寒い。凄く、寒い。

 手の先から凍っていく。

 足が痛くて立っていられない。

 やめて。

 おねがい。

 家に入れて。許して。助けて。

 黙ってるから。

 何も言わないから。

 お願い。

 おねがい。

 おねがい……

 

 もう、いじめないで。

 

 

 

 

「……ちっ」

 一日ぶりの私室だというのに、妙に落ち着かない。最近はこの部屋にも

愛着が湧いてきたはずだったというのに。

 小さく舌打ちをして、夕莉は静かになった森へと目を向ける。ガラスの向こ

うに見える深緑の森は魔獣たちが滅多に来ないご馳走をたらふく食べてい

るのだろう。

 今宵は悲鳴が絶えない。

「あぁ。この声のせいか」

 ベッドから立ち上がり、窓ガラスへと額をつける。ひんやりとした感触に少し

遅れて、数多の悲鳴が振動になって響いてくる。

「ウゼェ……全員、殺しゃあよかった」

 吐き捨てるように呟いて、目を閉じる。

 闇の中に浮かび上がるのは――忘れたと思っていた人の姿。

「……クソ……厄日だな。化け物に、悲鳴だと? ウゼェ、ウゼェ」

 繰り返し口の中で呟いて、夕莉は再びベッドへと横たわる。風呂には入った

というのに、全身から血の臭いが消えない。どれだけ深く刻まれてしまったのか。

 ――この、忌々しい香りは。

「ナナセ様」

 ふいの呼び声とノックに、夕莉は寝転んだまま返事をした。

 小さく音をたてて開く扉。そこにはアシュレイドがいつもと変わらないような不

機嫌な顔をして立っていた。服装は寝巻きではあったが、いつでも戦えるよう

に改良されている。

 アシュレイドが来たということは、戦況についての話なのだろうと思った夕莉

は、話を聞く体勢をとろうと上半身だけを起こした。

「何?」

「明日……えぇ。もう、人間の大半は殲滅してあります。

 残りは水の国の民に任せても平気でしょう――ですから、明日は私に付き合っ

てもらってよろしいですか?」

「はぁ? よーはサボりってことだろ? ……べつにいいけど」

 夕莉の返事にアシュレイドの顔が明るくなる――といっても、一部の魔族にし

か分からないような僅かな変化ではあったが。

「そうですか。では、また明日――」

 アシュレイドの手が夕莉の黒髪を軽く梳く。

 本人は無意識のうちの行動なのだろうが、そういった他人に触れられるという

経験に乏しい夕莉からすれば、驚きでしかなかった。

「……」

 反射的に、手がアシュレイドの手を払う。

「すいません。出すぎたことをいたしました」

 どれほど、冷たい目をしていたのだろう。

 アシュレイドの哀しそうにも感じる声に、微かな罪悪感を感じながらも何も言わな

い夕莉は、唇をきつく噤んだまま、払いのけた手へと触れた。

 自分よりずいぶんと大きい手の、指を握る。

「……気にすんな。お前が悪いわけじゃねぇ」

 少しだけ俯いて、小さく呟く。

「ありがとうございます。ナナセ様」

 指を握った手を、包むように握り返す手の温度が心地良い。

 その温度に、夕莉はますます何も言えなくなった。俯いて黙ったまま、軽く歯を食

い縛った。

 

 

 ――ねぇ、冷たいよ。手が冷たい……暖めて。暖かいものが欲しいの……

 

 

