頭痛は止まない。辿り着いた見知らぬ教室は、どれほどの間使われていないのだろう。割れた窓から覗く埃まみれの室内には、落書きをされた古びた机ばかりが並んでいた。
 とてもではないが過去に教室として使用されていたとは思えない。
 すっかりたてつけの悪くなった引き戸を開け、足を踏み入れる。
 何がいるというわけではないが、こういう場所は生理的に怖い。
 逃げたいのは山々だが、ゆかりが怖くて逃げられない。前門の虎、後門の狼とはこういうことではないだろうか。結依は思わずその場でうなだれた。
「ねえ」
 うなだれる結依の肩を叩くのは神月。
 整った顔には生暖かい笑みが浮かんでいた。
「何であの子と友達なの?」
 やけになまめかしく動く唇だと思った。
 心を見透かすような言葉と目から逃げるように、結依は目を逸らす。
「友達って理由がいるのかなぁ……ゆかりとはずっと一緒にいたし……」
 咄嗟に思い吐いた言葉を吐いたはいいが、その後に詰まってしまった。口篭って次の言葉を探そうにも何も出てこない。
「ふーん」
 静かに歩く神月。
 結依の前へと回り込んで、
「理由が要らないならボクとも友達になれるよね? なってよ」
 罪のない笑みを浮かべた。
「そ、それは……」
 青い瞳が真っ直ぐに見つめる。
 この瞳は苦手だ。今更ながら思う。
「なれない理由はあるの?」
 悪意なんて欠片も見つからないような純粋な目だった。
 どんなウソだって看破されてしまうに違いない。
 けれども結依はその言葉を紡いだ。
「わ、私……男の子……苦手だから……」
 上手い嘘。きっとただのクラスメイト相手ならばそうだった。
 この言葉だけでそれ以上の追求を逃れられると思った。
 けれど、けれど、今回は通じない。神月には、通じない。
「苦手? そう、そうなんだ……」
 目線を落とす。
 少しだけ落ち込んでいるようにも見えた。罪悪感が胸を支配する。
 けれども、ここで素直に頷いてしまえば、ゆかりが怒る。また、怒らせてしまう。それだけは避けたかった。
 結依は傷つけたかもしれない神月に心の中で詫びた。
「あ……」
 神月の立っている場所の近く。一つだけ落書きのされていない机。そこの上にそれはあった。
 古びた箱。
 あまり大きくもなければ、小さくもない。薄汚れた白い箱に手をかける。
「これかな?」
 桐でできているのかと思わせるような感触だった。
 中身を確認しようと箱の蓋をゆっくりと持ち上げる。

――ヤァ、こんにちは♪ キミと顔合わせて喋れるなんて思わなかったヨ――

「――ッ!?」
 頭の中に声が響いた。
 驚いて箱を取り落としそうになる。だが、どうしてか箱は結依の手から零れることなく張り付いていた。中で鎮座している白い仮面が、不自然なほどの笑顔を浮かべた白い仮面が目から離れない。
 子供の人形劇に出てきそうなチープなつくりの仮面。それに目を奪われたまま、再び響き渡る声に顔を顰めた。

――これも、ウ・ン・メ・イ……ってヤツ? 楽しいコトなら大歓迎だから♪ 楽しみに待ってるネェ〜アハハァ――

 不思議と聞きおぼえのある声だった。
 いつも聞いているような、それでいてまったく知らないような声のような。
 困惑する頭を振り、結依は声のする方向へと目をやった。
 刹那、息を呑んだ。
「……え?」
「ウフフ。ウフフゥ」
 自分が、いた。
 丈の短い着物のような純白の衣を纏い、泳ぐように袖を翻して遊んでいる手には白い仮面。ニコニコと不自然な笑みを浮かべている自分が、天井に足を付けて立っていた。
 顔が近い。
 上下逆さまの自分は楽しそうな笑い声を上げ、
「じゃあ、またねぇ〜♪」
 大きく手を振りながら消えた。
 まるで最初から子には誰もいなかったかのように。
 消える姿を無言で見送ることしかできなかった結依。
 分かるのは胸の苦しさと、わけも分からない冷や汗。
 無意識に白い箱を抱き込んだ。仮面の冷たさがブラウス越しに伝わってくる。
「結依さん」
 汗をかいた首を撫でるように腕が伸びてくる。
 蛇のように絡まり、抱きしめられる。
「何を見たのかな……?」
 耳元で甘く囁かれても、何の反応もできなかった。
 ただただ立ち尽くしたまま。
 まったく身動きがとれなかった。

「結依さんは……何を見たのかな?」

 →「黒と血の輪舞」