放課後。午後練習のある部活の人間以外は帰宅するような時間だった。
けれども結依は校舎に残っている。しかも旧校舎、人気などないに等しい
寂れた廊下を結依はうなだれて歩いていた。
「なんでこうなるのかなぁ………はぁ……」
 薄くファンデーションを塗った白い肌を真っ赤にするほど怒ったゆかり。
 どうにか宥めようとした結依の胸倉を掴んで、
「旧校舎にあるっていう呪いの仮面をとって来たらゆるしてあげる」
 身の毛がよだつほどに怖い顔のまま告げた。その言葉に思わず息を呑
み、窃盗が犯罪であること、そしてなによりも義務教育の終了した今では、
あの頃のような対応で庇ってもらうことなどできないできないという事実。
 それらを伝えることができなかった。
 ゆかりに恨まれたまま、明日を迎えたくない。そんな勇気なんてないのだ。
 散々悩んだ末に、結依は旧校舎へと足を伸ばしていた。泣けるものなら泣
いてしまいたい、泣いて何もかもなかったことにしてしまいたいくらいだ。
 誰が割ったか何もない枠だけの窓は遠くの夕陽が沈みゆくさまを見せつけ、
どこかでいつもの音楽が鳴り始めていた。こんな状態でなければ、歌詞を口
ずさむというのに。
「……帰りたいよぉ……けど、ゆかりが……もう」
 脳裏に浮かび上がるのは神月悠の顔。結依が旧校舎まで行く原因になっ
たクラスメイトの顔は、確かに整っている。それだけではない。どこか懐かし
くそれでいて悲しい――見ているだけで胸が締め付けられるような、そんな
気分にさせる顔だった。
 きっと神月悠は、あの顔ですべての人間から――否、すべての存在を魅
了し、愛されるのだろう。整いすぎた顔だけではない、その声もすべてを魅
了して止まない。
 その両方を懐かしく感じる理由を考える。だが、すぐに答えが出ないとい
うことを悟るとったと同時に、結依は考えるのを止めた。
 急がなくては。
 完全に陽が暮れてしまう。早く呪いの仮面とやらを探さなくては。
「どこにあるのー?」
 泣きたい。それが顔に表れてしまった。
 今にも泣きだしそうに顔で走り出せば、古びた床が軋む。
 ギシ、パタ、と足音に混ざった耳障りな音が遠ざかっていく――
「あ、結依さん」
「え?」
 走り出して間もない内に、その声は聞こえた。
 ここは新校舎――教室のあるほうの校舎ではない。暗いし、ジメジメして
いるし、何よりも素行のよくない生徒が集まると噂されているのだから担任
から言われているはずだ。
 旧校舎には立ち入るな、と。
 だが、声が聞こえたということはそうなのだろう。本人に言う気はないが、
空耳が聞こえるほど仲のいい相手ではないし、何よりも関わりたくない。自
分の身の安全のために。
 そう。神月悠とは、関わりたくないのだ。
「ど、どうして……?」
 関わりたくないのに。
 恐る恐る振り返った視線の先には彼がいる。
 青い目と鳶色の髪の毛が特徴的な、綺麗過ぎる男の子。
 どこかの神話に出てきてもおかしくないと教室の隅で話されていた。
 その彼は誰もを魅了できるような笑みを浮かべ、
「道に迷っちゃって……けど、結依さんに会えてよかった。これで安心だよ」
 相手が結依でなければ一言で恋に落ちそうな言葉を平然と並べ立てた。
 告げられた言葉に思わず、胸を抑えたい衝動に駆られた結依。だが、そ
の手は胸ではなく壁へと添えられた。恋愛ごとには興味がないのに、まるで
恋する乙女のような動きをする自分が少しだけ許せなかった。
 何が許せないかと聞かれても答えはないが。
「ところで、結依さんはこんなところで何をしてるの?」
 結依の心、神月悠知らず。
 咄嗟に思いついた言葉を飲み下し、結依は小さく息を吐いた。
「何かあったの?」
 心配そうに顔を覗き込む神月悠。結依はその顔が視界に入らないようにそっ
ぽを向くと、そのまま歩き出した。窓の外は茜色の空、それもだんだんに暗く
なり始めた――夜の近い空だった。
 背を向け、一歩を踏み出す。
「ボクには言えないこと?」
 顔は見えない、背を向けているから。
 それでも声の調子で分かる。
 きっと、きっと今の神月悠は笑っていない。
 真剣な顔でこちらを見ている宝石のような青い眼差しで、射るように見ている。
「……言わなくても……」
 足は止めない。
 振り返らない。
 勇気がないのだ、向き合う。
「いいでしょ……?」
 語尾に行くにつれて小さくなる言葉。
 神月悠の表情が冷えたような気がして、歩調を速めた。逃げたいと思った。
 けれどもついてくる足音は途絶えることがなく。どうしようもない絶望感が
結依の胸を過ぎった。
「私、もう少しここにいるから。神月くんは――」
「ボク、気になるな。結依さんのこと……教えてよ。悩みも、夢も」
「――ッ!!」
 回りこまれた。
 目前に迫る澄んだ青の双眸。
 思わず言葉を失った。探さないといけない呪いの仮面よりも、怒ったゆかり
のことよりも、結依の胸に巣食ういかな問題よりも大きく感じる。どんな問題で
あっても太刀打ちできないほどの問題。
 真剣な眼差しで見据えられる。
 囁くような声は甘く耳朶を叩いた。
 脳を過ぎる。
 台風の二文字。
 頭が痛い。


 ――頭が、痛かった。

→「自分が二人