「さくら


 柩に腰をかけたソレは頭を抱えた。
 目を開いた瞬間に消えてしまったものを想って頭を抱える。
 名前は知っている。
「……さくら……」
 咲いていたのだ。
 どこで咲いていたのかが分からない。
 思いだそうとしても思い出せない。
 そもそも記憶なんて殆どない。
 顔と同じ青白い太ももの下には荊の蔓が這っている。
 しかし痛みはない。
 何も感じないからこそ荊の蔓に塗れた柩に座れる。
 記憶も痛みもない。
 疲労感だけは感じる。
 頭を抱えたまま、ソレは口を開いた。
「……確かに見た……桜。とても、とても」
 嫌な思い出?
 嬉しい思い出?
 どちらとも分からない。
 自分の思い出なのか、別の物を見ただけか。
「……忘れてしまった……?」
 ソレは空を仰いだ。
 いつもならば暗いだけの夜が映っていた。
 だが今日は違う。
 視界に広がるのは昼の空だった。
 澄み渡る青空を仰いだ双眸が揺れる。
「……あ」
 立てる音一つない体に衝撃が走った。
 しばらく聞いていない鼓動が頭の中で再生される。
 これは実際に動いている音ではない。
 記憶していた音が反射的に聞こえる気がしてるだけだ。
 この鼓動は二度と鳴るはずがない。
 青白い手を空へと翳し、ソレは光のない双眸を細めた。
 ずっと、ずっと前に見た光景。
 青い空を白い雲が流れていた。
 心地よい風が頬を撫ぜていた。
 薄紅色の花びらが舞っていた。
 それが髪について、誰かが言った。
「桜……桜の、花……」
 笑っていた。
 幸せそうに。
 楽しそうに。
 ざわざわと荊の蔓が騒ぎ始める。
 皮膚を裂く棘を鷲掴み、ソレは黒の双眸を見開いた。
「にゅう……が、く……し…………き……!」
 はっきりとした感情。
 冷たい体を震わせた感情。
 頭の中で桜の花びらが散る。
 目を閉じた瞬間に見えた景色と同じだった。
 徐々に闇に侵食される青空の桜。
 蠢く蔓に傷つけられようともソレは動かない。
 激しい憎悪に双眸を吊り上げ、黄ばんだ歯をむき出しにして。
 今にも叫びだしそうな形相で己を抱き締めていた。
 つりあがった双眸に微かに宿る怒り、憎悪。
 青白い顔は青白いまま。
 静かな胸は静かなまま。
 形相だけが恐ろしい。



「桜の木の下には死体が埋まってる」
「それは誰が言い出した?」
「誰かが桜の木の下に埋まってる」
「誰が?」
「誰かが桜の木の下に埋めた」
「誰が?」
「知らない」
「知らない」


 誰も、知らない。

 

 →「かぜ