闇の中で水音を聞いた。
 それは修学旅行に行った深山が熱心に語っていた、滝の音というものに似ており体の奥底から響いてくるかのような音に、思わず目を見開く。視界はまだ闇に閉ざされていたけれど、耳に聞こえるその音と肌に感じる飛沫は現実のもので、決して夢の中で感じたことを勘違いしたわけではないということに気がつく。
「あー……?」
 濁った声を発して、落ちていく自分を見ている視線へと目を向ける。
 そこにあるのは漆黒の門。歴史でやった平安時代のイラストでこん
なものがあったかもしれない、と思うわせるつくりのソレは現実感のない、獣の彫刻をはやしていた。
 刻まれているのではない。生えている。言葉どおり、生物に近い獣が生えているのだ。
 思わず、
「シュミ悪い」
 呟いてから冷たい眼差しで彫刻を見遣った。
 門から一匹の獣が生えている図は不可思議なものであり、さらにはそれが生きているのだと気がつくと、彼女は顔を顰めて門の前へと降り立った。
 落ちていたはずなのにアッサリ地面らしき場所に足が付いたことに不信感を抱かなかったのは、意識の殆どが獣に向かっていたからだろう。現に両方の目はまっすぐに獣だけを見据えている。
「ここ、とおりたいんだけど?」
 目の前の不思議動物に決して臆さない声。その少女にしては低く、暗い声に獣が頭を上げる。黄金の瞳が少女を見た。
「お会いしたかった……われら兄弟、待ち続けた……」
「はぁ? 僕、アンタなんて知らないけど?」
 刺々しい言葉にひるむことなく、獣は嬉々として声をあげる。尻尾があれば全力で振っていたかもしれない。それほどまでに興奮した獣は、犬のような息をしながら夕莉を見上げていた。
「我、グラム。門番……大魔導師様、どうぞ……あちらへ」
「我はガルム、門番! 大魔導師様。さぁ――こちらへ!」
 門の向こう側から似たような声が聞こえる。その声に夕莉は呆れながら、それでも口元には不敵な笑みを浮かべて冷たい門へと手を伸ばした。
 開けた向こうにあるのは何か。
 知らないが――知っている。
 漆黒の門が、開かれる。滝の音が消え、もう一匹の獣が出迎える。
「ようこそ……われらが世界シュピーゲルへ。
 ――これより、ニヴルヘイムへと参ります」
 門より生えたもう一匹の獣が鼻先で前方を指す。そこに佇むのは青白い毛色の青年。それは少女の手をとってニコリと笑いもせずに駆け出す。
「我はフェンリル! 大魔導師に助けられし三匹の獣。
 大魔導師様、貴女のご帰還は我らの希望となりましょう――!!」
 もはや、何かを言い返す気はなかった。ただ、この場所は居心地がいい――それだけは事実だったから。彼女は駆け足で濡れた床の上を駆けた。こんなに走るのは久しぶりだ。
 気分が、すごくいい。


 青々と茂った木々の間をすり抜けて、近づいてくる男がいた。フェンリルと名乗った青年はそれから逃れるように走り、どこかを目指している。必死で走りながら、夕莉は何もいわずにいた。
 見たことのない場所――それだというのに、酷く懐かしい。
 そんな自分を認めたくないかのように黙ったまま、追いかけてくる男を睨んだ。
「ヒューゲル=グリューン=ベレス、裏切者です」
 短く告げるフェンリルを振り返らずに、夕莉は口の中で言葉を紡いでいた。脳裏に響き渡るこの言葉は誰が告げていたものか誰から教わったか。
 ただただ、その言葉を自分のもののように扱う。まるで自分が見つけたものだといわんばかりに。
「真なる子供は目に見えず。
 肌で知れ、幼き子らの慟哭を――」
 小さく、ささやくかのような声。それは思ったよりも周囲に響き渡った。
 凛とした響きは周囲を廻り、草花を断ち切りながら男の行く手を阻む。それは男の緑色のマントを切り裂き、その布を散らした。
「やるじゃねーか。合格だっ」
 ふいにフェンリルの足が止まり、声があがる。それがなんと言っていたのか聞き取れはしなかったけれど、視界に映る影は少年と呼ぶに相応しい体躯をしており、とても追いかけてくる大男を止められるとは思えなかった。しかし、彼はかまわずに再び走り出す。
「オラァ! ヒューゲル、テメェはとっとと引っ込みな!!!」
 威勢のいい声と共に、激しい音が聞こえる。それは決して剣戟ではなくもっと原始的な――それでいて、一番愛されている戦い方のような気がした。思わず、後方を振り向く。
「シュテルンっ! 厄介な奴が出てきたぜ、おい! 小娘! いいか、オレが絶対に助けてやるからバカなことすんじゃねーぞ!!」
 あまりに必死な形相と、どこからどう見ても少年にしか見えない少年に蹴られて、ありえない方向に曲がった腕が痛々しくて、思わず目をそらしたくなる。自分でもここまではしなかった。
 ――爪は剥いだが。
 遠のいていくその姿に安心したのか、フェンリルが少しずつ速度を落としていく。よくもこの速さについていけたものだと、自分で自分を誉めたくなる。
「申し訳ありません。
私は魔術には長けていないので移送魔術がつかえないのです」
 サラリと、不思議なことを言われた。しかし、さして驚かなかったのは耳に聞こえるものよりも、視界に入った物の方が不思議だったからであろう。
「……狼?」
 目の前にいるのは青白い髪の青年ではなく、青白い毛並みの狼――獣でも整った顔があるのかと、首を傾げたくなったが、それよりも前に目の前の狼の大きさに目を見張った。
「アンタ、本当は狼じゃなくてライオンなんじゃねーの?」
 彼女の言葉にフェンリルと思われる狼は頭を左右に振った。なにやら言おうと口を開いた瞬間、その頭を殴られる。
「オラァッ!  このフェン公! なにアイツに見つかってんだコラ!」
 尻尾を丸めて怯えているフェンリルが頭を下げて、何度も何度も謝罪している。
 ついていけない――展開に、ついていけない。そう思ったか彼女は木々の間から垣間見える空を仰いでいた。
 懐かしい、色。どこまでも続く青。
 これが紅に染まる瞬間を知っている。
 初めて訪れたこの場所――しかし、知っている。あの紅は地球よりも美しく、哀しいということを。
「いいから、とっとと城に行くぞ!」
「は、はい」
 フェンリルは凹んだ顔して彼女を背に乗せる。
 その後ろに乗るのは白い髪の少年。
「飛ばすぜ、落ちんなよっ!」
 言葉が途切れるよりも前に風が頬を掠めていく。
 その感覚も知っている――バイクや自転車では比べ物にならないほどの爽快感。「……てか、城……?」
 風に包まれながら、首をかしげる。森の出口はそう遠くないようだった――― 

 少し禍々しい城があった。蔦が這い、骨が飾られる――魔王城かよ、と突っ込みたくなるその城を見上げ、彼女は言葉を失う。
 門の前には白い髪の少年と、フェンリルが立つ。
 二人で手を差し伸べ、

「ようこそ、霧の大陸ニヴルヘイムへ。我々魔族はあなた様を歓迎いたします」

 はい、魔族。はい、魔王。敵サイド決定。

 

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