霊柩列車
青いソラは君を連れて行った。
どこまでも続くリクは君を探す道。
いつか交わるウミは私の沈む場所。
どこを走ります霊柩列車。
例えば、それが犯人の逮捕された殺人事件であったり、原因のよく分かった
病気であったのならば、彼女の心はこんなにも曇ることはなかったのかもしれない。
窓の外を虚ろに眺める眼差しが曇っているのは、きっと白い棺の中で眠る大
切な人が不透明だったから。
意味も理由も原因も。
すべてが理解できぬ死。
なぜだか死んだ。
そうとしか言いようがなかった。
誰かに襲われたわけでもない。
人生に悩んでいたわけでもない。
体が悪かったわけでもない。
なのに死んだ。
ここにはいないのだ。
白い棺の中に冷たく眠り、やがては骨となって小さな器におさまる。
墓をどうすると両親が話しているのを聞いた瞬間に小さな怒りを覚えた。
「航は長男だからやはりうちの……」
「何を言ってるんですか。航を育てたのは母親の私ですよ! こちらに決まってます」
どうして、争っているのだろう。
墓の場所なんて、骨を埋める場所なんてどこでもいいのに。
ただ花を飾り、好物を備え、線香さえあげられればそれでいい。
どうしてこだわるのだろう。
こんなにも悲しみに満ちた場所で、どうして醜く争う。
「お母さん……兄さんがいるんだから――」
「奈央は黙ってなさい!」
ヒステリックな叫び声。
少しだけ身を退いた彼女の耳に聞こえるのは、
「どうして航が……あんなにいい子なのに。
どうして奈央じゃなかったの……どうして」
歎く祖母の声。
母方の祖母の丸まった背中を見下ろし、声もなく泣いている父方の祖父へと
目線を移す。
親戚が集まったこの場所。
口々にするのは、航の死を悼む言葉ではない。
奈央が生き延び、航が死んだことを歎く言葉。
酷く、空虚な気分だった。
「……どうして……は私のセリフだよ」
底冷えする眼差しで笑んでいる写真の中の兄を見る。
ドクドクと心臓が脈打つ感覚。全身を流れる血の音。
――あぁ、そうだ。いい場所があったんだ。
祭壇の上にある小さな器へと手を伸ばす。冷たい陶器のそれは不思議と手
になじみ、まるでずいぶんと昔からこの手の中にあるような感覚だった。
「兄さん、ここは煩いから違うところ行こ?
兄さんの好きな場所選ぶから、ゆっくり寝てて」
騒ぐことに夢中な大人は気付かないから。
ずいぶんと久しぶりに着たセーラー服の裾を翻して走り出す。
見慣れた道を走って、まずは駅へ。
駅から遠くへ。
遠くから彼方へ。
場所は?
ソラは兄を連れて行く。
リクは私が進んでいく。
ウミはいずれ交わる。
優しい兄だった。
体が弱い奈央を気遣い、なんでも言うことを聞いてくれた。
アイスがほしいと言えば買ってきてくれて、寒いといえば抱き締めてくれて。
喧嘩しがちな両親に代わって、溢れんばかりの愛情を注いでくれたのだ。
殆ど寝てばかりの奈央のベッドは、一人でも淋しくないようにと大量のぬい
ぐるみが飾られ、寝心地がいいようにとこまめに干される。
布団を干している間だけは兄のベッドで、本を読んでもらいながら眠っていた。
――優しい兄だった。
優しく、絵本を朗読し、体を拭いてくれる。
それは奈央が成長しても変わることはなく。風邪を引いて、治りが悪いと懸命
に看病をしてくれた。学校が終わった後、バイトが終わった後、自分の時間とい
う時間を奈央のために割いていた。それを申し訳ないと思う気持ちよりも、兄の
熱心な看病が嬉しかった。
このまま兄の腕の中で死んでいけるのならばいい。
幸福な人生を送れたと思えただろうに。
「でも、兄さんは先に逝っちゃった」
元気に家を出た。
元気に帰って来た。
笑顔でお土産のアイスを食べさせてくれて、そして笑ったまま出かけた。
そして、帰って来なかった。
外傷はない。
病気もない。
