「悲しい目をした子供を捜してください」


 彼の事務所を訪れた男は呟いた。
 正しくは呟くように告げたのだ――昭和を思い出させるレトロな内装をした室内に、
静かな声が響き渡る。チリンと鈴が鳴り、彼の膝の上でまどろんでいた白猫が耳を
動かした。
 彼は笑う。
 これまたずいぶんとレトロな帽子――子供向けの小説で探偵がかぶっていそうな
帽子で顔の上半分を隠し、唇だけで笑ってみせる。
「お任せください。僕が責任を持って探し出しますよ」
 指先がいじる小さな箱。それを軽く弾いて、顎で指す。
「解決したら、その箱に報酬を入れてこの子に持たせてください」
 この子、とは白猫のことなのだろう。自分が呼ばれたことに気づいたのか顔を上
げて鈴の音のような声で鳴いた。
「お願いします……それでは」
 小さな箱を受け取り、男は背を向けた。
 真新しいスーツに不釣合いな古びたネクタイ。
 男自身の年齢は五十を過ぎたころであろうか。疲れきった顔立ちと、白髪交じり
の頭のせいでだいぶ老けて見えるが、おそらくはその程度であろう。
 彼はテーブルの上に置かれた書類へと目を落とした。
 ずいぶんと几帳面な字を書く男だ。神経質なのかもしれない。ならば、あのような
くたびれた姿なのも納得できる。若い頃からいらない苦労を背負い込んでいたに違
いない。
「珍しいですね」
 カタン、と窓枠が外され、そこから長い足が伸びてきた。その付け根には白い手袋
をポケットに突っ込んだ細身の男――の下半身が一つ。そこから先はまだ外で懸命
に窓枠をくぐろうと身をひねっているのだろう。
 彼は目深にかぶった帽子から覗き見るように目線を動かした。
「何が珍しいんだ?」
「二つ返事で依頼を受けることですよ。面倒くさがりのあなたが、珍しい」
 ようやく姿を現したのは、やはり細身な上半身だった。嫌味なくらいに長身の男はそ
の顔立ちもまた、嫌味なくらいに整っていた。
 全体的に色素が薄く、どこか儚いイメージすらもたせるその男は長く茶色い髪を右肩
の上で一本に結っていた。その房が流れ落ち、もう一度肩に乗せようとしなやかな指が
すくう。
 その動作だけでも外を歩く婦人方は黄色い声援を上げ、数人は鼻血を出して倒れて
しまうに違いない。
 存在そのものが嫌味にしか感じられない男は、特徴的な右目とそれを覆うモノクルへ
と指をかけた。
「そんなにいい報酬が手に入りそうだったんですか?」
 帽子で隠された顔。
 その双眸はどのような表情を浮かべているのか、その双眸はいかな色を浮かべてい
るのか。そのどちらも分からないままに男は問うた。
 静かな室内に時計の針が時間を刻む音だけが響く。
 永遠にも似た刹那の中、彼は口元だけで笑んで答える。
「君だったら断りそうな以来だったからね。無駄足踏ませる前に僕が請け負っただけ…
…って答えはどうかな? 我が永遠のライバル」
「……意地の悪いことを言う」
 苦笑を浮かべ、白い手袋をはめる。
「今日は私と食事に出かける約束をしていたと思いますが? 忘れてしまいましたか」
「さあね。僕は仕事命な人間だからね。その他のことはどうでもいいんだよ」
「本当に……あなたという人は」
 頭一つ分ほどの身長差で見下ろされてもなお、笑みを消さない。
 物怖じするということを知らないのか、はたまたニヤけたような顔がもともとの顔なの
か。男は小さな溜息と共に彼の白い頬を両手で挟み込むように触れた。
 手袋に遮断される彼の体温はきっと今日も冷たいのだろう。
「そのような態度が私を繋ぎ止めると知っていて……言うんですか?」
「さあね」
 笑みの形を浮かべた唇。
 帽子の奥に隠れた双眸は笑っているのか、いないのか。
 笑っていればいいのに――男は小さく囁いた。
「罪な人だ……そんなあなただからこそ、私は…………」




