友達は少なかった。
 むしろいなかった。
 両親はいなかった。
 いつの間にかいなかった。
 あの、冷たい家から追い出されて――
 今は白い家にいる。
 そんな僕を友達だと言ってくれるやつがいる。
 大好きなんだ。そいつが……そいつ、だけが。

 雨が降る校庭。
 泥に塗れた自分のランドセルを見つけて、彼女はしゃがみ込む。古びたスカートが濡れて、色褪せた薄桃色を泥が塗り潰していく。
「あーあ……」
 小さく呟いて、立ち上がる彼女。
 せっかくの卒業式だというのにメチャクチャだ。
 雨が降って、ランドセル隠されて。
「ウゼェ」
 悪態を吐いて、彼女は親と共に帰宅している元クラスメイトたちへと視線を向ける。幸せそうに笑う子供たちを見ると虫唾が走る――他人を貶めるくせに、自分は幸せ気取りかと憎悪が過ぎる。
 握り締めた右手が熱くなる。出血でもしたのかと思いたくなるような不確かな熱に、彼女は思わず笑みを漏らした。血のように赤い――いや、事実血が滲んでいる唇が微笑む。
「……死んじゃえ……」
 周囲の音が消える。
 手の中に生まれた熱が妙に生々しくて、ソレが何を引き起こすか理解しているような気分で投げようと手を振り上げる。
「あまり、感心はしないな」
 短い言葉と共に、腕を掴まれる。動揺したせいか、手の中に生まれた熱が消えていくのが分かる。彼女は全力で頭上にある顔を睨みつけた。
 幼い顔に、激しい憎悪が浮かんでいた。
「邪魔すんなよ」
「言葉遣いも感心しない。私は言ったはずだ……レディになりなさいと」
「ならない。僕は淑女なんかになんない」
 珍しいまでに濃い黒の瞳が憎悪に燃える。彼女の引き摺っているランドセルがそれを象徴するかのように、油性ペンで落書きされた面をあらわにする。
 そこにかかれているのは彼女の家庭の事情に関することばかり。男は顔を歪めた。
「憎悪に生きても――」
「アンタは……! 死ぬほど相手を憎んだことがあんの?」
 殺意。それは紛れもない強い殺意――今のご時世、このような殺意を秘めた人間など、そうそういるまい。ソレほどまでに強い幼い少女の憎悪に男は戦慄した。
 なんて末恐ろしい娘だろうか。このような子供を野放しにしておけば大変なことが起
きてしまう。近いうちにこの少女は他者に取り返しが付かないほどの傷を与えてしまう
だろう。
 考えるだけで背筋が寒くなる。その様子に少女の顔が不機嫌そうに歪んだ。
「ないんじゃん……ふん」
 小さく吐き捨て、少女は男の手を振り払った。雨に濡れた漆黒の髪が彼女の頬に張り付く、隠された双眸が何を映すのか――彼には到底理解できないだろう。
 違い過ぎるのだ。少女と男では、何もかもが。
「……どうする気だ?」
「煩い、僕に関わるな……」
 ふと、その顔が別の方向へと向けられる。
 つられて目をやれば――
「おーい、七瀬ー!」
 母親と二人で歩く、一人の少年。彼は母親にランドセルを預けると泥が跳ねるのもかまわずに、少女へと駆け寄った。空気が和らぐ、少女の口元に穏やかな笑みが浮かんでいた。
 つい先ほどの形相からは想像も付かないほどに落ち着いた安堵の笑み。
 口調すらも優しく変わる。
「深山。どうしたん?」
「七瀬が見えたから一緒に帰ろうと思って」
 満面の笑みを浮かべ、少年は手を差し伸べる。その手を取ることを一瞬だけ躊躇っ
て――少女は殆ど壊れたランドセルを抱えた。顔には笑みが浮かんだまま。
 深い愛情のようなものを感じさせる顔だった。
「途中まで、一緒に帰ろ。深山」
「あぁ!」
 二人で歩く。
 冷たい雨雫から少女を護るのは少年の傘。
 広く、広く、広げられたケープのようにも思え、男は少しだけ表情を曇らせていた。
 サングラスの向こうの双眸が濡れていたかは分からないが、決してその瞳は笑って
おらず、ましてや怒っていることもなかっただろう。漏れる声はただただ悲しそうに、無念に満ちていた。

「……もう、限界なのかもしれないな……この世界では」

 

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