絶叫が轟いた。

 即座に抜刀してヒューゲルへと躍りかかるアシュレイド。

「よくも――!!」

 その白銀の刀身を篭手で受け止めるヒューゲル。その顔は不敵に笑っ

ており、その表情がアシュレイドをさらに激昂させた。

「何を笑っているのです!」

「そんなに、このガキが大事か? アッシュ」

 力なくぶら下がる夕莉の体を目で指す。限界まで見開かれたアシュレイ

ドの青い瞳が揺れた。その中に映りこむ、想い人の亡骸も同じように揺れ

ている。

「冷静になんねーと死ぬぜ? アッシュ」

「お前にはもう、私をその名で呼ぶ資格はありません。

 死になさい。今すぐに――!!」

 白銀の刀身に熱が篭る。

 ヒューゲルが感心したような顔を見せたかと思うと、それはすぐさま嘲笑

へと変わる。

「相変わらず、魔力は弱いままなようだな。能無しアッシュ」

「えぇ、そうですよ――何か、問題でもありましたか?」

 大剣の柄を握る左腕が僅かに震える。

 それを支えるように右手を添えると、アシュレイドは思い切り歯を食い縛った。

「久しぶりだな。お前と喧嘩すんのも!」

 やわらかい草の上に転がる夕莉の体。

 血の気、何もかもを、失ったその体は草原を撫ぜる風の中で、妙な違和感

を放っていた。

「喧嘩? そんなものではありませんよ……」

 炎を纏った刀身がヒューゲルの腕を薙ぐ。篭手を溶かし、その下の皮膚を

焦がす臭いが鼻をつく。普段は不機嫌な顔をしているアシュレイドの顔には、

修羅の如き形相が浮かべられており、ヒューゲルは知らず知らずの内に冷

や汗をかいていた。

 こんな状態のアシュレイドを見るのは久しぶりだ――と呟きながら。

「私は本気であなたを殺します」

 再び振り上げられた大剣が風を焦がす。

 耳には聞こえない絶叫は失われる精霊たちの断末魔の悲鳴。

 強い魔力をもつ者だけが聞くことのできるその声は、あたかも古い時代に流

れた歌を紡ぐようにして奏でられていく。見えない音色が草原にいる三人を包

み始める。

 

 

――……あぁ。貴女の声が聞こえます……美しい、夜の女性――

 

 

 一際巨大な炎の一撃が地面を抉る。その余波で体勢を崩したヒューゲルが

舌打ち、大きく飛び退く。刹那、先ほどまで彼がいた場所を体験の切っ先が掠

め、肌を熱気が焼いた。

「シャレになんねーな。テメェはよ」

 爛れた皮膚に触れないように汗をぬぐいながら、ヒューゲルはアシュレイドを

まっすぐに見据えた。

 怒りに満ちた顔をしているアシュレイドなんて珍しい。

 笑いもしなければ、怒りもしない男――

「ヒューゲル、私は幼少の頃にも言ったはずです」

 人形とすら言われるほどに感情のない子供であったアシュレイド。ヒューゲルは

幼少時の剣の師の覇気に圧されそうになる。

「私の宝を奪うのなら、誰であろうと容赦しない……と」

 青い瞳が凍りつく。

 それはアシュレイド自身が操る、炎を纏う大剣でも溶かせない絶対零度の氷壁。

 ヒューゲルはチラリと動かない夕莉へと目をやる。

 そろそろ――だ、と笑う。

「おい、ナナセ! いい加減に起きてみろよ」

 炎の刀身が怒りに任せて振り下ろされる。容赦のないそれはヒューゲルの肩を

裂き、赤い血しぶきと肉を露出させた。

「アッシュ、見てみろよ……これが、テメェが宝だとかのたまってるヤツだぜ?

