠くなるほどの年月を経ても、なお輝き続けるかのような美しさに涙
が零れそうになる。
彼は小さな声で、掠れた声で。
「キルケ……私は、早く貴女に、会いたい……平和な時代を、貴女と……
歩きたい」
幾億の夜を越えて、ずっと願ってきた想い。忘れぬと誓ったあの日から
続く――
「……愛しています、今でも。キルケ……残酷な私を、どうか抱き締めてく
ださい……」
罪を罪と認める。
しかし罰は受けない。
彼は漆黒の瞳を細める。
瞼に浮かぶのは、幸福を掴むことの許されない少女の姿。
不完全な魂を持った、不完全な人間。
王が無能と理解した今となっては、保管庫としか考えられなくなった人形。
欠けた魂を満たすための――道具。
彼は、少しだけ考え込むような目をすると、すぐにそれをかき消すように笑み
を浮かべた。
「ニヴルヘイムに、永久の安息を……神との戦により、失われたすべての者
に安息を」
すべては動き出す。歯車は回りだす。割れた硝子の天使は血の泪を流した。