健康だった兄は、突然心臓が止まってしまったらしい。
理由は分からない。それはたとえ、兄を細胞の一つ一つまで解剖したってわか
らないだろうと医者が言った。それを聞いたときの両親の歎きよう。
いつもはケンカばかりなのに。
このときばかりは仲のいい夫婦のように、互いに寄り添いあって泣いていた。
奈央は――パジャマのまま、痛む胸を抑えて息を潜めていた。
辛い、苦しい、怖い、淋しい。
兄がいなくなったと知るのは、泣き腫らした目で母が告げるまで。
「あんたのせいで航が死んじゃった」
奈央に寿命を吸い取られたのだ。
奈央にばかり構っていたから死んだのだ。
母はそう言う。
奈央さえいなければ――
「私がいなくなるときは兄さんもいなくなるときだよ」
「俺は奈央さえ生きてればいいんだ。
何もない俺の生き甲斐は奈央だけだから」
なんでもできた兄。
誰からも好かれた完璧な兄。
どうしてその心がいつでも悲しみに染まっていたのかは分からない。
けれど、両親や親族を見ていたらなんとなく分かった気がする。
「兄さんはやりたいことがなかったんだね」
なんでもできるから。
結果はわかっているから。
「つまらない人生が嫌だったんだ」
駅のホームに立つ。
両手で抱えた小さな器。
感じる重みは甘美なまでに両腕を痺れさせる。
「だから私のことを、あんなに面倒見てくれた。
私だけが何も知らないまま懐いたから。損得を考えずに、ただ好きだと言ったから」
あの優しい微笑は奈央だけのもの。
何も知らない無垢な子供に与えられた一つの光。
「兄さん……」
電車が来る。
黒い電車、骨を運ぶ列車。
霊柩列車。
ソラへ消えた兄を追いかけリクを走る私が交わるのはあのウミ。
二人の思い出はこの胸の中で息衝いて。
ガタガタと揺れる列車の中でも動かぬまま輝いて。
冷たい陶器の器が熱を帯びる。
「嬉しかったよ。
私の面倒見てくれたのが兄さんで」
淡い恋心にも似た想い。
せめて兄が自分より大切な人を見つけるまで。
せめて自分が死ぬまでと決めていた。
甘えて、その腕を求めるのは。
あと、少しの間だと。
「看取ってもらいたかったけど、まさか兄さんが先に逝くなんてね」
長くはない時間。
溢れる愛情の欠片。
それはすべて兄からの贈り物。
淋しくないように、哀しくないように、いつだって奈央のことばかりを考えていた
優しい兄は、誰かと恋に落ちることもなく奈央だけを見ていた。優しく微笑み、優
しく触れ、やがてはその微笑さえも独占できると思い込ませて抱き締めた。
「俺は奈央さえいてくれればそれでいいよ」
反芻される言葉。
握った手は暖かい。
もしもこれを恋だというのならば、喜んで畜生道にだって堕ちてやろう。
この冷たい手を握るのは兄だけ。
あの暖かい手を握るのは私だけ。
「兄さん、もうすぐ海が見えるよ」
冬の海は力強いと兄が言っていた。
波の音に耳を傾け、砂浜を歩く。寒さに肩が震え、胸が詰まったが何もいうことはない。
このまま、このまま、二人で――
「初めて、海にきたよ。
すごいね、大きいね。ほら……空と陸が溶けてる」
黄昏時の空は茜色。
地平線の向こうで交わるソラとリクとウミ。
あの場所が目指した場所。この足だけではたどり着くことのできない理想郷。
「待てばきっと、電車がくる」
真っ黒な――霊柩列車が。
「乗り換えして、あそこに着いたら抱き締めてね。兄さん」
暖かい場所に二人でいよう。
二人で沈もう。
ずっと、ずっと二人で。
時を告げる胸の痛み。
何も得られないこの手の平。
かつて兄を象っていた骨の一つ一つを抱き締めて、その一歩を踏み出した。
「ホラ――」
胸の痛みが消える。
音が、世界が、すべてが。
兄を残して、
「きたよ……でんしゃ」
消えた。
ソラは兄が消えた場所。
リクを走って迎えに。
ウミで再会抱き締めて。
黒い電車が走る水底で抱き締めて。