「本当に死にたいの?」
 高いビル。
 屋上でぼんやりしていた少女は息を呑んだ。
 足元にはそろえられた靴。先ほどまで呑んでいたのは、お気に入りのジュース。食べ
ていたのは大好きなお菓子とご飯。ダイエットなんて関係ないとばかりに暴飲暴食をし、
欲しかった服の載っているカタログをビリビリに破り捨てた。
 それが十分ほど前。
 フェンスに背中を預けて過去の思い出に浸っていた少女の双眸は、彼一人に注がれ
ていた。
「ど、どこから……」
 声が上ずっている。立ち入り禁止の場所に自分以外がいる理由が分からないとばか
りにうろたえ、大きく見開かれた双眸が揺れていた。
「あっち」
 指差した方向にはドアが一つ。古びた金属製のドアは、開けるときに重々しく鳴り響く
のが特徴だと少女は知っている。そして、そんな音が聞こえてこなかったことも。
「だってあのドアは開けると煩いじゃない。そんな音、ぜんぜん聞こえなかったわよ」
「開けたよ。君がぼんやりしてる間に。
 不思議だよね、人間って。思考に耽ると視野が狭くなって、さらに言えば何も見えなく
なるし、聞こえなくなることだってあるんだよね。何かに熱中すると背後を泥棒が歩いて
ても気づかないでしょう? そういうことだよね」
 不思議な言い回しをする――ぽかんと口を開けている少女。その双眸の色は黒、典
型的な日本人の色を見据えるのは、帽子の奥に隠された双眸。
 ニヤリと笑った唇が特徴的な小柄な少年は、少女の隣に腰をかけて首をかしげていた。
「ところで君は何をしてるのかな」
「っわあ、いつの間に……」
「さっき。君は一つのことに熱中しやすいんだね、すぐに周りが見えなくなって混乱する」
 淡々と告げられた言葉。
 少女の顔色が変わるのが分かった。毛先だけが不自然に茶色い少女は、ぼんやり
としていた顔に徐々に感情らしいものを浮かべていく。それは先ほどまで浮かんでいた、
モザイク越しの何色か分からないような不確かな色ではなく、確かな色。
 ――彼は笑う。この色はまるで、桜のようだと。
「そうよ……どうせ私は……いつだってそうなのよ」
 悔しそうに拳を握り締めて話す姿。その姿に咲き誇る桜がかぶる。
 一つ一つでは淡く、薄い桜。その自己主張は満開に咲き乱れること。ならばこの少女
の自己主張はこういうことなのだろう。
 白いアスファルトの上に転々と落ちている赤。放置されたカッターナイフ。
 その二つを見遣って、彼はやはり笑っていた。
「一生懸命にやればやるほど、全部がだめになるの。
 みんなはうまくやるのに……私だけだめになるの」
「何がだめになったんだい?」
「……全部よ。全部、やること全部……」
 次第に俯く少女。纏っている制服から察するに、近所の高校生で学年は二年生といっ
たところか。将来への恐怖も次第に現実として近づいてくる時期だ。十代特有の悩みで
心身ともに磨り減っていたのだろう。
 決して珍しくはない。
 彼の視線はフェンスへと向けられた。
「うまく行かないと死ぬのかい?」
「え――」
「この前も……そうだな、三日くらい前もうまく行かないから。って死んだよ、一人。ここか
ら飛び降りてね。ついでに言うと、もう五十は越えたよね、ここから飛び降りた人の数」
 少女が息を呑んだ。
 インターネットで目にした記事のまま、このビルを選んだのだろうと彼は思う。このビル
は不思議とそういうことが起こりやすい――否、理由は分かっているが証明しろ、万人に
分かるように説明しろと言われると言葉に困ってしまうのでうやむやにするしかない、とい
うのが現状なだけだが。
 彼は錆付いたフェンスをもう一度見た。
 丈夫なものに作り変えようとしたことがないわけではない。ただ、そのたびに業者の人間
が変死を遂げてしまうのだ。その家族すらも巻き込んで。
「割と古いビルなんだけどさ。このビルって建ってから十年経ってないんだよ。なのに、もう
五十。ここでみんなが色々散らかすから、すぐに老朽化するんだよね。
 おかげで今では僕しかこのビル借りてない」
「借りて……って、このビルは持ち主もいなくなったから――」
「あぁ」
 ポン、と手を打って彼は笑った。
「そういえばそうだね。家賃どうすればいいのか考えてたんだった」
「えぇ……?」
 奇妙な少年だと言葉が漏れた。耳朶に触れた言の葉は帽子に隠れた彼の眼球を動かし
ただろうか。笑ったまま動くことのない顔に別の表情を作らせることができたろうか。
 生ぬるい風が頬を撫ぜる。
「……いい、風だね」
「どこがよ。こんなの気持ち悪いだけじゃない」
 フェンス越しに地上を見下ろして少女は吐き捨てる。通常ならば、この言葉に苛立ちのよ
