決闘は嫌いではない。
――ただ条件がある。
「深山、ちょっと奥で休んでなよ、駿河も」
彼の前では戦いたくない。彼には知られたくない。
こんなにも血に飢えた自分を。
殺戮に餓えた自分を見られたくない。
彼女は浮かべた笑みを消さぬように気をつけながら、アスタロトをそ
のまま女性にしたような容姿のアイリーンを見やった。肩越しに見える
のは戸惑った表情の友人。
「アシュレイド――案内して」
「はい……こちらです」
不機嫌な声に慄く深山。確かに恐いだろう、身長も顔も声も。
夕莉は視界から二人の姿が消えたのを確認すると、大きく息を吸い
込んだ。室温ですっかり暖まった空気は肺の中で燃えるように熱くなる。
――刹那。
「んで、誰にケンカ売ってんだ? テメェ」
言葉と共に炎を吐き出す。体内での魔術構築に魔族たちの驚愕の
声があがる。この程度のこと、かの大魔導師はいとも容易くやってい
たろうに。彼女の残した本から学んだのだから。夕莉は口の中に残っ
ていた炎を吐き捨てると、紅蓮の炎を結界で凌いだアイリーンを冷たく
見据えた。
「テメェが道楽してる間にこちとら、うん百万の魔族救ってんだよ。
今更人間は認めねぇだと? 寝言は棺桶の中で言えよ」
唇が、ニヤリと笑う。
「――ブサメス」
「な、なんですって……! 許せませんわ、怒髪天ですわ!!」
レイピアを抜き、焦げた絨毯を踏み締める。そのブーツのヒール部分を
狙って大鎌が大きく空を切る。風を切る音に魔族たちが各々の方向に飛
び退き、高価そうな鎧たちが倒れていく。
「きゃあっ!」
悲鳴が上がり、アイリーンの形のいい尻が赤い絨毯へと叩きつけられ
ていた。生まれた大きな隙を突くように一気に詰め寄り、夕莉は口を開く。
「弱いじゃねーか。ザコが僕に決闘とか挑んでんじゃねーよ」
「……下品ですこと!」
「下品でけっこう! 口ばかりザコヒスよりかは十分マシだからな」
その手に戻ってきた大鎌を愛でるように撫で、彼女は唇に笑みを浮か
べる。先ほどから浮かべられているのは侮蔑を含んだ、嘲笑。アイリーン
の青い瞳にみるみる内に怒りが浮かび上がっていく。
「もう……許しませんわ!!」
「ウゼェ」
小さく呟くと同時に、いつからいたのか魔族の中では小柄である少年が
駆け出した。
「二人とも! ケンカなんかすんなよ!」
「深山?!」
「人間!!?」
二人の動きが止まる。アイリーンの手の中でくすぶっている炎の魔術が
掻き消え、黒い煙を上げる。それとは反対方向に立っている夕莉の傍ら
の大鎌は何をするべきかとウロウロしていた。
その二人の間に立っている彼は――深山結梨は意志の強い、漆黒の瞳
で二人を交互に見やった。
「仲直りしろ。女の子が殴りあいなんてするなよ」
――哀しいだろ、と付け足して彼は二人の手をとる。
「……深山の願いだから聞いてやるけど、チョーシにのんなよ」
「ふんっ」
深山に聞こえないような――口だけの動作で会話を交わすと二人は渋々
握手をした。思ったよりも剣ダコでボコボコしているアイリーンの手とは間逆に、
夕莉の手は柔らかく、本当に戦うものかと疑いたくなる。
しかしアイリーンは何かを言うわけでもなく、呆然と深山結梨を見ていた。
白い頬にほのかに朱がさしたのは気のせいであろうか?
