闇の中でぬくもりに触れた。

 幼少の頃から欲しがっていたもの。

 触れた瞬間、手放したくなくなった。

 欲しいと願って、欲しいと思って。

 花を摘むように。

 命を散らすように。

 この手に抱こうと――

 

 

 

 体がだるい。

 高熱の後のような気だるさを感じながら、彼女は重たい瞼を持ち上

げる。窓から注ぐ昼の太陽の光に、思わず再び目を閉じると心地良

い闇に包まれた。

 闇と自分の体温で暖まったベッドは気持ちがいい。

 つい、うとうとと惰眠を貪ろうと意識を手放す。

「ナナセ様」

「うわっ?!」

 突然響いた不機嫌な声に彼女は思わず飛び起きた。

「……あ……なに?」

 いつの間に部屋に入ったのか、不機嫌仏頂面男――アシュレイドが

眉間にシワを寄せたまま、居場所なさげに視線を動かしていた。嫌なら

さっさと部屋から出て行けばいいのに。

「……お手を、放してもらってもよろしいでしょうか」

「は……?」

 言われて、初めて気がつく。

 握り締めているのはシーツではなく、アシュレイドの纏っている衣服の

袖だということに。

「……いつから?」

「昨晩からずっとです」

 不機嫌な声。それもそうだろう。自分だったら振りほどいてさっさと部屋

に帰る――そこまで考えてから彼女は昨晩、とやらの記憶を掘り起こそう

と目を閉じたが何一つとして思い出せないことに気がつく。

 パーティーでグレイというヴァンパイアに会った。血を吸われて――そこ

から先が思い出せない。

「ちょっと、説明してくれる?」

 夕莉に言われ、アシュレイドは立ったまま口を開いた。眉間に刻まれた

シワが彼の機嫌を物語っている。

「グレイの吸血行為の後にあなたは頭痛に苛まれ、その後……何があっ

たのかは知りませんが、血塗れで……その、ですから……」

 突然口篭もるアシュレイドに首をかしげる。余程自分はおかしな事をし

たのかと考えたが、口にするのが難しいほどのおかしなことというのが思

い浮かばず、どこか俯き加減な彼の真正面で、彼女は唇を尖らせていた。

「その……覚えて、いませんか?」

「覚えてないから説明を――」

 ズキン、と頭の隅が痛んで一瞬だけ昨晩の光景と思えるものが浮かぶ。

 通り過ぎるその光景と、手に蘇る感触に顔が熱くなるのが分かった。

「え、もしかして……僕、って……」

 パクパクと、金魚のように口を開け閉めしている彼女を見下ろして、ア

シュレイドは小さく頷いた。

「うーわー!!! ありえね!! マジでありえねぇっ!!!」

 頭を掻き毟って、昨晩の光景と思われるものを脳裏から消そうとするが、

意識すればするほどそれは深く脳裏に根付いて、それを確かなものへと変

えていく。顔が赤くなっているのか、それとも燃えているのか。

 上手く考えがまとまらない、混乱した頭のまま彼女はアシュレイドの両手を

握った。

「忘れろ!! いい、忘れて!!」

 彼女の言葉にアシュレイドは数拍置いてから、

「ニヴルヘイムでは……あの行為は求婚に値します」

「は?」

 もう、できることなら意識を失いたかった。

「けれど――」

 不機嫌な顔に、苦笑が浮かべられる。

「あなたはそれを知らずに行ないました。いつ、撤回してもかまいません。

 ただ、もしかすると……私はあなたに少なからず好意を抱いているかもし

れない、ということだけは覚えていてください」

 苦笑が、僅かに赤みを帯びる。

 つられて自分の体温もあがるのが分かった。

「な、ナに言ってんのっ」

 アシュレイドの手を振り払って、背を向ける。心臓の鼓動が恐ろしいほど

に早い。ただでさえ生まれてこの十二年間、他人から好かれるという経験

に乏しかった彼女に、美形男からの好きかも発言は刺激が強すぎた。

 シーツに包まって、何も考えないように頑張るが脳裏にアシュレイドの低い