 本当は、テメェも知ってたんじゃねーのか?」

 ヒューゲルの足元で、夕莉の指先が動く。

 確かに事切れたはずなのに。

 血の気の失せた肌は赤みを帯びて、濁った瞳は再び生気を取り戻す。

「……あ゛ー? 首が、いてぇ」

 ゆっくりと、起き上がるその体。

 まるで最初から、何もなかったかのように。ただ居眠りをしていただけのよう

に折られた首は、この草原に来た時と代わらぬ状態へとなっており、つい先ほ

どまで確かに死んでいたとは思えなかった。

「ナナセ様!」

「アシュレイド、僕は死んだよな? いまさっき」

 不思議そうに自分の首に触れる夕莉。

 その漆黒の瞳がヒューゲルを捉え、傷口へと視線が動いた。

「ふーん、アシュレイドって強いのか。初めて知った……つか、なに喧嘩して……

わっ」

 眠りから覚めたときのように、取り留めのない話をしだす夕莉を思い切り抱き

締めるアシュレイド。草のついた漆黒の髪を撫で、折れたとは思えない首に触

れ、顔を胸に埋めさせる。

「良かった……ナナセ様……良かった……!!」

「いや、状況よめねーから」

 アシュレイドの腕を押し戻そうにも、もともとの腕力の差のせいで無駄な抵抗

となってしまった夕莉は小さく溜息を吐いて、抱き締められた状態のまま疑問

点を口にした。

「おい、ヒューゲル。僕はどうなったんだ?」

「死ぬはずだったけどな、精霊が放さねーんだよ。

 双紅の大魔導師、キルケ様の転生体を気に入ってっからな」

「は? なんだそりゃ」

 死ぬはずだった生物の運命を、捻じ曲げるほどの力がある精霊なんても

のは聞いたことがない。そもそも精霊というものは森羅万象、すべての中に

息づいている微弱な存在であり、魔術を構成する際に言霊で属性ごとの精

霊を一つに固めていく――そういった存在のはずである。

 木々のようなものならば多少の影響があるだろうが、人間や魔族に作用

するなんて聞いたことがない。

「はぁ、なるほどな。大賢者は余計な知識を与えないように、素早く消したわけか?」

「何をだよ」

 どうも理解できないことが多い。

 そこそこ知識はつけたつもりだが――それこそ、日常生活どころか、軍人とし

て部下から頼られるほどの知識はもっている。

 しかし、それでも理解できないということは、それ以上の何かがあるようだ。

 夕莉はアシュレイドの胸に顔を埋めたまま、唇を尖らせた。思ったよりも筋

肉質な胸板から伝わる、心臓の鼓動が少しずつ落ち着いてくる。

「テメェが先天的に持ってたニヴルヘイムの常識……いや、正しくはな。

 大魔導師キルケがもってた知識のすべてだな」

「消される理由は?」

「それこそ、こいつに聞いた方がはえーんじゃねーのか?

 なぁ? 大賢者補佐殿」

 ヒューゲルの言葉にアシュレイドが顔をあげる。端正な顔は再びいつもどお

りの不機嫌なものとなっており、先ほどまで激昂したり微笑んでいたりした人

物とは思えなかった。

「――此度、誕生された大賢者様とは先日初めてお会いいたしました。何も言

われておらず、こちらとしても戸惑っているのが現状です」

 淡々と告げ、抱き締めていた手から力を抜く。

「ヒューゲル、魔族へと戻りなさい。大賢者様に伝えることがあるはずです」

「やなこった。大賢者に利用されて喜ぶのは先祖だけで十分だっつーの! ナ

ナセ! オレと来い。このまま魔族のとこにいてもイイコトなんか一つもねーぞ!」

 今日はずいぶんとコロコロと状況の変わる日だ――そんなことを考えていた

夕莉は漆黒の瞳をヒューゲルへと向けた。先日別れたばかりの友人の顔を思

い浮かべ、少しだけ笑う。

「できねぇな。人間のトコに行ってもかわんねぇよ。

 黒に近ければ近いほど、ヒトに近ければ近いほど。より強力な力を持つ魔族

である。これが人間どもの常識だろ? 僕がアンタと行っても迫害の日々が

待ってるだけだろ?

 ――それに、こっちにゃあ……アイツがいる。それだけで救われんだよ」

 浮かべられた微笑にヒューゲルが驚いたような顔をして、そのまま笑い出す。

「なるほどな! 魔王に囚われたってワケか!」

「アイツは何もしてねぇよ。僕がいたいからいる、それだけ――」

「本当に、それはテメェの意思か?」

 浮かべられていた笑みが消える。

 魔族の平均から見れば、ヒューゲルの容姿は十人並みではあるが、人間

の標準からするとかなりの美形である。その顔が嘲笑を浮かべ、冷徹な瞳

を向ける。

 それは魔族としての本性が滲み出たもののように感じられ、夕莉は思わ

ず息を呑んだ。

 ――ゾクゾクする。

「大魔導師の転生体として、テメェは人形にしかなれねー。

 オレはいつでもテメェに人間としての幸せを約束してやれるぜ」

 それはきっと、普通に告げられた言葉。しかしそれは甘美なささやきにも聞こえた。

「ヒューゲル、口が過ぎますよ。やはり、その舌掻っ切った方がいいようですね」

 低い声でアシュレイドが告げる。

 その言葉に臆することなく、まるで恐いものなど存在しないかのように、ヒュー

ゲルはアシュレイドのに腕の中にいる夕莉へと手を差し伸べた。

「来い!」

 息を呑む。

 真剣な眼差しに囚われたくなる。

 力強く、抱き締めてくれる腕を求めたくなる。

「……ふっ」

 気付けば、鼻で笑っていた。

 愚かな自分を、笑っていた。

「大きなお世話だっつの。バーカ」

 もう、抱き締めてくれる腕など不必要な大人になったというのに。

 暖めてくれるヒトなんて不必要だというのに。

 甘い言葉に誘われて、危うく失うところだった。

 生きる場所を――

「双黒の大魔女ナナセ=ユーリ。それが今の僕、わぁってんのか?」

「……はぁ。これだから人間も魔族もバカだってんだよ。

 ナナセ、テメェは大賢者と大魔導師に騙されてんだっつーのに」

 頭を掻いて、ヒューゲルは呆れたように呟いた。

 それでも夕莉はどこか笑みを孕んだ表情のまま、

「大賢者だとか、関係ねぇよ。僕はアイツを信じてる。

 アイツの傍にいることだけが幸せだってな」

「……はぁ……苦しんでもしらねーぞ。オレは」

 くるりときびすを返して、ヒューゲルが歩き出す。その背中はどこか哀愁を誘った。

「ナナセ様……」

 小さくなっていくヒューゲル背中を見送っている夕莉の耳元で、アシュレイドが

何かを囁いた。あまりにも小さな声過ぎて、何を言っているのかわからなかった

けれど。

 アシュレイドの声が震えているような気がした。

 耳を澄まして、震えている声が紡ぐ言葉を探る。

 

「……無事で……よかった……」

 

 ――生きていることを喜ばれた。

 この、不器用な男が喜んでくれた。

 すごく、不思議な気持ちになった。

 冷たい手足が暖かくなっていく気がした。

 

 

 すごく、暖かいんだ。

 

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