コカトリスが鳴く。

 その声は目覚めの声。夜明けと共に鳴くコカトリスは卵を産み落とし、

再び栄養をつけるために物を探してうろつく。この時間帯は魔族にとっ

ても目覚めの時間に近い。

 特に――この霧の大陸から出るものにとっては。

 

 

「配置は守ったな?」

 夕莉の視線に応えるようにメーアが頷く。

 彼女の手には古い、洋紙が一枚。そこに描かれているのは古の魔

術、かの大魔女キルケが考案した結界術であり、それによりこのニヴ

ルヘイムは神々からの攻撃に耐えたとも言われている。

 それを再現するべく、彼女は先ほどから法陣の中心に立って瞑想し

ている。

 閉じた双眸は何を見るのか、時折り唇には笑みが浮かべられている。

「む……」

 小さく、唸る。

 周囲の風の匂いが変わり、巫女たちがザワザワと声をあげている。そ

の中で夕莉は目を閉じたまま、困ったような顔で、

「なるほどな……メーア、事情説明と――王の安全を守るようにな」

 短く告げ、彼女は一気に口の中で祝詞を紡ぐ。それは古い時代の歌―

―大魔女が自らを愛したすべてを守るために紡ぎあげた守りの歌。

 それを紡ぐ夕莉の姿は彼女たち魔族にとっては美しく、できることならば

この姿を絵画にしてしまいたいほどであった。それらの欲望を押しのけ、自

らの立ち位置に立っている巫女たちは順々に伝えられた祝詞を紡ぎあげて

いく。

 手にした剣鈴がシャラリと音を立てる。

 それらは幾重にも重なり、一つの音色となって響き渡る。

 精霊を魅了し、霧の大陸と呼ばれる由縁となった霧を濃くしていく。それ

は大陸内にいる彼らには見えず、外から見れば大陸すべてを隠してしまう

ような濃霧。

 それらが大陸中を包み込むと、それを維持するために巫女たちが眠り

につく。

 体内の魔力すべてを精霊に捧げる覚悟で、彼女たちは最後の眠りに

ついた。

「さて……メーア、頼んだよ」

 法陣の上に座り込み、夕莉はどこか息を荒くさせていた。顔色が悪い

が、彼女はそれ以上は何も言わずに俯いた。肩が震え、魔力を吸われ

ていく苦痛に耐えている。

「……はい。ナナセ様」

 メーアは歯を食い縛り、自分のすべきことをするために眠そうな顔で

近づいてくる結梨へと体を向けた。息を整え、まっすぐに――

「ユーリ様。わたくしは……わたくしは、黒の一族のメーア=シュヴァル

ツ=エリゴール、このたび大魔女ナナセ様に代わりまして、あなた様の

護衛を勤めさせていただきます。 赤のゾンネと、青のヒンメル。そして

白のシュテルンの到着をもう少々お待ちください」

 大げさとも言える動作で頭を下げる。その行為に結梨が目を見開く。

だが、彼が何かを言おうとする前にメーアは口を開いた。清楚な美人

という表現が当てはまる彼女の瞳は凛としており、結梨は思わず息を

呑んだ。

「これから、あなた様にはニヴルヘイムに伝わる魔剣――タナトスの

捜索に参加していただきます。この国はナナセ様と、ネビロス様の遺

産によって守らせていただきます。さぁ、お手を――詳しいことは、船

の上でお話いたしましょう」

 差し伸べられた白い手。

 それを受け取るよりも前に、彼は背を向けている夕莉へと目をやっ

た。震えている肩に気付き、手を伸ばす。

「七瀬、体の調子でも――」

「深山!」

 後方から聞こえた真の声。

 それに驚いて、思わず触れようと思った手を縮める。一瞬、指の先

を嫌な風が過ぎった気がしたが、すぐさま指は元の体温に戻ったので

深くは考えずに、彼は近づいてくる真へと振り返る。

「メーアさんが待ってるだろ」

「あ、あぁ……七瀬、顔色悪いから無理すんなよ」

 結梨の言葉に返す言葉はなく。

 ただ、風が頬を撫でただけだった。

 

 船が出港する――四人の英雄の子孫と、愛しい魔王を乗せて。

 