うなものを感じてもおかしくはない。だが彼は唇を笑みの形に歪めたまま錆びたフェンスへ
と背中を預けた。
 金属の軋む音がする。
 古びたネジが悲鳴を上げているようだ。
「死ぬなら話してよ。死ぬ理由とか、原因とか。そうしたほうが成仏できる可能性ができるか
もよ。自殺は成仏できないなんて、本人の心残りが大きすぎるのが原因なんだから……なん
てね」
 ふざけたことを言う。
 少女はすっかり血の止まった傷口に触れながら唇を噛んだ。何が分かると言うのか、何を
知っていてこのようなことを口にするのか。
 まるで学校の教師のようだと思った。
 事情を知りもしないのに知ったかぶって土足で人の心に踏み入る。なんて酷い人、なんて
残酷な人、なんてなんてなんて――
 腹立たしい人だろう。
「いいわよ。話してあげるわよ」
 本当のことを知ったら。
 誰だって離れていくもの。
 光を映すことのない双眸が少年を見遣る。
 それは光に見放されているのか、それとも少女自身が光を見放したのか。
 三日月の唇を軽く湿らせて彼は笑う。帽子を深くかぶりなおし、いっそう深い笑みを浮か
べて、耳を傾ける。
「話してよ。はやく」
「……私の家、めちゃくちゃなの。おじいちゃんのせいで。
 おじいちゃんが私のこと気に入ってて、お母さんじゃなくて私に財産を継がせるって遺言
残したんだって。それのせいで大変よ。
 離婚が決まってたお父さんとお母さんは、揃いも揃って私の取り合いよ。
 この前まで……おじいちゃんが死ぬまで押し付けあってたのにね。お金が欲しいから私
を引きとるって騒いでるの。馬鹿みたい」
「でもお金は大事だよね。地獄の沙汰も金次第って言うし」
「そんなの死ぬまでにためればいいじゃない!!」
 大きく目を見開いて叫ぶ。
「それに。私はお金なんてなくてもいいし!」
 ぷい、と横を向いて告げられる言葉。それは少女の本心に違いない。
「家族みんなで暮らせれば……それでいいのに」
 ぽつりと呟いて。
 そのまま俯いてしまう。震える細い肩は泣いているのだろうか。彼は再び帽子を深くかぶ
りなおした。ぐずぐずと聞こえるのは鼻をすする音、やはり泣いている。
 だが彼は慰めるでも抱きしめるデもなく、少女のそばへと歩み寄った。
「ちょっと顔あげて」
「なによ……」
 真っ赤になった双眸。
 こすり過ぎて赤くなった鼻。
 涙の跡が見える白い頬は少しだけ紅潮していた。
「あぁ……やっぱりね」
 深い、笑み。
 少女は背筋がゾクリとするのを感じた。先ほどからずっと喋っている見知らぬ少年。年の
ころは同じだと思っていた。ここに住んでいるというのは冗談で、男子の好きそうな秘密基
地か何かだと思っていた。
 好奇心で近づいてきたのだと――思い込んでいた。
「あ、あんた……」
 細い指が頬に触れた。
 冷たい手。
 まるで氷のよう。
「僕の思ったとおりだね。君だろう? 依頼主の捜している子供って」
 ニコニコと笑っていた顔は、気づけばニタァと嫌な笑みを浮かべていた。
 ケダモノが弱者を辱めることを悦んでいるときのような顔と言えばいいのだろうか。とて
も十数年しか生きていない少女には理解しえない遠い表情が浮かんでいる。
 伸ばされる指が触れた瞬間、そこから腐っていくような悪寒。
 先ほどまで死を覚悟し、生を諦めていた少女を襲う恐怖。
「い、いやっ!!」
 本能的な行動だった。
 懇親の力を込めて、彼を振り払う。細身の彼ならば多少の隙ができると思った、そう―
―思ったのだ。その瞬間は。
「何が嫌なの? 手伝ってあげるよ、君の望みを僕がかなえてあげるから……その代わ
り、依頼主のところへ一緒に来てもらうよ」
 微動だりしない体。
 掴まれた腕が凍りつく。
「ま、待ってよ。依頼主って……ねぇ、なんなのっ!!」
 フェンスに預けられた彼の背中。
 ギシギシと軋むフェンス。今にも外れそう。
「悲しい目をした子供を捜すのが……僕の仕事。依頼主は君を探してるんだよ」
 肉の薄い唇。
 帽子をとればさぞかし美麗な顔があるのだろうとすら思わせる。
 だがその唇が紡ぐのは甘い睦言ではなく、愛を囁く言の葉ではなく。
「逝くよ、こっち」
 死を誘う絶望の言の葉。
「君の望みは死、死んだら逝けるよ。依頼主のそばにね」
「いや、いやっ。いやぁっ!!!」
 いくら首を振っても。
 いくら叫んでも。
 誰も助けてなんてくれない。
 ここは立ち入り禁止のビル。誰一人として立ちいってはいけない、足を踏み入れたその
瞬間が死への一歩だから――インターネットの掲示板に書かれていた言葉がよみがえ
る。ただのオカルティックな妄想だと思っていた。
 彼の姿を見てもそんな恐怖は感じられなかったから。
 この足が宙を泳ぐその瞬間まで。
 死は――