 青々とした草原が広がって。

 自分の住んでいた所も完全な都会ではなかったが、ここまで広い草原など

存在しなかった。見たこともないような小鳥たちが戯れあい、汚れなど知らぬ

ような野性の花々が咲き乱れている。

「ピクニック……ってヤツか?」

 広がる草原を眺めながら、夕莉は背後でバスケットを持っているアシュレイド

へと問い掛ける。不機嫌な顔をした、長身の男がバスケットを持っている様は

とてもおかしい。

「はい。ナナセ様の心の安らぎになればと思いまして」

 さらりと告げられた言葉に夕莉の表情が歪む。

「……バカじゃねーの?」

 ぼそりと告げられた言葉。

 その言葉にアシュレイドは不機嫌になるでもなく、少しだけ口元を緩めてい

た。その場にバスケットを置いて、夕莉の隣へと立つ。

「ようやく、笑ってくださいましたね」

「笑ってたか?」

 思わず、自分の顔へと手を伸ばす夕莉。

 触れてみてもよくは分からないが、アシュレイドが言うのだから笑っていたのだ

ろう。これはウソがつけるほど器用な男ではない。

「最近は、ずいぶんと笑う回数が増えたように思えます」

「そうか?」

 その場に腰を下ろして、再び戦乱の世へと変わろうとしているとは思えないよう

な、平和な風景へと視線を向ける。隣に腰を降ろすアシュレイド。

 穏やかな風が頬を撫でていく。

「はい。魔神王様が訪れる少し前からでしょうか。

 ――少し、妬けますね」

 アシュレイドの顔が夕莉へと向く。

 青い瞳は優しくて、長い灰色の髪が風に揺れる。

 魔族にはありがちな整った顔には微笑が浮かべられていて――

「……マジメにバカなこと言ってんなよ……恥ずかしーヤツ」

 少しだけ、心臓の鼓動が早くなった。

「バカなこと、ですか。私としては本気なのですが――二年前から、気持ちは変わっ

ておりませんし。

 寧ろ……二年前よりも、強く。あなたに惹かれているのかもしれません」

 青い瞳に自分が映る。

 低く囁かれるような声は心地良く響いて。

 惑わされるのなら、いっそのこと――

「っと! バカ言うんじゃねぇよ。僕はお前なんか」

「答えは求めていません――少なくとも、今現在では」

 細めた目は彼自身が生きた時間の長さの片鱗を感じられ、それを欠片も

理解できない自分の未熟さを恨みたくなる。大人であれば、アシュレイドを口

で言い負かすこともできるかもしれないのに。

 子供の時分では何もできやしない。

 勝てない悔しさに軽く頬を膨らますと同時に、周囲の空気が変わったのを

肌で感じる。

 それは隣に座っているアシュレイドも同じだったのか、手放すことのない大

剣へと手をかけている。いつでも、抜けるように。

「悪いなぁ。デートの邪魔しちまったか?」

 ズカズカと、花を踏み荒らして近づいてくる大男。

 その姿に夕莉は思わず言葉を漏らす。

「ヒュー……ゲル」

「生きていたのですか」

「勝手に殺すなよな」

 アシュレイドへと目をやると、すぐにヒューゲルは夕莉へと目を向ける。

 自信に満ちた瞳が一気に哀れみを称えるものとなる。

「痩せたな。人間の身で魔族の地にいんのは辛いだろ?

 同族を殺すのは、キツイだろ?」

「ナナセ様に近づくな。裏切者」

 大剣を抜こうとするアシュレイドの手を、夕莉が止める。

「いい。僕はアイツに話がある」

 口答えしようとするアシュレイドを目で黙らせ、夕莉は立ち上がる。その足

は迷いなどなく、まっすぐにヒューゲルの元へと向かっていた。

「二年ぶりだな。髪は伸ばさねーのか?」

 軽い口調のヒューゲルの言葉に夕莉は、

「皮肉か? 伸ばさねぇよ」

 低く、冷たい声で応えた。

「ハッ。相変わらず、可愛げがねぇな――ま、そんなところもいいと言えばい

いか?」

 ヒューゲルの目が笑う。

 酷く、腹立たしい目つきだった。

「強気な女を従順に仕立て上げるのも楽しそうだな」

「ヒューゲル!」

「アシュレイドは黙ってろ。つか、余計なお世話なんだよ」

 吐き捨てるように告げられ、アシュレイドは口を噤む。

「おい、ヒューゲル」

 夕莉の視線がヒューゲルへと向かう。ニヤリと笑ったヒューゲルの腕が伸び

てきても、彼女は表情一つ変えずに立っていた。

「今度は僕を殺せるのか?」

「言うじゃねーか。可愛い女の子を殺すのは忍びねーけどなっ!」

 首を掴んで、片手で持ち上げられる。

 ぶら下がっている四肢が抵抗を始めるよりも早く、夕莉が何かを告げるより

も前に。

 ――鈍い音が、響いた。

「な……な、せ……さま」

 四肢は抵抗を始めずに、揺れている。

 笑うヒューゲルの横顔を睨む、アシュレイドの双眸が見開かれた。

 

 

「ナナセ様ぁぁああぁぁぁぁぁあ!!!」

 

 

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