夕闇の中、グレイがバルコニーで夕陽を眺めていた。

 血のような色をした、真紅の瞳の中央で瞳孔が縦に割れ、鋭い牙の覗く

口元には食事の痕だろうか、凝固した血液がこびり付いている。

「グレイ。なにしてんだ?」

 背後から声をかけると、グレイのほどよく筋肉のついた肩が大きく震え

た。それに合わせて一対の漆黒の翼が小さく羽ばたく。

 飛ぼうとでも思ったのか、その足が少しだけ浮かんでいる。

「あ、ナナセさま。どうしたの? ボクに用事があるの?」

 振り返る、その顔。

 横顔からではわからなかったが、どうやら泣いていたらしい。涙が溜まっ

ている。

「別に。珍しくバルコニーにいたから声かけてみただけ」

 普段はここに近寄ろうとしないのに。夕莉はバルコニーの柵に触れなが

ら、グレイの見ていた夕闇の空へと目を向ける。

 美しい黄昏。

 まるで滅びの前兆のような――

「ナナセさま」

 珍しいことを考えていた夕莉の耳にグレイの、腰に響くような低音でありな

がらも、喋り方のせいですべてが台無しになっている声が聞こえる。

「なんだ?」

 振り返って、グレイの顔を見るよりも前に口付けられた。

 至近距離にあるグレイの真紅の瞳が夕陽に輝いていて、宝石のように思えた。

「ボク、少しだけ淋しかったんだ。ずうっと、ずうっと昔にね、キルケさまはここ

で死んだの。ボクはまだコウモリで、小さくて、何もできなかったんだ。

 もうすぐね、キルケさまの命日なんだよ。だから……ちょっと、色々思い出し

てた」

 グレイの吐く息は少しだけ血の匂いがした。

 まるで子供のようなことを言いながらも自分よりも、ニヴルヘイムにいる、

どの魔族よりも長い時間を生きていると感じさせる言葉に夕莉は、返す言葉

を探すことを放棄したくなった。

 それでもグレイは困ったような笑みを浮かべながら、夕莉の頬に再び口付

けを落とす。

「キルケさまがね、好き。っていう感情は伝えられる間に伝えた方がいいっ

て言ってたの。

 戦はなんでも奪ってくから。たくさんの好きを伝えないと、って」

「キスがグレイにとって好きを伝える方法なのか」

 夕莉の呟きにグレイは満面の笑みを浮かべた。溜まっていた涙が零れ

落ちて、途中で消える。

「うん!」

 元気のいい返事はグレイを異性としてではなく、幼い子供として認識させ

る。それゆえに口付けられても動揺しなくなったのだが――やはり、見目麗

しい美青年の顔が近くにあると気恥ずかしい。

「そうか。満足したらさっさと離れろよ」

「うん。だから……もちょっとだけ、ギュー」

 長い腕を背中に回されて、抱き締められる。

 抵抗する必要性を感じなかったので、何もしないことにしたが――

 人間よりも、魔族よりも高い体温は動物的なものを感じさせた。この世界に

来てから他人に触れられる回数が増えたと思う。

 アシュレイドは書類を持っていけば頭を撫でるし、メーアは挨拶の際に必ず

抱き締めてくる。ゾンネは肩や背中を叩くことが多いし、シュテルンに至っては

飛び蹴りをかますほどである。

 唯一、触れてこないのはヒンメルくらいだろうか。

 魔族とは――スキンシップの激しい種族だと思う。

 悪くない、そんなことを考えながら夕莉は人間とは違う鼓動を奏でる、グレイ

の心臓の音に耳を傾けていた。

「お。七瀬ー! そろそろ深山が帰ってくるってさ……って、あれー? ラブコメ

かい?」

「ばっ!! 何言ってんだよ駿河!!」

 思わずグレイを突き飛ばしそうになったが、そんなことをすればグレイが泣

きそうな顔をするに決まっているので、夕莉は首を己の限界までひねって真

を睨んだ。

 眼鏡の奥の瞳を笑わせて、どこで発掘してきたのか真っ赤なマントを小脇

に抱えている真は変なヤツに思えた――元々かもしれないが。

「ボクも混ぜて〜♪」

 何も持っていない方の腕を広げて、夕莉を背中から抱き締める。

「こらっ!! なにしやがっんだ!」

 思い切り怒鳴るが、真はニコニコと楽しそうに笑ったまま離れようとしない。

「だーもう!!」

 同世代のせいか、グレイとは違って異性として意識してしまうからか――

はたまた別の理由か、心臓の鼓動が早くなる。心なしか顔も熱くなっている

気がした。

「あれ? 七瀬、熱でもあるの?」

「ねぇよ!! いいから離せよ!!」

