君なんて死んじゃえばいいんだ。


 平手打ちは痛くなかった。
 むしろ痛かったのは本心からの言葉。
 あぁそうか。僕はそう思われていた。
 優しい君からそんな風に思われていた。
 ――なんて。


 恍惚の笑みを浮かべて倒れこむ。
 胸に深く食い込むナイフは心地よい。
 今にも泣き出しそうな顔を仰いで笑う。
 白い歯が血で染まる。
 口の中に広がる鉄の味が最後の晩餐かと思うと情けない。
せめてもう少ししゃれたものならばよかったのに。だけど悪くは
ないと言うかのように笑みを深くした。
 震えている手を仰いで、手を伸ばして、かすれた声で言葉を紡ぐ。
 長年の友達。
 これからもずっと一緒だと言っていた矢先の出来事。
 一つしかないお菓子は分けられたけれど、一人しかいない人間
は分けられなかった。
 彼はそれを知らず、彼はそれを知っていた。


「君もあの子が好きなの? 偶然だね、僕もだよ」

 普通という見えない線を簡単に飛び越して、努力という文字を知
らぬかのように好き勝手生きてきた男の友人は対照的。
 何もできない自分だからと努力を重ねるに重ねてようやく人並み
になれた男。
 二人がであった場所は真冬の大学。
 なんとなく受けた男と。
 希望していた大学だからと寝る間も惜しんで勉強していた男。
 二人が出会ってしまったのは一つの悲劇だったのかもしれない。

「この前のレポートは簡単でよかったよ。ドラマ見ながらでも書けたし」

 へぇ、そうなんだ。凄いなあ。笑って男は答える。
 その目の下にはくっきりと隈が浮かんでいた。寝ずに書いたレポー
トは良くも悪くもない点数を付けられ、片手間に書いたレポートは優
良の判子を押された。
 二人が並んで歩けば歩くほど噂の種にされる。
 誰かが食堂で笑っていた。

「お前らいつも一緒だけど、テストの答えとか教えてもらってるわけ?
 その割には点数悪いよなお前」

 笑われた瞬間に怒りが沸かなかったわけではない。
 むしろ通り越して心が凍り付いてしまったくらいだ。

「君、点数悪かったの? 知らなかったな、いつも勉強してるのに」

 悪気があるのかないのか。
 きっと後者だと知っていた。だから怒らずに笑顔を浮かべた。

「あぁ、そうなんだ。
 困っててさ。今度勉強教えてよ」
「簡単なことだよ。
 教科書を読んでから問題文を読むと勝手に答えが出てくるんだ」

 そうだ。
 彼は天才なんだ。
 心が成長できなかった天才なんだ。
 そう思うことで自分を支えていた。
 一人ぼっちで教室にいた彼がなついてきたのが自分だけだったから。

 彼を見下すことで決定的な力関係を気にせずにいられた。
 何を言われても笑っていられた。
 だって彼は可愛そうな子だから。
 自分がいないと独りになってしまうから。

 傍にいてあげる。


 積もった雪は数十センチ。
 倒れた彼の体重は六十キロ。
 身長は百七十五センチ。
 笑った顔はいわゆるイケメン。
 女の子にモテるけれども女心を知らないからモテない。
 チョコだけは貰える、関係だけは持てる。
 読める言葉の数は六カ国。
 面白い本があればもっと増えると笑っていた。
 就職先はもう決まってた。
 誰よりも早くに。
 そして誰よりも早くそれを断った。
 断った時の台詞は、

「家から遠いよ」

 貰える予定だった年収八百万。
 それよりも徒歩十数分の小さな会社を選んだ。
 貰える年収四百万。
 半分でも近い方がいいと笑いながら。
 すべてに恵まれ神に愛され。
 それでも何が足りないのか彼は手を伸ばした。
 その先にいたのはあこがれの女。
 優しくて頭のいい女。
 いつか言おうと思ってた。
「好きです」
 彼はこんな言葉で彼女を射止めてしまった。

「僕を好きにさせてよ」

 地獄のような日々。
 彼は天国のような日々。
 二人が仲良くする姿を見ていた。
 彼の家の中に彼女の私物が増えて、写真が増えて。
 やがて彼女のお腹が大きくなった。
 二人が結婚するんだと思っていた。
 諦めないと、諦めないと。
 けれどできなかった。
 彼があんなこと言うから。

「君もあの子が好きなら一緒に結婚しようか。
 僕と君とあの子。あとお腹の子供で仲よくしようよ、ずっと」

 可愛そうな子。
 可哀想な子。
 かわいそうな子。







 可哀想過ぎて涙が出る。
 叩くだけでよかったのに。
 可愛そうな子供は叩くだけでよかったのに。
 胸に住み付いた狂気はいつの間にか大きく膨らんでいて。
 自分だけでは止められなかった。
 狂気を片手に、凶器を握り締めた。
 突き刺して、手首をひねった。
 生暖かい感触に心臓が破裂するかと思った。
 でも手は離れない。
 かすれた声が頭のうえから聞こえる。


「やっと近づいてくれたね」


 背中に腕を回されて、抱きしめられた。
 深く食い込むナイフ。

「どうやったら近づけるのか。
 教科書見ても分からないから。頑張ったよ」

 ずるずると雪の上に倒れこむ。
 真っ白な雪が赤く染まった。
 伸ばされた腕が震えている。
 握り締めたナイフが音もなく落ちた。

「君は誰にでも優しいから。
 特別になりたかったのに。君の特別になれたら楽しいと思ったのに。
 なかなかうまくできなくて。
 あの子は僕を好きになってくれても、君は離れてくだけだったから。
 でもやっと。傍に来てくれたね」

 笑った顔が冷たくなる。
 唇が音もなく言葉を紡いだのに気付いて気が狂うかと思った。


――すきだよ――


 好きにさせてじゃない。
 好きになってでもない。
 好きだよ。
 彼の意思が好きだといった。
 自分を好いてる子供を殺してしまった。
 罪の意識が。
 濡れた手が。


 重い。


 苦しい。


 声がでなかった。





 心優しい君にそんなに強く思われていたなんて。
 努力してよかった。
 あの子を使ってよかった。
 四人で暮らせるかどうかはさほど問題じゃなかったし。
 むしろ一番の問題は君の気持ち。
 笑ってるだけじゃなくてもっと見たくて。
 怒って、嘆いて悲しんで。
 怯える顔は最高に可愛い。
 優しい君を狂わせた怒りが愛しい。
 甘い苦痛を抱いて冷たい雪に埋もれて。
 終わる前に君を抱けなかったことが心残りだけど。
 清いままの関係も悪くない。
 だって僕はこんなにも強く想われてるんだから。

「君なんて死んじゃえばいいんだ」

 優しい君の罵声。
 なんて……
 なんて……心地よいんだろう。
 愛されるって気持ちいいなあ。
 あの子の愛してるよりずっと、気持ちいい。




「……好きだよ、君だけが」
「好きだよ。君の子供のような心が」