夕莉ちゃん、今日は楽しい日になるといいわね。
 先生はいつでも夕莉ちゃんの幸せを願ってるわ。
 夕莉ちゃん、こっち見て笑って。
 美味しい? 先生一生懸命作ったのよ。夕莉ちゃんのために。
 夕莉ちゃん。
 夕莉ちゃん、ゆうりちゃん、ユウリチャン、ゆウリちャん……
 ――煩いよ……アンタ……自己満足の愛情なんて捨てちまえ―― 
 入学式が終わる。
 教室には見知った顔とそうでない顔がいた。
 見知った顔の連中は一ヶ月前と変わらぬまま、彼女を誹謗中傷する。
 そんなことはすでに慣れていた――ただ、どうしても許せなかった。
「おい! お前ら、人の悪口ばっか言って恥ずかしいと思わないのか!」
 初めて、この現場を目にした彼がこうも怒り狂うとは思わなかった。思っていなかった。庇ってくれたこと、守ろうと声を上げてくれたこと、それを嬉しく思う反面――
「はぁ? 深山、お前まじウザいんだけど? 事実は事実だろ? 七瀬のことかばってバカじゃねーの? 頭だいじょーぶかぁ?」
 手が、深山の頭を軽く叩く。嘲笑う、生徒たち。
 脳裏に声が浮かぶ。それが自分のものだったか、それとも他の誰のものだったか――そんなことはどうでもいい。することは唯一つなのだから。やらないといけない、やらないと、殺らないと!!!
「この方に触れるな、無礼者!!!」
 体が熱い。自分が何を喋っているのか理解できない。それほどまでに深山が、唯一の友人がけなされたのが許せなかった。死ねばいい、みんな、死んでしまえばいい。
 周囲に赤黒い炎が生まれ、火災報知器がけたたましい音で鳴り響く。その音を聞きつけて駆け込んできた教師たちが目を見開いて声をあげる。
「逃げなさい!! 早く!!」
 もう遅い。
 誰が告げたか、その言葉を。
 誰が開いたか、この門の鍵を。
 赤黒い炎がはじけて――真新しい机や椅子が、飾り付けられた教室が崩れていく。焦げ臭い臭いの中に垣間見えるのは紙で作られたちんけな装飾たち。
 込められた想いか、願いか。それらは淡く輝いては消えていく。
 炎の渦の中で自らも焼かれながら、少女は目を閉じた。
 闇は――どこまでも、疲れきったこの体を抱き締めてくれた。

「七瀬、夕莉くん。どうやら禁を犯したようだね。こちらの世界で大規模な
魔術を使うことは禁止されている……残念だが、この世界では君は生き辛いようだ」
 見知った土手に寝転んでいると、例の男が独り言のように呟いていた。時刻は夕暮れ、黄昏の空に黒い鳥が舞っている。
「だから、なに?」
 黒いスーツを着たガタイのいい男がこんな寂れた土手にいることが珍しいのか、近所の主婦たちがヒソヒソとこれ見よがしに噂話をしている。またあの子よ、本当に疫病神ね――両親が可哀想だと言われている。
 嫌でも聞こえてくる噂話に彼女は一つだけ相槌を打った。
「確かに可哀想だねぇ……視野が狭くて、自分の子供すら見えてない」
 鋭い視線で睨みつけられ、ヒソヒソと足早に遠のいていく。その後ろ姿を見ていると、無性に体が熱くなる。まるで、今日の学校であった時みたいに。
「君が本来、生きる場所へ行ってもらおう……お別れだ」
「はぁ? ……本来、生きる場所? ばっかじゃねーの?
 ――そこに、アイツはくるわけ?」
 わずかな不安の滲んだ言葉。その言葉に男は深く頷いた。
 少女の口元に笑みが浮かぶ。焦げた制服のスカートを揺らし、立ち上がると両腕を広げて十字架を作るかのように男の前で立っていた。
「アイツが来るなら、どこへでも行くよ」
 その嬉しそうな顔に男は無表情のまま告げていく。
「別れを惜しむ人はいるか?」
「いない」
「本当にか? 世話になっているんじゃないのか、あの家には」
「全然。世話になってるのはもうちょっとかわいい子供たちだけだよ」
 ケラケラと笑い声を上げながら、少女は長い黒髪を結っていたリボンを解いた。黒い髪が風に舞い、彼女の顔を隠す。夜の闇のように深い漆黒が、彼女を連れ去る。
「……元気で。いつでも幸せを祈ってる」
「本音だったらありがたく受け取るよ。バイバイ――この世界の裏を統べる者」
 少女の言葉に男は両目を見開いた。知っていたのか、と漏らしながら消えていく少女を見詰める。その姿と重なるのは美しい夜の女性。それとも、焦がれた男の姿か―― 弱った自分では見ることのできない姿にとらわれながら、彼は背後から近づいてきた少年へと小さく報告した。
「無事、送り届けました……家族の方も問題はないでしょう」
「当然だよ。人間は器が小さすぎる…彼女を、拒否するのだからね」
 少年は幼い外見には不釣合いなほどの、冷たい声で告げて男へと背を向けた。黒い髪が揺れて、黄昏の空を仰ぐ瞳は光を反射するメガネによって隠された。


 夕莉ちゃん……先生はね、夕莉ちゃんのお母さんになりたいの……
 先生はもう、産めないから……ね、夕莉ちゃん。
 先生のこと……お母さん、って……呼んで? ユウリチャン……

 ――先生……母親になりたいなら、先生やめて母親になりなよ―― 

 

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