 きっと赤くなっているに違いない顔を隠そうと、グレイの胸へと顔を埋める

夕莉。その後頭部に額をくっつけて、真はなにやら笑っていた。

「はは。やっぱり七瀬って可愛いよね」

「寝言は寝てから言え! グレイ、僕は先に港行くから!」

 グレイの手を離させ、夕莉はカロンを呼ぶ。耳がついているわけでもない

のに、即座に駆けつけた大鎌は真紅の刃の部分に夕莉の足を乗せ、その

まま浮かび上がる。

「駿河も離せっての!」

「もーしょうがないなぁ。ボクって高い所得意じゃないんだよね」

「一緒に来る気かよ……」

 呆れたように呟くと、夕莉は諦めたのか真を背中に張り付かせたまま、カ

ロンを出発させる。その姿を仰いでいたグレイは目を細めて、

「ナナセさまも、マコトさまも嬉しそう。きっと魔王さまも嬉しいよね。三人一

緒なんだから」

 黒い羽が羽ばたいて、二人の後を追うために空を舞う。

 

 

 

「なんで戦争したがるのかがわかんねーよ!!」

 なぜか、突然、キレられた。

 魔剣を両手で抱えた結梨は首を傾げたくなるほど、ご立腹で文字の通りぷ

りぷりと怒っていた。

「なにがあった?」

 控えていたメーアに耳打ちをすると、メーアは久しぶりの再会を喜ぶように

夕莉を抱き締め、それから口を開いた。

「タナトスを保管していた村が戦の影響で滅びていたのです。陛下は幼い子

の亡骸を見て酷く憤慨しておられて……」

「あぁ、なるほどな……深山ならキレかねねぇな」

「七瀬も思うよな!!」

「えっ、あっ!!? あぁ……そう、だな」

 突然話をふられ、全力で驚く夕莉。唯一の友達である結梨に同意したい―

―だが、ここで戦争を放棄しては今まで守ってきたものすべてが奪われる可

能性もあるので、戦争をするな――と声高に言えないのが辛い。

 そもそも、悪いのは停戦状態まで持っていったのに、それを破った人間が―

―と悶々としている夕莉の目の前で、突然結梨が立ち上がった。

「決めた。オレ、魔王なんだろ? よし決めた」

 ――あぁ、なぜだろう。待ちに待った友の魔王襲名だというのに、どうして。

どうして。

「オレは戦わない魔王になる。戦争なんてないほうがいいに決まってる!!」

 

 どうしてこうも、嫌な予感ばかりが胸を過ぎる?

 

「この魔剣も……戦争のための道具なら使わない」

「陛下!!」

 ゾンネが声を荒げる。シュテルンの瞳が恐ろしく冷たい。

 ヒンメルはすでに興味を失ったのか、姿すら見えない。

「オレは魔王、深山結梨。戦わない魔王目指して、全部の国が仲良くなれる

ようにするんだ」

 未来を映す瞳は輝いて。

 魔剣がそんな強い光に耐えられるものか。戦うための剣だというのに。

「戦争で死ぬなんておかしいだろ?

 食い物がなくて親が子供喰べるなんておかしいだろ?!」

 熱弁を揮っている結梨を見る、色を継ぐ一族たちの瞳は冷たかった。それ

でも、彼らが見放そうとしないのは、魔神王の影響か。

 転生体だと信じて疑わない――その心か。

 夕莉は二年という時間の差が生み出した、唯一の友との別離を感じながら

も、その強すぎる光から眼をそらすことができなかった。

 どのようなことが起きても守るのだと、そのために戦うのだと、改めて誓う。

 ――それが、命を蝕むものだとしても。

「だから、魔王であるオレから武力を放棄する!」

 力強い、凛とした言葉。光に耐え切れなくなった魔剣が砕ける。

 パラパラと、降り注ぐ破片は魂水晶と同じもの――魔剣は古の時代の魔族

たちの想いの結晶だったのかと、理解するよりも少し前に結晶は完全に消える。

 平和へと導こうとする新米魔王の言葉に、一部の魔族が賛同していた。

 シュテルンの姿が見当たらない。

 ヒンメルと同じように呆れ果てたか。

 夕莉は隣に立つメーアの複雑な表情を仰いで、

「メーア、ごめん」

 小さく呟いた。

「――兄が悪いのです」

 夕莉の言わんとすることを即座に理解して、メーアは微笑んだ。

「わたくしはナナセ様についていきます。ナナセ様だけに」

「――ありがとう」

 罪深い、僕を許してくれてありがとう。

 

 

 砕けた魂水晶は消え果てて。

 それを見送った少年は忌々しそうに、新米魔王を睨んだ。

「……無能め……!」

 

 

第二章「無能の王は剣を折る」 完