絶世の美男子こと、ヴァンパイアの青年はニコニコと子供のような
笑みを浮かべながら彼女へと抱きついた。間近に迫る整いすぎた顔
に思わず寒気がした。
「キルケ様ー!!」
「ち、ちがっ……!!!」
違う、と声高に叫ぼうにも芸術品と呼んだほうが相応しい、美貌の
持ち主相手にさすがの彼女もペースを乱されていた。これで相手が中
年のオッサンであれば、彼女お得意の毒舌で二度と外を歩けなくなる
くらいまで凹ませたというのに。
何が恐ろしいって、欠点が見つからないことだ。
銀の髪は夜の空に輝き、星の色をそのまま移しとったかのようであ
り、血のような真紅の瞳は宝石の如く美しく、男だというのに恐ろしい
ほどにきめ細かな白い肌は雪原を彷彿させた。
妖艶な目も、腰に響くような低音ボイスも、全てにおいて欠点がない。
――唯一、子供のような仕草と喋り方がキモい。ということを除けば。
しかし、これを言ったところで彼は傷付いた素振りも見せずになんで?
と首を傾げるだけだろう。
彼女は頭痛のする頭を押さえてそっぽを向いた。ゆっくりと下降して
いる二人を眺めながらシュテルンが笑い声をあげ、指差していた。殴
り倒したい――瞬時にそう思った。
「あれ?」
ふいに、青年が顔をあげる。不思議そうに彼女の顔を眺めると、
「キルケ様じゃない。おかしいなぁ、魂の匂いは同じなのにぃ」
くんくんと鼻を鳴らして首筋へと顔を埋める。
「うへぇっ!?」
背筋に走る悪寒に、思わず彼女は青年を突き放していた。
ぽかん、とした顔をしている青年は小さく声をあげてから、
「ボク、グレイって言うんだよ。キルケ様が名前を付けてくれて、助けて
くれた吸血コウモリ――今はヴァンパイアって呼ばれてるんだ」
グレイ、と名乗った青年は手を差し出して微笑む。
「間違えてごめんね、あなたのお名前なぁーに?」
「………七瀬夕莉、ナナセって呼んでくれる?」
握手には応えず、名だけを告げる。その態度に何を思ったのかグレ
イは夕莉の腕を掴んで思い切り引き寄せた。
「グレイ!!」
不機嫌な声が響いて、頭のスミに苛立ちが過ぎる。お前の声だけは
好きになれない。そんなことを考えるよりも前に、針を刺すような痛みが
首筋へと走った。
「だっ?!」
状況を理解するよりも前に、脳内を駆け巡る炎のイメージに意識が
持っていかれる。
炎のような女。炎のように燃え尽きた女。気高く、美しい、強い女。誰だ、
お前は誰だ。
「ぐ……」
頭痛に耐えようと歯を食い縛る。必死になっている彼女の耳元で低い声
が小さく囁くように告げる。
「やっぱり、キルケ様と同じ血の味……転生体っていうやつかなぁ?」
「グレイ、いい加減になさい」
不機嫌な声と同時に殺気が放たれる。その影に気がついたのか彼は
夕莉の首筋から口を放し、顔をあげる。その顔に罪悪感といった感情は
なく、久しぶりに親戚に会った子供のような顔をしていた。
「アシュレイド、ナナセ様は可愛い人だね。ボク、一生懸命お守りするから!」
「………今日は村へ帰りなさい」
溜息をついて、不機嫌な声は告げる。彼の言葉に首をかしげながらもグレ
イは元気よく返事をして背中の翼を羽ばたかせた。羽音が集まり、コウモ
リたちが闇色の空へと溶けていく。
「大丈夫ですか?」
「……」
傷痕も残さずに消えた、二本の牙が刺さった場所を抑えて歯を食い縛って
いる彼女は何も言わずに、ただただアシュレイドを睨んでいた。
「……大丈夫のようですね。今宵のパーティーは終わりです、部屋までは――」
「いらない、帰れ!」
ようやく告げた言葉がそれか。バラバラと帰る妙に色とりどりの髪をした面々
は振り返り振り返り、彼女の様子を見ていく。まるで見せ物かのように。