 遠いものだったから。




 空を飛んでいるようだと彼が言う。
 帽子が飛ばないように押さえ、ニタニタと笑みを浮かべて少女へと顔を向ける。
「このビルで最初の飛び降りた子供の話、知ってる?」
「……私と、似てたの……は知ってる」
 ガチガチと震える歯が喋るのを邪魔する。もう少しで死んでしまうのならば、せめて話
したい、独りは嫌。彼とでもいいから、誰とでもいいから、話したい。少女の目は今にも
泣きだしそうなほどだった。
「そう。離婚した両親の取り合いを見たくなかったんだよ。
 お金が絡んで別人のように醜くなった両親を見たくなかった。
 だから子供は自分の目を抉ってから飛び降りた。ここは家族の思い出がたくさん詰
まってるから寂しくないと思ってね。
 お父さんとお母さんが、子供の誕生に間に合うように造ったビルだからね」
「……そんな話、はじめて……き――――」
 生暖かい風。
 一薙ぎに彼の帽子を攫っていった。
 言葉を失ったのは一瞬。
 その刹那に失ったのは命。
 飛び散る赤を見下ろして少年は笑う。
「さぁ。見つけたよ、悲しい目をした子供を」
 暗い眼孔。
 ぽっかりと開いた空虚な闇の向こうでくたびれた男が微笑を浮かべた。
「ありがとう……でも違うんだ。この子じゃない……私の子では、ない」
「我侭を言うね。とりあえずはこの子で手をうちなよ」
「……私が捜しているのは……」
 言葉は聞き取れない。
 美しい男が耳をふさいでしまったから。
「まだ、まだ……留まってくださいよ。いとしいひと」
 黒い髪を撫でて、眼球を失った瞼に口付ける。
 美しい横顔に垣間見えるは、透き通るほどに白い髑髏。
「もっともっと、仲間を作りましょうよ。いつまでもあなたが彷徨えるように。
 あなたたちが彷徨っていられるように……ね」


 古びたビル。
 今宵もひとり――またひとりと、消えていく。


 ベルが鳴る。
 昭和を髣髴させる内装の部屋には彼と、白い猫が一匹。
 依頼人であるくたびれた男は口を開いた。


「悲しい目をした子供を捜してください」