私の左手はお母さんの手。
お母さんが握ってくれた手。
優しく笑って安心してねと言うの。
包んでくれるのはお母さんの右手。
私の左手はお母さんの右手。
血の繋がらない私を娘と呼んでくれたお母さん。
大好きなお母さん。
お母さんは何がしたい?
お母さんは何が欲しい?
お母さんは――――
ぼんやりと仏壇を眺めていた。
学校は三日ほど休んでいる。忌引きだから大丈夫だと血の繋がらない
弟が呟いていた
が、父はといえば不安そうに彼女を見ているばかりだった。
突然の死を迎えた母親を看取り、気丈な振る舞いで葬儀を終えた十七
歳の少女は、まるで電池が切れてしまった時計のように動かないまま三日
を過ごしている。
その間に水を差し出せば摂取してくれるが、固形物は一切口にしない。
時折立ち上がるかと思えば手洗いに足を運んですぐにまた戻ってくる。
動かない。
仏壇の前から動かない。
母の友人が訪れようと、親族が訪れようと。
決してそこから離れずに左手を右手で握り締めて唇を噛んでいる。
「樹理はどうしたんだろうねえ……やっぱり、あの子がいなくなったんだから
施設に帰したほうがいいんじやないのかい? 俊夫さん」
老婆――戸籍上では少女の、樹理の祖母に当たる彼女の母親の母親は
渋い顔で告げた。続ける言葉は、最初から私は反対していたのだと言う自分
勝手な言葉ばかり。
あなたがそんなだから母親は、俊夫からすれば妻はあの子を引き取ることを
決めたというのに。
施設の隅で一人遊びをしている女の子。
他の子供に混ざって遊ぼうとせずに、ひたすら右手と左手で遊んでいた少女
へと手を伸ばし、妻は告げた。
「今日から私の家の子になるのよ。お母さんって、呼べたら呼んでね」
そのときのぼんやりとした顔を忘れない。
今は写真の中で笑うだけの女性は優しく微笑んで繰り返していた。
「聞いてるのかい? 俊夫さん」
「あっ、あー……すいません」
頭を掻いて樹理を見遣る。
本当の名前は別にあるかもしれないと施設の職員は言っていた。呼び名
がないと困るからと施設でつけられた名前。それは施設に入って以来、一
言も口を聞かなかった幼い少女の生きてきた道の過酷さを表しているようで、
この子が本当に穏やかに微笑んでくれる日が来るのかと心配になったものだ。
だが。
「もう少し……待ってくれませんか?」
「え? なんだって」
「もう少しだけ――」
あの子は確かに笑えるのだ。
お母さん、と妻を呼ぶ。
お父さん、と彼を呼ぶ。
俊之と血の繋がらない弟を呼ぶ。笑ってはしゃいで暮らしているのだ。
今はショックであんなふうになってしまっているのだろうけれど、やがては
元に戻ってくれる。今までのように家族で暮らせるはずなんだ。
「だから……もう少しだけ待ってください。
樹理はうちの子ですから……奈々の娘なんです。ですから……」
穏便に済ませようする父親を見る祖母の目は冷たい。
「どうなったって知らないよっ。あんな……あんな、悪魔みたいな子を置い
といて」
吐き捨てるように告げて背中を向ける。
「あの子がいなくなった今、あたしはアンタを息子と呼ぶ必要はなくなったん
だからね。今後一切、助けてもらえると思わないことだよ。
絶縁さね。俊夫さん、さようならだ」
いつものこと。
いつものこと。
自分の思い通りにならないとこうして絶縁と告げて出て行くのだ。この祖母は。
「……樹理」
聞こえているのかいないのか。
父は血の繋がらない娘へと目を向けた。ぼんやりとした表情は施設で出
会った頃のようだと思う。けれど、違う。今の彼女は笑えるのだ、今は悲しみ
が深すぎるだけなのだと自分に言い聞かせて口を開く。
「お母さんにあげる花を買ってきてくれないか? 樹理の好きな花で良いから」
「…………」
無言のまま振り返る。
家族の誰とも似ない顔立ちは端整だった。きっとこの子の本当の両親は美
形揃いだったのだろう。弟が羨むような鼻筋通った顔とパッチリとした双眸。
淡く色づいた唇が微かに開かれ、
「少し……遅くなるかもしれない」
小さく呟いた。
立ち上がり、左手を不自然に振りながら歩き出す。
「樹理。お金――」
「バイト代があるから大丈夫」
樹理は、もう振り向かなかった。
制服のまま外へと出て行く背中は小さな子供のものではなく、大人を目前
に控えた蛹の姿。羽化して飛び出すその日を待ち続けるのだと夢見がちな
瞳で告げていた母は――もう、いない。
残されるような感覚を抱いて父は母の仏壇へと目をおろした。
「心配……だよな。樹理のこと、君がいないと。
俺だけでやっていけるのか……正直、心配だよ」
家族で撮った写真。
母の右手と樹理の左手は繋がれている。
いつでも一緒。二人で一緒。
手を繋いで一緒に笑って一緒に歩いていた。
お母さんは何が欲しい?
