「名前」
手に入れたのは名前。
それは偶然。
偶然に必然に。
手に入れたのは名前。
耳を伝って、脳に辿り着く響き。
名前。
名前。
個体を表すもの。
ソレはソレではない。
名前を見つけた。
「良かったね。
君が嬉しいとボクもうれしくなるよ」
笑う。少年。
冷たい頬に手を差し伸べる。
触れた手もまた冷たい。
「ボクは君のことたくさん知ってるよ。
君が忘れたことも全部。きっと知ってる」
冷たい手。
そして違和感。
この手。
この手を、知ってる?
笑う少年。
猫にも似た目。
この目を、知ってる?
少年は笑う。
他の表情を知らないかのように。
「だから一緒に探そうよ。
君が迷った理由を……ね? ク ちゃん」
言葉が欠けた。
名前が欠けた。
雑音が酷い。
頭の中を掻き回されているような気分。
知っている。
これを気持ち悪いと言うんだ。
「じゃあ、行こうよ」
指差す向こう。
少年の白い指の向こうには柩の群れ。
荊に包まれた柩たちが続いている。
夕闇に呑まれる闇の塊たち。
中には何が入っているのだろう。
同じ者か。
違うものか。
名を得たソレは木々の合間に見える空を見遣った。
「陽が……沈む」
「それがどうしたの?」
ざわざわ。
音を立てて柩が呼んでいる。
そんな気がした。
「わ……たし……は、よる……眠る」
「いいじゃん」
手を掴まれた。
「ボクといこうよ」
顔を覗きこむ顔。
笑っている。
猫のような目で笑っている。
「一緒にいこうよ……ねぇ?」
名を呼ばれた。
柩の呼び声が遠くなる。
足に力が入らない。
引っ張られる。
存在という存在すべてが少年に。
引っ張られた。
名前を呼ばれた。
ただそれだけで。
「名前を呼ばれるって契約みたいだよね。
ク ちゃんみたいに失ってるとなおのこと」
名を呼ぶことは契約か。
きっと近いものに違いはない。
そうでなければ理由が分からない。
引っ張られる理由も、原因も。
抗う意思すら失いそうな現実。
頭上に広がる血色の海。
それが闇色に染まりきったころ。
閉ざされた紫苑の空には純白の月が浮かぶ。
それはまるで墓標のように。
闇に輝く唯一の光は墓標。
それが地を照らすころ。
ソレは進んでいるだろうか。
ソレは迷っているだろうか。
少年に導かれ進むか。
少年に誘われ彷徨うか。
考えることも難しい頭でソレは立ち上がる。
「はやく。はやく。
ボク待ちくたびれちゃうよ。 ク ちゃん。行こう。
ボクと一緒に、いこうよ」
呼吸をしていない胸が苦しい。
名を呼ばれるというのはこんなに苦しかっただろうか。
忘れた記憶の中にも存在しないように思える。
名前呼ばれるのはもっと。もっと。
安らぐものではなかっただろうか。
しなだれる腕の温度は冷たく、凍えそうになる。
柩を見つける前のように。
「ずっと寂しかったんだよ。ボク」
耳元で囁く言葉。
吐息はない。
息をしていない言葉は止まらない。
「孤独はもういやだよね。
わかるよね?」
過ぎる。
言の葉。
連なる。
言の葉。
螺旋の言の葉。
散った桜。
その根元には誰がいる?
誰を待って、誰が待つ?
差し伸べられた手は呪縛の鎖。
逃れる術は根元に埋めてきた。
冷たい土に抱かれてすべて溶けた。
わたしはだれだった。
このなまえはどこにいる。
触れる唇。
冷たく、硬く。
死んだ肉体が囁いた。
「一緒ニ逝コウヨ……サクラチャン」
→「契約」