時間の流れとはこうも早いものか。

 水の国の女王から送られてきた手紙を静かに閉じて、彼女は苦笑を

浮かべた。その腕には真新しい傷跡が残っており、ここしばらくの紛争

の凄まじさを物語っている。

 彼女は短くなったままの髪をかきあげると、後方で待機している少年

へと声をかけた。

「今日くらいに故郷へ帰るか? アレス」

 彼女の言葉に少年は少しだけ嬉しそうに笑った。

「お前が来て一年――か。どうだ? ニヴルヘイムは」

「……殺されると思ってた。魔族が、大事にしてる大魔女様を殺そう

としたから、殺されると思ってた」

「実際は?」

 漆黒の瞳が少年を見る。

「優しかった。ぼくのこと、誰も責めなかった」

 俯いて、告げる少年。彼女はゆっくりと立ち上がると、すれ違い様に少

年の頭を軽く撫でた。その顔がどのような表情を浮かべているか知らな

かったが、きっと笑っている。少年は――一年前、双黒の大魔女ナナセ=

ユーリを殺害しようとした水の国の少年、アレスは密かに確信し、彼女の

後ろへとついていった。

「準備ができたら庭にいろ。カロンで飛んでくからな」

 黒いマントを羽織って、部屋から出て行く彼女の背が視界から消えると

彼は自分のために特別に作られた小さな部屋――それでも、彼の故郷

の家の両親の寝室並には広い部屋へと入る。

 彼女を傷つけた罰として、王の副官が告げた言葉は大魔女様の部下

としてニヴルヘイムを学ぶということ。そしてやがては人間と魔族を繋ぐ

ための外交官になること。

 夕莉と共に勉強をしていた彼は魔族たちが大人が言うほど恐ろしい存

在ではないと思えるようになった。故に彼はこのニヴルヘイムで暮らしていた。

「ナナセ様! 準備できたよー!」

 満面の笑み。その腕の中には母への土産をたくさん抱えて。

「早く降りて来い! おいていくぞ」

 どこか荒々しい印象を抱かせる大魔女の元へと走っていく。

 ――ニヴルヘイム、魔族の住む大陸に唯一の人間二人が空を駆ける。

 

 

 それはアレスに準備をさせている間の出来事。

「ナナセ様」

 呼び止められ、彼女は振り返らずに用件だけを聞く。

 彼女の態度を妥当と判断したか、彼は――双眸を常に閉じた青年、ヒン

メルは穏やかな声で淡々と告げ始めた。

「近々、グレイが帰還します……それと、問題のある方がいますので、人間

の子は一度故郷へ返すのがよろしいでしょう」

「問題のある方? 誰だ」

「……」

 彼女の質問にヒンメルは言い辛そうに眉間にシワを寄せると、夕莉の耳

元へと唇を寄せた。

「現魔王陛下の妹です……末姫、アイリーン様が戻ってまいります」

 その言葉に夕莉は首をかしげる。二年間、一度も名前を聞かなかった―

―ということは余程の人間嫌いであろう。魔族の大半は人間嫌いだが、それ

は何かをされたから。という理由がついてまわる。

 そして何よりも、彼らは温厚な場合が多いので何かをされない限り敵対心を

剥き出しにして襲い掛かってきたりはしない。だが、それに当てはまらないのも

時折り存在するというのでアイリーンとやらはそういうことなのだろう。

 アレスを故郷に返せ、ということからして人間に好意的でないことがわかる。

 夕莉は何も言わずに頷いて、歩き出す。

 

 

 

 

 夕暮れ、ようやく城に戻った夕莉は軽くなった大鎌の柄をそっと撫でた。

先ほどまで一緒に過ごしていた少年は久しぶりに母親と過ごせる時間を喜び、

こちらに土産まで持たせてくれた。

 城門で降りずに自分の部屋へと直接降りる。

 それが日課になっていたので、もはや誰も咎めずに彼女の帰還に手を振っ

て喜びを表す。それに返しながら彼女は黒いカーテンの向こうにある自分の部

屋へと入ろうと足を踏み出し

た――刹那。

「――!?」

 ドクン、大きく心臓がなる。

 汗が頬を伝い、顎を伝って落ちていく。脳裏に過ぎるのは炎のような女性の

イメージ。

 胸の奥に喜びにも似た感情が満ち溢れる。

 ようやく、ようやく――

「……み……や……ま……っ」

 駆け出したい衝動を押さえ込み、彼女は自分の姿を鏡で確認する。あの頃と

違う自分は

彼に受け入れられるだろうか、自分はおかしくないだろうか?