お母さんは何がしたい?
お母さんは……
お母さん。そこは寂しい場所じゃない?
待っててね。
今…………
「はい。マーガレット。
好きでしょ、お母さん」
花瓶に花を活けて笑う。
大部落ち着いたのだと思ったのは四日目。
白い花と、昨日買ってきてくれたのは赤い花。
花の名前に詳しくない父は眼鏡越しに花と、微笑む樹理を眺めて安堵の
溜息を漏らした。笑うようになった樹理は家事をこなしてくれるし、弟の俊之
は学業優先と言いつつも真剣に進路を考えてくれるようになったし。
さらにいえば父の仕事だって上手く軌道に乗ってくれた。このまま行けば
母の墓はいい場所のものが買えそうだと食事の際に言ったら、二人は声を
揃えて笑っていた。
近ければ良いのよと。
立派じゃなくても近くですぐに行ける場所が良いと。
家の中にいることができなくても傍にいれればそれでいいのと。
まるで血が繋がった姉弟のように笑いあっていた。
家族の姿。
――何一つ変わらない。
変わってなんていなかった。
「父さん! ばあちゃん家……燃えてる」
夕飯前にテレビを付けてチャンネルを回していた俊之。臨時のニュースで流
れたのは大規模な火災の様子だった。轟々と燃える炎と燃やし尽くされる近隣
の建物たち。
逃げ惑う人々の中には見知った顔もいた。
その中央でメキメキと音を立てて崩れる家が、祖母の家だと、俊之は言う。
「ばあちゃんの家が……」
アナウンサーは真剣な顔で現場の様子を語っている。
テロップには死者の数と負傷者の数が載っているが、そこに詳しい名前は
書かれていない。焼け焦げすぎて身元が分からないのか、それとも数が多す
ぎて書いていられないのか。
嫌な予感がした。
「姉ちゃん。なんで今日に限ってバイト遅いんだよ……ばあちゃんが大変なこ
とになってるのに」
母の葬儀から一週間。
娘はバイトに出かけられるくらいまで回復していた。ただ、立ち上がろうとす
るたびに左手が痙攣するのだと眉根を寄せて嘆く。それでも仕事に支障はな
いからと出て行くものの、やはり何か遭ったのではないかと心配になり出した
のと同時だった。
「ただいまー」
元気な声が玄関先に響いたのは。
「姉ちゃん!」
俊之が駆けて、靴を脱いでいた樹理を引っ張ってくる。
何事かと困っている樹理の双眸がテレビへと向けられ、そのまま大きく見開
かれた。
「ばあちゃんが、ばあちゃんが……!!」
驚いたように見開かれた後、樹理の唇が微かに笑みを浮かべたのを父は見
逃さなかった。唇だけではない、瞠目していた双眸も、引きつっていた頬も、す
べてが緩んで穏やかな笑みを浮かべる。
「姉ちゃん……?」
不安そうな俊之。
それもそうだろう。祖母が大変なことになっているのに、笑みを浮かべるなん
て。折り合いが悪かったとはいえどおかしい。今まで樹理は祖母に嫌われてい
ようとも、母の母だからと嫌うどころか尊敬している素振りすらあったのに。
胸がざわめく。
違う意味での不安が頭をもたげたのが分かった。
「おばあちゃん……」
妻の愛した可愛い養女は他者を惑わすような微笑で告げた。
「お母さんが寂しくないようにって、逝ったのね。
やっぱりお母さんのお母さんよ。なんて深い愛情なんだろう……おばあちゃん」
言葉を失う俊之。
今思えば、俊之の最期の顔はそれだったのかもしれない。
お母さん。
お母さん。
お母さんの右手は温かいね。
お母さん。
お母さんの右手は安心するね。
お母さん。
お母さん……ずっと一緒にいてね。
お嫁に行くまで。
お嫁に行っても見守っててね。
だいすき。
おかあさん。
難しい顔で左手首を眺める樹理がいた。
傷跡があるわけでもない白い手首にはあざが一つ。ぶつけたのだと本人は
言っていたが、それにしては治りが遅すぎる。それどころか不自然に腫れてい
るような気すらした。心配して声をかけても樹理は決して、手首の異変を見せ
てはくれなかったが。
「俊之は何が好きかな。
何を買ってくれば良いと思う?」
鞄を片手に首をかしげる樹理。
視界の隅には次々と増えていく遺影たち。
この一ヶ月で連続して亡くなった親族たちの遺影。その中には俊之の姿もある。
学校帰りに車に跳ねられたと。誰かに押されて道路に飛び出したのだと誰
かが言っていた。妻の友人だったろうか、それとも近所の誰かだったろうか。
もう分からない――とでも言うように頭を抱えると、樹理は決まって優しい笑
みを浮かべ、
「最近ね、夢でお母さんが出てきてくれるんだよ。
抱きしめてくれるの。左手ごと、私を抱きしめてくれるの」
樹理の左手には何かあったろうか。少なくとも自分は何も聞いていないと当
時のことを思い出す。ただ、引き取って間もない頃から妻は樹理の左手を握っ
