「かぜ」

 


「……ない……」
 道が。
 知らない道が消えている。
「…………同じ場所にしか……いけない」
 柩を出て歩いた。
 考えることも億劫な頭を抱えて。
 行ける場所が限られた足で地面を踏みしめた。
 人ごみの中を一人で。
 すれ違う人はソレに気がつかない。
 中には顔色を変えるのもいたが、殆どは気付かない。
 ひとりで歩いているソレの目の前を子供が走る。
 明るい笑顔で強風を喜ぶ。
 大きくたなびく髪や木々に気付いて足を止めた。
「か……」
 風、と手を伸ばしてたものの。
 青白い手は何も感じることはなかった。
 足も、胴も、顔も、髪も。
 風なんて吹いていないと言わんばかりに微動だりしない。
 体全部が心臓になってしまったかのように静かだった。
「風が……通り抜ける……」
 そう表現するしかなかった。
 周囲を流れる風はソレにはぶつからない。
 通り抜けてしまう。
 まるで空洞を通るかのように。
「もう……風は感じられない……?」
 少し前までは感じられた風。
 柩にはいる前は感じられた最後の感覚。
 それすらも失ったしまった事実に足が竦んだ。
 まだ覚えているのに。
 色んなことを忘れてしまったけれど、風のことは。
 肌を撫ぜるあの感覚は、はっきりと覚えているのに。
「また……なくなった……」
 失意のままに意識を失いたかった。
 けれど空が茜色に染まりはじめたことに気がつき、
「……さよなら……」
 別れを告げて歩き始めた。
 それ以上、言葉は出ない。
 柩に戻らなくては。
 あの蔓を掻き分け、眠らなくては。
 明日が訪れるまで。
 今日が終わるまで。
 他者の体を通り抜け、建物を合間を横切る。
 まるで誰もいないように。
 確かに存在するソレ。
 幼い子供が泣いた。
 女の人が顔を蒼白にして叫んだ。
 学生が信じられないような顔で携帯を構えた。
 けれど誰も気がつかない。
 ここにいるのに。
「……さよなら……風……」
 靡く世界。
 靡く街。
 感じられない風。
 騒ぐ女子たちとすれ違い、動かない胸が痛くなった。
 これも気がするだけ。
 ずっと前に感じた痛みを感じた気がしてるだけ。
 どんどん失っていく。
 風も。
 風も……


「もっと触りたかった。風に、のぼりたかった」



 →「うたごえ