活けた花一輪、揺れる。
白百合の着物が美しい婚約者を見遣って僕は笑った。
「とてもいい作品ですね」
吐き捨てるほど同じ言葉を紡いで、唱えて、囁いて。
やがては朽ち果てる未来のない花を愛でる。
刹那の美――これを永久に保つことなど不可能。
ならば記憶の大海にたゆたう想い出と変えてしまえば?
朽ちることなき永遠の花。
それはなんて甘美な楽園への誘いだろうか。
鼻腔を擽る花の香りは無垢な乙女を髣髴させる。
頭の奥が痺れるような甘い香り、佇む婚約者。
深紅の紅を差した唇が微笑む。
「またまた……ご冗談を、あなたさま」
涼やかな、たおやかな。
女として最高傑作の婚約者を仰いで僕は笑う。
「お前相手に冗談なんて言うものか」
「うふふ、そのような甘い睦言で幾人の女性を虜にして?」
「僕にはお前がいる。多くは望まぬさ」
「あらあら……わたくしのような徒花で構いませぬの?」
「お前がいいのだよ、白百合」
唇を笑みの形に歪め。
その名と同じ紋様の着物が擦れる。
衣擦れの音が止まれば、傍らにはヒトの体温一つ。
肩にしなだれかかる心地良い重さが胸を震わせた。
「罪深きお方……」
耳元で囁かれる甘い言の葉は全てを知りうる天女の吐息。
「白百合――」
「ふふ……わたくしはここにおりまする」
微笑は傍らに。
その心は何処に。
美しい婚約者の白魚の如き手へと触れれば酷く息が苦しい。
双眸を覆う柔らかき闇が死とするならば心地良いに違いない。
苦しみと悦楽に閉ざされた闇路の向こうに光明を見出せ。
脳髄が叫ぶ。
甘い、花。
甘い花の香りをこの手に抱けと。
「さぁ……もう禍ヶ刻になりましょう。
ここからはあなたさまのお時間……お好きにお過ごしくださいまし」
白百合一輪、この手から零れ落ちる。
活けた花の命は短きものなれど。
麗しい婚約者の命もまた刹那。
せめて美しい内に摘み取って――
硝子の箱に閉じ込めてしまいましょうや。
「また旦那様のお弟子さんが消えたそうよ」
「また?」
「そう! また、なの」
「この前のは駆け落ちじゃなかったの?」
「だって誰も見ていないのよ?」
「何を?」
「誰を?」
大禍ヶ刻に咲く花が赤いと誰が決めつけたろうか。
「白百合……そこにいるか?」
「はい、あなたさま」
障子の向こうの影。
白百合の着物は紅の光を浴びて赤々と輝いて。
悲しみに歎いて床に伏した僕を見下ろしている。
「何ゆえ……花は散るのだろう」
「まぁ、あなたさま。花は散るものにございますわ」
「美しいものはいつまでも美しくあってほしいと……」
「あなたさま」
静かに障子が開いた。
燃えるような夕陽を背負った白百合の姿。
なんて美しいのだろう。
なんて、なんて、なんて。
「永久に美しさを保ち続けるものは花ではありませんわ」
「ならばそれはなんと申す?」
硝子の箱でも朽ちぬ花はなんという名?
「それは……」
白百合が微笑む。
どこまでも、誰よりも美しく。
愛しい僕の花。
永久に美しくあっておくれと願う唯一の花。
硝子の箱に入れない僕だけの花。
硝子の箱の花はすべてこの白百合のための滋養なんだ。
お前のためだけに、お前のために、お前のためだけに。
「永久に美しさを保ち続けるものは、愛か憎悪ですよ」
白百合。
白百合。
無垢な花。
「あなたさま? 覚えていらっしゃいますか」
白百合。
白百合。
美しい、無垢の花。
僕だけの花。
朽ちぬ花。
ずっと、ずっと、ずっと。
傍で咲いてておくれ。
「わたくしが白百合ではなかった頃のお話を」
「お前は白百合だろう。僕の婚約者……」
「いいえあなたさま。わたくしは違いますわ」
「なぜそんなことを言う? あんなにも愛を誓い合ったではないか」
「わたくしを謀ることはできませぬよ……」
赤い唇が震える。
紅蓮を背負う美しい顔には微笑。
はりついた、つめたい、びしょう。
「わたくしは姉様ほど無垢ではありませんの」
白百合。
白百合。
あんなにも無垢であれと言ったのに。
白百合。
白百合。
あれほどまでに愛を囁いたのに。
「姉様のようにはなりませぬ」
醜く朽ちた白百合。
朽ちた花は捨ててしまいましょう。
硝子の箱へ。
白い花弁を捨ててしまいましょう。
「白百合……白百合、お前は僕の傍に……」
伸ばした手を振り払う手。
柔らかな感触が僕を拒絶した。
微笑む白百合。
その花は――真っ赤。
「あなたさまはわたくしを騙すことはできませぬ」
真っ赤な白百合。
抱かせておくれ。
朽ちぬ花を、永久の美を。
この見すべてで感じさせておくれ。
愛しい白百合。
二度と僕を裏切らないでおくれ。
白百合。
美しい、白百合。
「あなたさまの愛は今も昔も姉様だけのもの。
わたくしが望むものは愛ではありませんわ。
もっと甘く、もっと背徳的な美しい花――」
赤く燃える障子。
二人の影だけが映し出される。
重なる姿。
伸ばされた腕。
鼻腔を擽る甘い香り。
耳朶をなぞる終わらぬ睦言。
「とても……いい、作品ですね」
活けた花一輪、揺れる。
白百合の着物が美しい婚約者を見遣って僕は笑った。
赤い白百合は美しいと、笑った。
白百合の唇と同じ色の唇で笑った。
ゆっくりと、赤い布団に横たわって笑った。
「あなたさまはわたくしを騙すことはできませぬ」
白百合一輪嘲笑う。
無垢に微笑み、純潔を赤く捧げ。
「さようなら……愛しきお方」
いつの世も、花とヒトは別れが運命。
白百合笑う。
冷たき婚約者を見下ろして。
白百合笑う。
赤く染まった硝子の箱を見下ろして。
白百合笑う。
無垢に、笑う。