 自分は――

 どう、成長したのであろうか。

 少し、背が伸びた。少し、体つきが女のようになった。少し、声が低くなった。

 少しだけ――表情がやわらかくなった。

 髪は、あの時からずっと伸ばしていない。けれど、自分と分かってくれるだろうか。

 逸る気持ちを抑えるのをやめて彼女は自室のドアを思い切り開ける。廊下には

迎えに来ていたアシュレイドがおり、彼の顔を確認するよりも前に彼女は駆け出

していた。

 普段からは考えられないような行動に出る彼女を見たアシュレイドは少しだけ

困ったような笑みを浮かべ、小さく呟いた。

「妬けますね……あのお方に」

 懸命に走る彼女は黒い軍服のまま、魔力を帯びたスカートのスソを翻してブー

ツの底で思い切り床を蹴り上げていく。メイドたちが驚いたような顔をしているが、

それと同時に驚愕が喜びへと変わっていくのを彼女は知っている。

 巫女以外では、彼女だけが察知できる――そう、伝えられている。

 古の三人。

 この国を創り上げた三人の存在。

 魔神王、大賢者、大魔導師。

 三人はそれぞれの存在を察知し、その三人が揃うとき――ニヴルヘイムに

大いなる繁栄が訪れると、巫女は告げていた。最初に大魔導師が訪れ、そし

てその大魔導師に導かれるようにして二人が揃う。

 そう、彼らは理解した。

 

 真紅の扉を思い切り開け放ち、彼女は本来の声で――澄んだ、キレイな声で

その名を呼んだ。

 

「深山!!」

 美形ぞろいの魔族にビビっていたのか、壁に背中を預けていた少年が顔をあげる。

 その顔に浮かぶのは懐かしい友との再会を喜ぶもの。

「七瀬!! お前、こんなところに!」

 今にも抱き合って再会を喜びそうな二人の間にスルリと入り込む眼鏡が印象

的な、いかにもクラス委員長タイプの顔をした少年。彼は二人の手をとって人の

良さそうな笑みを浮かべた。

「深山も七瀬さんも会えてよかったじゃないかー。

 知ってる? 七瀬さん。深山ね、ずっと七瀬さんがいないことを気にしてたんだよ。

 あ、そうそう。ボクは駿河 真。実は小学校同じクラスだったんだよ? 

 七瀬さんは知らないと思うけど。一度も話したことなかったしね」

 外見に反して、ずいぶんと喋る男だ。夕莉は呆然と眼鏡の少年――真を見て

いたが、ふいにその目に涙が浮かんだことに気がついた。

「あれ? 七瀬さん、久しぶりの再会が嬉しすぎて泣いちゃった?」

「いや……違う、けど……」

 自分の意思とは関係なく流れ落ちる涙に首をかしげる夕莉。真の向こうで深山

が何かを言っているが、それは周囲の魔族たちの声に阻まれて聞こえない。た

だ、眼鏡の少年から目が離せなかった。見たこともない顔のはずなのに、懐かし

くて仕方がない。

「……止まらないな、これ」

 手で拭おうとする彼女の手を優しく握って、真が微笑む。

「ボクが止めてあげるよ」

「え……」

 深山が何かを叫んでいる。魔族たちも何かを言っている――耳をふさがれて、

何も聞こえない。近づく真の顔しか見えない。

「よく、一人で頑張ったね」

 優しく、囁くように告げられて――

 涙を唇で吸われた。

「これからはボクたちがいるから安心してね」

 子供じみた笑みを浮かべる真。夕莉は言葉を失って、先ほど口付けられた目

元に指先で触れた。甘いムード漂う二人を止めるようにして、深山が魔族を掻

き分けて近づいてくる。

 その顔がはっきりと見えたことでようやく彼女は口を開いた。

「深山、お前は――」

「よくわかんないけど、オレが魔王だとかどうとか……」

 言いかける、彼の言葉を掻き消すように轟音が響き渡る。それと同時に泣き

そうな声が魔族たちの耳を貫いた。

「た、たすけてー!!!! ナナセさまぁぁぁぁああああああああああああ!!」

「待ちなさい! この、私のモノになりなさいと何度言えばわかりますの!」

 グレイが、窓ガラスを砕いて室内へと転がり込んでくる。その背中にしがみつ

くようにして、美しい少女が叫んでいた。その顔つきに夕莉は息を呑む。

「あ……」

「魔神王、アスタロトにそっくりだね」

 真の言葉に夕莉は頷いた。城内に飾ってある歴代魔王陛下の絵画――そ

の中でも一際大きく描かれている、魔神王アスタロトの絵画と瓜二つの容姿を

した少女に二人の視線は釘付けになっていた。

 自分に注がれる視線に気がついたのか少女はホコリを払いながら立ち上がっ

た。自信に満ちた瞳はかの魔神王そのもの――

「あら。そういえば挨拶がまだでしたわね。

 私はアイリーン、現魔王陛下の妹で、同時に黒のメーアの妹ですわ」

「アイリーン! こちらは国創りの――」

「分かっていますわ、お姉さま。それでも私は認めませんの……」

 アイリーンは一歩、前へと踏み出すと白い手袋をスルリと外して夕莉へと投げ

つける。

「人間なんて脆弱な生き物を、私は認めませんわ!!」

「決闘申し込まれちゃったね、七瀬」

「……僕にどうしろと……というか、アンタはずいぶんと落ちついてんな…」

 彼女の言葉に真は笑った。

「そりゃ、肝が据わってるからね」

 

 再会は騒がしく。 

 どうしたものかと彼女は悩みたくなった。

 本当はもっと、彼の顔を見ていたかったのに。

 二年経っても変わらない、あの優しい想い出を。

 

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