首を括る準備はもう出来た。
拝啓みなさま。
ここに佇む僕は負けました。
何に負けたかと言うと、競馬でもパチンコでもありません。
人生に負けました。
楽しかった幼稚園と小学校を抜け、中学校で挫折を味わいました。それでも僕は高校で変わるはず、と希望を込めて進学したところ、またもや大きな挫折。
六年間の間に僕が得たのは、ちょっとした傷跡とどもる声です。
大学ではきっと。
勉強が苦手な僕でしたが時間だけはありました。
友人もいなかったので、勉強だけはできました。
毎日毎日机に向かう日々。
ガリベンと呼ばれることも珍しくない時代でした。
それでも僕は、そこにあるはずの未来を目指して勉強に励みました。
その結果。
レベルはそこそこですが大学に合格することができました。
新しい空間。
遠い学校。
一人で暮らす家に家具を運び込み、ここに友人を招く事を思い、鼻を膨らませたものです。そしてあわよくば、彼女なんてできちゃってりして。とか期待もしました。
そう。
僕が欲しかったのは、友人たちと過ごす何気ない一日でした。
それは、僕が大学を卒業するまでの間。
ずうっと叶うことはありませんでした。
どもる声が気になり喋れない僕を、最初は彼らも気遣って話しかけようとしてくれました。みんないい人たちでした。
けれど、僕はどもってばかりで結局喋れることはありませんでした。
一人で食堂に行くのも恐ろしく、僕は別の場所で食事をとりました。
いわゆる便所飯です。
個室はひんやりとしていて、僕はそこが凄く安心する場所だと思いました。ちょっと臭いのが難点でしたけれど、それでもそこは天国でした。
そこで食事をとり、一番前で講義を聞くことだけが僕のライフワーク。
それでも嬉しいことはありましたよ。
講義を休んだり、サボッた人たちがこぞって僕にノートをねだるのです。その時だけは、僕の友人は大勢いました。
みんなが僕の名前を呼んでくれます。
本当にあの瞬間の僕は幸せでした。
そんな大学生活が終わりをむかえ、僕は恋らしい恋もしないまま社会人になりました。どうにか入り込んだ会社は、ちょっと不思議なところでした。
労働基準法とか。そんなものがあった気がしたのに、まるでそれが機能していない会社でした。最初こそは不思議に思い、先輩方に尋ねたりもしました。
しかし。
先輩の一人が顔を顰め、
「そういうことはいわないほうがいい」
そう警告した時に気がつきました。
ここがブラック企業と呼ばれるものだと。
それからは酷い毎日でした。
人を人とも思わぬ労働。倒れる仲間、消える仲間。
人の入れ替わりが激しいと思う最中に、隣の席で働いていた同僚が会社のトイレで息を引き取りました。
原因は過労だと思うのですが、上司は若いから遊んでたんだろう。の一言で片付けました。
まさかそんな一言で全部が済むとは思いませんでした。
変わらない日常が繰りかえされるなか、同僚の遺体を迎えに来た同僚のお母さんの泣き顔が頭から離れませんでした。
僕はお母さんにあんな顔をさせてしまうかもしれない。
ふと不安になって上司に言いました。
一日だけ休みをください。
母に会いに行きたい。その言葉に上司は笑い出しました。
僕をマザコンと言い、男は毛が生えたら母親なんて振り返らないものだと言うのです。
でも僕は知っています。
上司が連休をとって実家に帰っていたことも、会社の近くのホテルに女子高生をつれこんで遊んでいることも。みんな知っていました。
それは他の人たちも同じです。
なのにどうして僕たちはこの人にこんなことを言われなければいけないんだろう。
悩む僕の携帯電話。ずっと充電をしていなかった。
会社に電話がかかってきて、電話口で弟が叫んでいた。
「母さんが死んだ。どうしてにいちゃんかえってこなかったんだ」
まだ高校生の弟。
知らなかったんだ。僕は泣き叫んだ。
母の死を伝え、葬儀の準備だけでもしたいと上司に言った。
けれども上司は笑うばかりだった。
「仕事を舐めるな。
そんなのは弟に任せておけ」
もう、頭の中は真っ白だった。
気付いたら僕は鞄もそのままに、財布だけを持って会社を飛び出していた。色んな声が聞こえた気がした。
僕は電車と新幹線を乗り継いでいく中で、ずっと泣いていた。
母さんに謝らなきゃ。
母さんのことしか考えられなかった。
どうしてもっと早くに携帯電話を充電しなかったんだろう。
どうして家に電話を置かなかったのだろう。
友人のいない僕にとって、携帯電話はただの置物だった。そのことを今ほど後悔したことはない。
泣きじゃくる僕を乗客は白い目で見ていた。
きっとそれも当たり前なのでしょう。
そして辿り着いた地元。冷たくなった母を見た。
母に声をかけた。弟はずっと泣いていた。
父はもう随分前に亡くなっていて、母が僕たち兄弟を育ててくれた。大学にだけは行かせてあげると言っていた母。
仕送りなんてしなくていいよ。自分で使いなさいと言っていた母。
動きませんでした。
何も喋りませんでした。
母は冷たくて、硬くなっていました。
母は。
母さんは死んでいました。
葬儀が済んで、呆然と実家で過ごしていた僕は弟に謝ろうと思いました。弟の部屋へいってノックをしても、弟は返事をしません。
悪いと思いながらも僕はドアを開けました。
開いたドアの先では、弟が首を吊っていました。
絶叫して、弟をひきずりおろして。
救急車を呼んで、そして生死の境をさまよう弟を僕は面倒見ようと思いました。こっちに連れてきて、僕の仕事が忙しくて申し訳ないけれど、お金はあるから。
不自由かもしれないけれど、それで一緒に生活しようと思いました。
僕はいったん、会社へと戻ることにしました。
あれから四日。きっとみんな怒っているだろう。
戻った僕の机には別の人が座っていました。
同僚も先輩も後輩も、僕を白い目で見ていました。
上司がニヤニヤ笑いながら近づいてきて、
「お前はもう来なくていい。うちでは屑は使わないんだ。
はやいところ母親のところにでも行ったらどうだ?」
突然、鳴る携帯電話。
とってみれば、上司の言葉で頭が真っ白になってる僕に重い言葉。
「弟さんが息を引き取りました」
淡々とした言葉。
冷たくなって行く血液。
どっと、全身が疲れるのが分かった。
そして僕はロープを片手に歩き出した。
辿り着いたのがここ。
準備はもう、できているんですよ。
青い空。
仰いで僕は深呼吸。
最後の酸素。今まで僕を生かしてくれてありがとう。
父さん、母さん、弟。もうすぐ僕もいくから。
いつものご飯を用意しててくれよ。
ある日。
どこにでもある風景の一つに見知らぬものが混ざった。
その瞬間こそ、人々は驚いたものの、次の瞬間にはみなが忘れていた。揺れる肉袋は笑みを浮かべ、重みに耐え切れず千切れた己の首と胴体が地面に落ちる音を聞いたのかもしれない。