「名前を教えなさい」
「へ? 深山、結梨。だけど?」
「そう、ではユーリ。私は――」
どうやら、気のせいではないようだ。
彼女は解放されたことを喜んでいるグレイのはしゃぎっぷりと、周囲の魔
族の哀れんだ眼差しにすべてを理解した。そして瞬時に、どうやって彼を
守るかの算段を立て始めていた。
その間にもアイリーンはキラキラと双眸を輝かせて、結梨の顔をまっす
ぐに見ている。
「私はアイリーン=エリゴール。あなたの后になると決めた女ですわ」
さて困った、どうやってぶち殺そう。
「えぇぇえ?! い、いきなりそんなこと言われても……ていうか、そういう
のは長いお付き合いをしてからだな? 第一、本当にオレでいいの? オ
レは走ることぐらいしか自信ないし、頭もよくないし」
オロオロとモテた経験のない結梨が独り言にも近い言葉を吐いている。
その光景を眺めながら、夕莉は密かに口の中で詠唱を始める。精霊たち
を支配下に置いて、自らの手足のように動くよう――
「ナナセ様、例の魔剣の行方が判明しました」
ボソリ、と。
ゾンネが告げた。その言葉に夕莉は紡いでいた精霊の剣を解き放ち、漆黒
の瞳を結梨へと向ける。それは友人としての優しいものではなく、主従関係に
おける冷たくもなければ暖かくもない――感情などないに等しいものだった。
「わかった。条件はなんだった」
「――王の器たる者、魔神王の後継者です」
「ずいぶんだな……」
彼女はアイリーンに追い掛け回されている友人を見やる。
危険な目に遭わせたくは無い――しかし。
「護衛に僕と、四英雄の末裔でいこう。その間ニヴルヘイムには結界を張る。
巫女を総動員しておけ」
ボソボソと耳打ちをするように告げながら、夕莉は漆黒の髪を指で摘んだ。
だいぶ、痛んでいるか。そのまま目線だけを友人へと向けて、彼女は小さく腕
を動かした。
刹那、アイリーンは青い瞳を見開いてその場を飛び退く。その動きの素早さ
に結梨が驚いて騒いでいるが、彼女はそれが耳に入らないかのように苛立ち
に満ちた瞳をこちらへと向けていた。
「なんですの」
「出発は明日。コカトリスが三回鳴いたころだ」
短く告げ、彼女はアイリーンの横を通り過ぎる。そのまま結梨の傍らへとつき、
この世界の誰にも浮かべないような笑顔で会話を始める。アイリーンは悔しそ
うに地団駄を踏んでいた。
「そういえば、七瀬の両親心配してないのか?! おまえ、ここにもう二年もい
るんだろ!」
「え、あー……大丈夫だよ。うん、大丈夫」
「そんなはずがないだろ! 早く家に電話しないと……うわっ、圏外?!」
少しばかり背は伸びたか。追い抜かれた身長を感じ、歯がゆいものを感じな
がらも夕莉は苦笑する。
顔つきも当時よりもずっと男らしくなった。どんどん変わっている。
ただ、根本的な部分は変わらない。そこが好きなのだが――
「…………っ」
夕莉は身震いした。
彼女は、気づいてしまった。
二年という、時間の長さに。
彼女は変わった。変わりすぎた。
けれど彼の心は何一つ変わらない。まるであの時から時間など経っていない
かのように。
息を呑む夕莉の肩を真が軽く叩く。
「ここのこと案内してよ。七瀬のが長いしね」
「あ――あぁ。そうしようか。任せろ、いい食堂からいい八百屋まで知ってる」
少しだけぎこちなく微笑んで、彼女は部下たちへと背を向けた。
知られたくない、知られてはいけない。
ここのみんなは血塗れで、それを連ねる自分はもっと血塗れで。
大好きなお前の傍に知られたら嫌われてしまう。
お前はきれいなままだから。
何も知らない、真っ白なあなただから――
玉座の前でメーアは跪いた。そこに腰掛ける男はメーアには似ず、むしろそ
の妹のアイリーンに似た面影を持っていた。ただ、メーアよりも暗く、淀んだ
瞳には何が映っているのか。
「魔神王の転生体が訪れましたわ……お兄様、あなたの時代は――」
「メーア、この兄を王座から引き摺り落とそうというのか」
呟くようで、力強い声。その声にメーアが哀しそうに目を細める。
「アスタロト様との契約に反していますわ……お兄様、そのようなことをすれば」
「裁く魔導師は在らず。この国にいるのは生贄の娘だけであろう」
――殺してしまえばいい。利用するまで利用したら。
冷酷な兄の顔にメーアは何も言わなくなる。黙り込んだ彼女を見下してい
た彼女らの兄であり、同時に現在のニヴルヘイムの魔王陛下はいやな笑み
を浮かべた。
「魔剣……タナトス、か。ふふ……」
闇の中でうごめく影がいる。それの存在を知っているメーアは知っているか
らこそ何も言わずに兄を見た。権力に身を焦がし、やがては燃え尽きるだろ
う愚かな兄の姿を、記憶するために見ていた。
裁きは必ず、訪れる。
しかも――最悪な方法で。