 残された彼女はようやく紡ぎ終えた結界を安定させるために、最後の

仕上げを施していた。これで自分たち魔族と水の国の住人以外は入る

ことができない。

 攻めてきても早々に蹴散らせる。

 安堵したように微笑んで、彼女はその場でたたらを踏んだ。

「ちょっと、魔力使いすぎた……か、頭ぐわんぐわんしやがる……」

 額を抑えて呟くと夕莉は、背後から自分を抱き締める腕に、驚くよりも

前に冷ややかな反応を見せた。

「なんだ?」

「疲れてる七瀬に癒しを、って思って♪」

 明るい笑顔で笑う真。眼鏡が光を反射させているせいで、どんな目をし

ているのかまでは分からない。ただ、笑ってはいない気がした。違和感の

ある笑顔。腹に一物を持っているか、彼女が地球にいたころに恨みでも

持っていたか。

 静かに考える夕莉の耳元へ、真の声が響く。

「ねぇ、やりたいことがあるでしょ? 本能とか、欲望、とか……忠実にな

りなよ」

「――!?」 

 ゾクリとした。

 耳朶に唇が触れそうなほどの距離でささやかれ、熱い吐息が耳の奥

まで侵食していくような錯覚。触れる手が蛇のように絡みついて――逃

げられない。

「七瀬、美しい夜の化身……」

「お……い、駿河……なん、の……」

 抱き締められている――否。これは囚われている。

 耳たぶを噛まれ、舐められる。頭の奥に響く鈍い痛みは思考を遮り、

脳裏に濃霧を生み出す。息をするのもままならないほどの頭痛、全身を

支配しようとする熱。

 それは今までの人生に存在するはずのなかった――背徳を感じさせるもの。

「……美しい夜……ボクが誰だか分かる?」

 最後の囁きは視界を闇に落とす。

 心地良いと思った闇の腕。抱き締められて、肌に触れられて――それ

以上でもかまわないと思った。それが自分の意思なのかはわからない。

 この熱はすべてを狂わせる。

 この熱は、自分ではない誰かを呼び出す。

 求めるな、呼ぶな、触れるな。

 声はもう、どこにも聞こえない。

 

 

 カツン、カツン。冷たい音を響かせて、玉座に座る王の前へと立つ漆黒の衣。

「お初にお目にかかります、魔王陛下――」

「大魔女か、呼んでおらぬ。立ち去れ」

 吐き捨てるように告げる魔王に彼女は嘲笑を浮かべ、手を振り上げた。

 その先には炎の球がいくつも浮かび、周囲をユラユラと照らしている。

「それは困ります。私はあなた様を抹殺しに来たのですから」

 周囲がざわめく。

 ここにいるのは彼に甘い蜜を吸わせてもらっている貴族どもか、と冷たい

双眸で睨みながら、彼女はその手に大鎌を握った――だが、カロンはまるで

彼女に使われることを拒否するかのように暴れると、そのまま窓ガラスを砕

いて外へと出て行ってしまった。

 その姿に彼女は苦笑を浮かべる。

「姿形は同じだというのに」

「貴様……大魔女ではないな……?!」

「さぁ、それはどうでしょう――」

 姿が、掻き消える。

 まだ夜も遠いというのに、周囲には濃い闇が立ちこめて。護衛についてい

た兵の姿も、集まっていた魔術士の姿も見えなかった。それでも聞こえるの

は短い悲鳴。鼻をつくのは強い血の臭い。

「さぁ――あなたが最後です」

 背後から聞こえる声。

 命乞いをしようと思うたが、何も言葉が出てこないのだろう。口をパクパク

させて今にも死にそうな顔をしている魔王。

 その姿を見ている彼女の瞳に一瞬だけ、迷いが生じた。

「……メーアの、兄さんだろ? 殺したら……メーアが悲しむ」

 そんな顔は見たくない、と告げる彼女を抱き締める腕。それは蛇のように

絡み付いてまともな思考を奪わせる。

「契約違反者は始末しないといけません……ほら、ボクが手を引いてあげ

ますから」

「メーアが……メーアの、大事な……」

 腕が、動く。

 その手には何も握られていないというのに、鋭利な刃物のように魔王の

胸を切り裂く。手を濡らす生暖かい血液。

「あなたはエリゴールの子孫のことなど、考えなくていいのですよ。

 考えるのなら――叶わなかった、未来を考えていてください」

 めり込んだ手、もう無理だと思った。

 今、何をしても助からない。小さな手は心臓を掴み、今にも握りつぶそうと

構えている。苦しそうな魔王の顔は僅かにアイリーンと似ていた。

 メーアに似ていなかったのが、唯一の救いかもしれない。

 彼女は息を止めた。

 手が、勝手に動くと知っていたから。何も抵抗しなかった、それは無駄なこ

とだと理解して――

 ただ一心に、友人に謝っていた。大切な者を壊してごめん、と。

 

 

 葬儀は厳かに行なわれたようだ。

 大魔女として呼ばれることもなく、彼女は自室で書類を片付けていた。手

が、まだ覚えている。

「……メーア……ごめん……メーア……僕は…………とんでも、ない……」

 机に額をつける夕莉にカロンが寄り添う。冷たい金属が、ほのかに暖かく

感じる。

 見知らぬ大陸で、彼がどうしているのかを――必死で考えようと思った。

彼が座る椅子は手に入れたと喜ぶことができればよかった。

 ただ、今は――今だけは、流れない涙を憎むことも、罪の意識に苛まれ

ることも、何もかもが間違っている気がした。悪いのは自分だと、意志の弱

い、自分を責めていればいい。

 そう――思い込んだ。

 

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