「そうですか。それでは」
きびすを返し、その背中が去っていく。先ほどまで騒がしかった四英雄とやら
の末裔も帰ったのか、周囲は一気に静かになった。魔族のパーティーが気まぐ
れというのは本当らしい。
静寂の闇の中、彼女は炎のイメージを振り払おうと別のことを考えていた。
だが聞こえてくる声が彼女を現実へと引き戻す。
「……チッ」
思うままにできない。自分のことだというのに。小さく舌打ちをして、彼女は声
のする場所へと移動した。文句の一つでも言ってやろうと思ったが、茂みの向
こうにあった光景に思わず目を見開いた。
「は?」
「しま……っ!!」
「人間か、いや……違う、大魔導師の――」
魔族と、人間か。なぜ闇の中で一目見ただけで理解できたのか分からない。
だが、人間と魔族が闇の中で何かを取引しているということは理解ができた。
赤黒い袋の口から覗くは眼球。色とりどりのそれは美しい宝石のように――
「このことは内密に………いくらでも、金は支払いますから」
耳打ちをするように声を潜める魔族の男。頭痛がした。今までよりずっと激
しい痛み。自分を自分と理解することもできなくなりそうなほどの激しい痛み。
この痛みを知っている。この痛みは――――――
この痛みは、私を変える痛み
「同胞を売るか、見下げた輩だな」
低い声が告げる。
いつの間に携えたか、大鎌カロンが血を求めて疼くのが分かる。それと同
時に心臓付近でモヤモヤしていた感情が何かも理解できた。今、ひたすら欲
しいのは――
断末魔と、鮮血。
「どういうことだ、契約には――っ!!!!!」
醜い断末魔の悲鳴が響き渡る。鮮血が飛沫、月に照らされる彼女の頬を
濡らす。
ごとり、と音をたてて転がった生首は高いヒールに踏み潰されて、眼球を
飛び出させる。黒いブーツは濡れて光り、笑うその顔に付着した血液が顎
を伝ってドレスに染み込む。
「ひ、ひぃぃ! も、申し訳ございません! 大魔女様、どうか、どうか命だ
けは!!
せめて、妻と、つ、つ、妻と、娘だけは!!!」
「そうか」
酷く、冷たい声だった。
「アンタには妻と娘がいるのか。愚かだな、それを告げたからにはもう――」
カロンが振りかざされる。それは避けようのない死の訪れ。
魔族の男が悲鳴を上げる。
「死の闇から逃れられない――」
男の体が横にずれる。大量の血飛沫を上げながら地面にのめりこむよ
うにして倒れる男。それを見下して彼女は笑っていた。声もあげずに笑う彼
女に寄り添う大鎌は独りでに飛び立ち、彼女の願いを叶える。あの頃と変
わった地形を迷わず進み、この裏切者の家族を根絶やしにすることを。
「何事ですか! ――っ」
視界の隅に、不機嫌な顔をした男が映る。
「あぁ、アンタか」
冷たい声で告げながら、彼女は彼へと近づいていく。腹立たしい男へと
近づいて、殺すわけでもなく、呪うわけでもない。返り血に塗れたまま、彼女
は男を見上げた。
「ナナ、セ……様、いったい」
「黙れ。お前の喋る時間はない」
長い、灰色の髪を掴む。
それを引っ張り、顔を引き寄せさせる。眉間にシワの寄った不機嫌顔。
この顔を歪ませたい、困らせたい――
「ナナ――――」
本能が告げる。
血の匂いで昂ぶった感情がままに行動するなと、誰が従うか。
彼女は口元に笑みを浮かべると、そのまま彼へと口付けた。彼の唇を噛
み切り、共に同じ血の味を分け合うように貪る。頬に爪を立て、付着した血
液をなすりつけながら彼女は深く、深く彼に口付けていた。
見開かれた青い瞳が愉快で仕方がない。
驚いたその顔が、嬉しくて仕方がない。
血の匂いの中でこんなに昂揚したのは初めてだ。
――僕は……どうなったんだろう……――