声が、どこか恥ずかしそうな声が蘇ってどうしようもなくなる。

 もしかすると、自分はとんでもないことをしたのかもしれない。

 そんなことを考えて、彼女は勢いよく体を起こした。

「てか!! アンタ、僕のこと嫌いなんじゃ……」

「? なぜ、そうなるのでしょうか」

 淡々とした声で返す。その声は普段の不機嫌ボイスで、思わず彼女は先

ほどの彼の声が自分の見た夢のように思えた。だが、確かめるように、

「だって、僕といるといつも不機嫌ジャン」

「あ、あぁ……なるほど。冷たくされていたのはそういう――」

 何かを言いかけ、慌てて口を押さえるアシュレイド。その仕草が妙に子供

じみていて、思わず夕莉は笑っていた。

「あはは。なんか、思ったよりもお前、ヤなヤツじゃないな」

 彼女の言葉に双眸を見開いて動揺するアシュレイド。不機嫌そうな眉間の

シワの跡が残ってはいたが、今は浮かべていないのがよく分かる。彼女は

ベッドの上に立ち上がって、彼の眉間へと指を当てる。

「へっへ。ここに来て初めての……ん、アイツ以外の初めての友達だ」

 グリグリと眉間を押され、どう対応したらいいのか分からない状態になって

いる彼の口元に微笑が浮かび、大きな手が夕莉の頭を撫でる。

「友達、ですか。光栄です……ナナセ様」

 その微かな笑みに応えるように、夕莉が笑う。

 浮かべられた微笑の予想外な優しさに、アシュレイドは言葉に詰まった。

本当は、伝えることがあったはずなのに、それを先延ばしにしてしまいたいと

いう願望が頭をもたげ、近づいてくる足音にも気がつかなかった。

「ナナセ様――なっ、アシュレイド!?」

 慌てて部屋に飛び入ってきた男――ゾンネが声を張り上げる。彼の姿にア

シュレイドは動揺し、なぜか夕莉を背後に隠すように振り返った。

「何用ですか」

 声は不機嫌そのものだったが手はまだ動揺しているらしく、夕莉がベッド

から落ちないようにと支えている。そんなものがなくてもベッドの中心に立っ

ている彼女が落ちるはずもないのに――

「報告です。水の国の女王ミーミルがニヴルヘイムへと正式に戦争を申し込

んできました。我が王はそれに応える、とのことです」

「……――」

 アシュレイドが、息を、呑んだ。

 周囲に立ち込める緊迫した空気に先ほどまでの日常的な香りはなく、ただ

ただ殺伐とした何かが迫っていることを感じた。戦争――その言葉は平和

な世界にいた彼女にはなかなか信じられなくて。

 それでも、心臓を重く動かしたその言葉に彼女は口を開いた。

「僕に言いに来たってことは……」

 少しだけ、迷いのようなものが生じる。

 どれだけ相手を傷つけたことがあっても殺したことはない。だからこそ――

 戦争が始まれば、自分が行動すれば、この手は本当に誰かを殺めること

になると理解した上で、彼女は自分に言い聞かせた。自分がすべきことを、

自分が――この世界に来た意味を。

「僕は、何かをする必要がある……ってことだな」

 ゾンネが、微かに笑った気がした。

「はい――我らが双黒の大魔女様……」

 深々と頭を下げて、彼は彼女の前に跪いた。

「ナナセ様……」

 どこか不安を帯びたアシュレイドの声。それに応えるように彼女はまっすぐ

に前を見た。漆黒の瞳には、一点しか映っておらず、それが未来であるのか

――それとも別のものであるのか、見知ったばかりの彼は理解できなかった

であろうが、彼女はかまわなかった。

 するべきことがある。

 きっと、それはこれだ。

 彼がいるための場所を。

 守るべき、人がいる。

 守るべき、景色がある。

 

 炎のような女のように生きるのだと、強く感じた。

 

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