雪が降ると思いだす。
 あの日に確かにあった悲しみを。
 いつかは忘れてしまうかもと思った不安を。


 空は灰色。
 舞うは粉雪。
 白く、儚いそれは、アスファルトに積もるよりも先に溶けていく。
 吐く息も白くなる日。
 寒さから肩を竦めたく日だというのに、彼女は楽しそうに走っていた。
 白いコートに、白いマフラー。
 白いイヤーマフに白い手袋。
 白で統一された格好は、まるで雪の精だと――幼稚な発想ながらも、あながち間違っていない――彼は楽しそうな姿を眺めながら思った。
 ふいに彼女の足が止まった。
 くるりと振り返り、早足で戻ってきたかと思えば、
「どうしたの? 顔色悪いけど……寒い?」
 心底心配そうに呟き、白い手袋を外した。
 頬に触れた小さな手は、驚くほどに冷たい。違い過ぎる体温に、彼は寂しさにも似た悲しさを覚えた。
「……お前の方が寒いだろ」
 ぶっきらぼうに返しながらも、冷たい手を握ったまま離さない。
 せめてこの体温が伝わればいい。
 子供だましでもいい。
 切実な願いが歯を鳴らす。
「そうだね。じゃあさ」
 ニコリと微笑む。
 握られた手にもう片方の手を添え、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「手、つなご?」
「……勝手にしろ」
 振り払う気は、一切なかった。
 そっぽを向いて、繋いで手から伝わる冷たさに息を呑んだ。
 どうしてか感じる胸騒ぎ。
 久しぶりに二人で街を歩けたというのに。
 ニコニコと横顔。顔色はいつものように白く――いや、白すぎる。病的な白さは青白くも感じさせた。
 彼女に会いに行ったとき、偶然見かけた青白い顔の人間。
 次にその部屋の前を通りかかったとき、その部屋には、そのベッドには別の誰かが横たわっていた。
 名前のプレートも、特徴的な花も、何もなくなって。
 あの人はどこへいってしまったのか。
 青白い顔を下見知らぬ人は――
「――――ッ!!」
 答えを知らないわけではない。
 導き出される答えに悪寒が走った。
「どうしたの? もしかして、疲れちゃったかな」
 少し見上げて、首を傾げる。
 元気そうな素振りも、声も、笑顔も、すべてが偽りに見える。
 強がりな彼女。
 一度だって弱音を吐く姿を見せない。
 一度だって、泣いたところを見せない。
 強がりな彼女。
「少し、やすもっか。ゆっくり話したいし」
 僅かに憂いを帯びる顔。
 前にこの顔を見たのはいつだったか。
 ――あぁ。どうしてこんなときばかり、当たってしまう。
 嫌な予感、悪寒、胸騒ぎ。
 不吉の報せは足音を響かせて訪れた。
「……私ね。卒業できないって……」
 震える声。
 静かに告げられた言葉。
 俯いていた顔は空を仰ぐ。
 何かを探すように。何かを堪えるように。
「来年の春までもたないって……言われちゃった……」
 笑みを浮かべようとするも、別の感情が込み上げているらしい。顔の筋肉が変に痙攣しながら、それでもなお彼女は笑おうとしていた。
 粉雪は徐々に強さを増していく。
 握っていた手を強く握り締める。
 いかないで。そう叫びたかった。
「いい、医者を紹介してやるよ。
 俺の言葉に逆らえるやつはいない。七光りでもなんでもいい、どんな有名な医者だって、俺の……いや。俺の親の名前を出せば、逆らえない」
 しばらく使っていない言葉。
 彼女といるようになってから使わなくなっていた言葉。
 吐きだした声が震えていた。
 確信はあった。どんなに高名な医者であろうと、一声かければ手に入ることだって知っていた。
 彼に手に入らないものはなかった。
 彼女以外。
 金や権力では手にいれられそうにもなかった彼女。
 ただ笑みを浮かべ、手をとってくれた彼女。
 欲しがったのは一つだけ。

――私が寂しいときに手を繋いでくれる?――

 繋いだ手を強く握り締めた。
 離さない。
 離すものか。
「ありがとう……」
 吐きだす息と共に静かな声が漏れた。
 冷たい手はいつまでも冷たく、いっこうに温まる気配はしなかった。
 まるで凍り付いてしまったようだ。
 早く温まって。
「すごく……嬉しいよ。でも……」
 儚い笑み。
 今にも消えてしまいそうだ。
 アスファルトに積もれずに、溶けていく雪のように。
「私を、助けようとしてくれてありがとう。
 あなたの優しいところが大好きなの。
 あなたの暖かい手が大好きなの。
 あなたの笑顔が大好きなの。
 私ね、あなたのことが大好きなの。
 ……だからね……ありがとう。
 もう、いいよ……ごめんね、ありがとう。
 今まで、一緒にいてくれて。
 すごく……ほんとうに、すごく嬉しかった」
 今にも泣きだしそうな顔をしていた。
 初めて言われた「大好き」の言葉。
 泣きそうだったのは彼女だった。
 泣いていたのは彼だった。
 震える小さな体を衝動的に抱きしめた。
 もう、柔らかい肉の感触は、殆どしなかった。
 冷たい。
 コートの下にまだ彼女はいてくれるのだろうか。
 まだいて欲しい。もっと、いて欲しい。
「逃げるな」
 咄嗟に出た言葉はそれだった。
「死ぬな。
 俺から逃げるな」
 きつく、きつく、抱きしめる。
「逃げないよ……私」
 彼女が背中に手を回してくれた。
 首に触れる冷たい手。
 耳元に感じる、か弱い声。
 弱々しい光。
 この弱さを守りたいと思った。
 両手に持つには多すぎるすべてで。
 持ちうるすべてを使って、彼女を守ろうと思った。
 降り続ける雪。
 月は見えない。
 灰色の夜空から光が消える。
 夜が近い。
 行き交う人々。数も次第に減っていく。
 長い時間を、互いに抱きしめあっていた。
 耳朶を叩くのは、彼女の言葉。
 逃げない、ただの一言は、どんな言葉よりも強く感じられた。
 それでも。
 それでも彼女は震えていた。
 寒さだけじゃなく、恐怖と悲しみから。
「死にたくないなぁ……みんなと一緒に、卒業したいなぁ……」
 頬に雫が触れた。
 雪ではないのはすぐに分かった。ほのかに暖かいそれは、きっと。
 彼女が最後まで見せてくれなかった感情に違いない。



 雪が降ると思いだす。
 振り返ることでしか会えない恋人を。
 いつまでも、いつまでも。