入学式より数週間。ようやくクラスメイトにも慣れてきた頃、少女――
神薙結依の元へと中学校時代の同級生が尋ねてきた。クラスが別々
になり、会うことが少なくなってしまった友人は幼馴染でもあり、同時に
家族以外で一番安心して接することのできる相手なことに間違いなかった。
「結依? なんで髪の毛黒くしちゃったの?」
 顔を覗き込みながら問うてくる親友とも呼べる存在に、彼女は困った
ように笑った。
「なんとなく……かな? ゆかりと違って私は似合わないし」
 黒い髪を指先で弄りながら答えれば、親友は心底不思議そうに首を傾げる。
「えー? でも、黒髪だと結依根暗に見えるよ?」
 昔から物事をハッキリと言うゆかり――柳沢ゆかりを尊敬していた。気弱
なことを恥じていた結依は彼女のようになりたくて努力していた。だが、その
努力も高校入学前に辞めることを決意している。
 鏡に映った変わり映えのしない自らの姿を見て、結依は落胆すると同時に
肩が軽くなったのをよく覚えていた。
 金に近い髪も、不必要に濃いメイクも自分には過ぎたものだ。このままでい
い、その方がきっと喜んでくれる――誰が? 誰かはわからなくても、喜んでく
れると確信して、結依は黒く戻した髪を撫でた。
「……そう? でも……私は今のほうが落ち着くかな?」
 見知らぬ人間に突っかかられるよりも静かな毎日が送れる。確かに今の自
分は鏡で見ると根暗で、重々しい性格の人間のように思えるが悪くはない。少
なくとも彼女自身はそう思っていた。
 この方があの人が喜んでくれると――そんな予感を覚えて。
「変なの」
 ハッキリと言い放ち、彼女は結依の髪の毛を指先でいじる。中学のころとは
違う色と髪型に違和感を覚えているのだろう。同じがいいなんてことを思って
いてくれるのならば、少しは嬉しいのだが、ゆかりがそういったことを思うとは
考えられない。
 結依は机の上の教科書をしまいながら、小さく息を吐いた。
「……あ。これって」
 昼食の前時間は基本的に放送委員の持ってきたCDがかけられるのが日
常である。好きなアーティストが流れるときもあれば、よくわからない音楽が
流れることもある。先日は音楽ではなく声だけのドラマのようなものが流れ
ていた。
 今日のはそういう類ではなく、むしろ結依もよく知っている曲のようだ。
「ゆかり、これ」
「これ、JOKERじゃん? うわぁ、いいよねーJOKER」
 結依が口に出すよりも前に両目を輝かせてスピーカーを見上げるゆかり。
大量の小物をつけた手首がぶつかり、じゃらじゃらと楽器のような音を立て
ている。
「うん。私もJOKER好き……でも、歌詞がたまに聞き取れないのがタマに傷
だよね。CDも絶対に見つからないし」
 子供のように目を輝かせているゆかりを横目に結依は目を細める。
 JOKER――何年も前からずっとどこかで流されている曲で、ランキングで
も顔を覗かせ、カラオケでも歌われる機会の多い定番の歌。だが、不思議
なことに誰一人として製作者の名前も知らなければ、どこから出版されたか
も分からない謎の歌であり、それは都市伝説として様々な説が説かれたりし
ていた。
 最近の新説では、宇宙人が発売したというもので信憑性はないものの、JO
KERのミステリアス具合を見事に表現しているとも思える。
「ねぇー。けど、色んな店で聞けるのよね。
 顔も名前もしらないけど、ボーカルの声メチャいいしー」
 曲も詞もいいが、確かに声も悪くない。むしろ現存するアーティストと比べて
も素晴らしい部類に入るのではないかと思う。だからこそ心酔するファンがい
るのであり、それは目の前で機嫌よさそうにクルクルと踊るゆかりも例外では
なかった。
 刹那。通りかかったクラスメイトと激しくぶつかり、強かに尻を床に打ちつける。
「ゆかり?!」
「いったぁー」
 腰を撫でる彼女へと手を差し伸べるのは――
「ごめんね、大丈夫?」
「神月……くん」
 ゆかりの声の調子が変わったのが分かる。
 手を差し伸べているのは、この学年は愚か学校で知らぬものはいないと噂
されている、美少年。入学と同時に同学年だけではなく先輩や教師たちから
も注目されているほどの美貌と、才能をもっている。
 名前を神月悠。
 その鳶色の髪と青い瞳、そして透き通るような中性的な声になびかない女
生徒などいないだろう。それはゆかりとて例外ではなく、彼女は入学式の日
からずっと彼に目をつけていた。
「ちょっと神薙さんに用があるからどいてもらってもいいかな?」
「え、う……うん」
 そこはかとなく、ゆかりの目が怖い。
 結依は逃げたくなった。だが、そんなことをすれば余計に彼女が怒るのが
目に見えていたので、後で文句を言われるのを覚悟して神月へと視線を向
けた。
「ごめんね、友達の雑談中に」
「いいよ。気にしないで」
「ありがと、神薙さんは優しいね。だからこそこんなこと頼めるんだけどね」
 どこか儚く微笑んで、彼は結依の手をとった。一部の女子が騒ぐ。
「今日、一緒に帰ってもらってもいいかな? ボク引っ越してきたばかりで不
安なんだ……神薙さんなら道分かると思うし、何より安心できるから」
「……う、うん……いい、けど」
 ゆかりの目が、女子の目が、怖い。
 背中が焼け焦げそうだ。
「ありがと! ほんとに神薙さんって優しいよね。
 あ、そうだ。今度から結依さんって呼んでいい?」
「え……そ、それは……」
 全力で遠慮したかった。敵を増やしてもいいことなんてありはしない。
 しかし神月は嬉しそうに笑いながら結依の手を強く握った。
「結依さん、楽しみにしてるから。じゃあね」
 答えは聞かない性格なのかもしれない。いや、断られるということがまったく
ない人生を歩んできたのだろう、彼にもっていないものなどないようにすら思え
るのだから。
 きびすを返して自分の席へと戻る神月。呆然としている結依の頭をゆかり
が掴んだ。慌てて目を向けると親友は、確実に怒っていた――昔から、怒ら
せるとロクなことにならなかったのをよく覚えている。
 感情が強いのだ。ゆかりは。
 結依は自分の不幸を嘆きたくなった。

→「黄昏と予感