て過ごすようになっていたことを思い出す。
それが何の意味を持っているのか分からなかったが、そうしていることで二
人が安心するならばそれで良いと。
二人揃って、三人揃って幸せになれればそれで良いと思っていた。
気づけば二人。
樹理と父だけが家の中に取り残されていた。
いったい何が。
どうしてこんなに続く。
ミステリアスな事件とマスコミが騒いでいた。
霊視をしにきた事象霊能力者たちも先祖の霊がとしか言わない。毎年参っ
て、几帳面だった妻の行いを告げるとすごすごと引き下がるその姿はただの
ペテン師。
ここにある現実は優しく微笑みながら鞄を抱える樹理の姿と、増え切った
遺影だけ。
「……なぁ、樹理」
だから少しだけ疲れていたのだと思う。
「なーに?」
「父さん。母さんの傍に行きたいよ、父さん。疲れちゃった」
なんとなく、その言葉が口をついて出てしまった。
「……そうなの?」
少しだけ驚いたような顔。
しまったと思い訂正しようにも言葉が浮かばない。動揺している父を見つめ
るのは二つの瞳。どこか純粋で、どこか異常な血の繋がらない養女の双眸。
誰にも似ない顔に笑みが浮かぶ。
「あーよかった」
「え……今、なんて」
「よかった、って。だってお父さんがそう望んでくれるなら、私は簡単にお母さ
んの願い事も叶えられるもの。今までのお母さん全員の願いこと全部、叶え
られるもの」
何を言う。
なんていった。
なにが、なにが、なにが。
今までのお母さんとは誰だ。
樹理の母は産みの母と、育ての母の二人ではないのか。
他にもいるというのか。
母親が、家族が。
「あれ。混乱しちゃったかな、お父さん。
そーだなぁ。分かりやすく言うとね……私、生まれてくるときにうっかりお母
さん殺しちゃったの。それで驚いたお父さんは私を近所のお寺の境内に捨て
たんだって。
拾ったお坊さんは驚いたってさ。
大の大人でも凍死するような寒い冬の日に、乳飲み子が産着だけで眠って
ると。そしてその間にも私の左手はまるで、あやすように動いていたそうよ。
私が思うに、それが一番最初のお母さん。私を産んでくれたお母さんだと
思うの」
不自然に痙攣する左手。
近くで見てはじめて気がついた。左手は腫れているのではない。
腕の内側から、もう一本の腕が生え始めているのだということに。
「私を拾ってくれる夫婦はけっこういたの。けど、そのたびにお母さんが死ん
じゃう……嫉妬するのよ、前のお母さんが。そして私の左手には新しいお母さ
んが宿るの、私を守ろうと前のお母さんを追い出して。
私もお母さんが大好きだからそれを許すわ。
愛してもらった分の恩を返して、願いを聞いて、生きるの」
左手は母親だという樹理。
ならば。
ならば。
あの施設で一人遊びをしていた樹理は。
「前のお母さん。施設でも遊んでくれたのよ、他の子と遊ぶよりもずっと楽しかっ
たわ……でも、喋れなくて困ったけどね。
それと比べると願い事は無茶だけど今のお母さんはいいわ。
左手以外は私の自由にさせてくれる。願い事は無茶だけどね」
繰り返した言葉。
願い事は無茶だけど。
何を願った。妻は、何を――
「気になる? 答えはもう出てるはずよ」
右手が指差すのは仏壇。
増え切った遺影。
親族家族。死んで死んで死にまくった。
その中の中央には妻一人。母一人。
「……奈々は、道連れにすることを願ったのか……?」
震える父の声に静かにうなずく。
痙攣する左腕から指が生えて、赤い血が滴り落ちた。
「お父さんで最後。
お母さんの願い事はね……みんな一緒に幸せになること。
お母さんの傍にいないと、みんな一緒に幸せになれないでしょ……?
って、
お母さんが」
震える。
生える。
滴る。
左腕から右手が。
見つめて抱きしめて、樹理は優しく微笑んだ。
「お母さん。左手はお母さんのものだよ。
私の左手はお母さんの右手。好きに使って、お母さん……おかあさん」
悲鳴は、あげられなかった。
とぼとぼと人で歩く。
静かになった左手。満足したようにぽろぽろと指が落ちていく。
残るのは自分の左手だけ。
寂しい道を一人で歩く。
ふと足を止めれば――
「もしよければ……うちの子にならない?
あたしたち年なのにね、子供がいなくて困ってるの。
助けると思って……不自由はさせないわ」
どうかしらと懇願する老夫婦。
穏やかに笑って振り返る。
「やったぁ。
私、お母さんが欲しかったんですよ」
左手が痙攣する。
嫉妬、嫉妬、嫉妬、嫉妬。
お母さんの嫉妬。
お母さんは何をしたい?
お母さんは何がしたい?
お母さん。
もっと傍にいて。
私の左手はお母さんの右手。
だいすきだよ……
おかあさん。