生まれた意味を知る必要はないのよ。
 知ってしまったらあなたは生きていくことができないから。
 このままでいいの。
 悩んでもいい、歎いてもいい。
 悩んだ分だけ笑って、歎いた分だけ楽しんで。
 あなたという一生は「今」以外に存在できないから。


 ―堕ちる―


 恋をした。
 生まれて初めての恋。
 初恋は叶わぬと誰かが言う。
 関係ない、関係ない。
 想いたいだけ想えばいい。
 何も期待していない。
 このままでいい、見ているだけで。
 木々の向こうで笑う姿を、
 見ているだけで。


 額縁の中の母を見遣る。
 よく似た顔立ちだと自分でも思う。
 顔を合わせたのは数えるほど。
 あとは他人に育ててもらった。
 嘘。
 本当のことを言うと覚えてない。
 産まれて、世界が赤いと知った。
 その次の瞬間には今日だった。
 母の子守唄も、初恋も、昨日のことのよう。
 なんて不思議な胎内時計。
 私が私である時間が分からない。


 恋が叶った。
 偶然ぶつかった初恋の人。
 凄く驚いてそのまま私の手を取った。
 一緒に行こうと言ってくれた。
 こんな暗い場所じゃなくてもっと明るい所へ。
 それはどこだろう。
 私はここしか知らない。
 暗くて臭い、この場所しか。
 この窓の向こうには何があるのだろう。


 間違いに気付いた。
 私じゃなく、彼が。
 よく似ていたから間違えた、と。
 今すぐ帰ろう、間違えてすまない、と。
 そんなの……
 そんなの、認めない。


 外はこんなにも明るいのだから。
 もう二度と暗いところに戻りたくない。


 口論が聞こえる。
 私は冷たい床の上。
 彼は言う、
「どうして彼女と瓜二つなんだ! なにをした!」
 他人が言う、
「正真証明、あの女の娘だからさ。
 もっとも本人が望んだ娘ではないがな。
 使える子宮を使わせてもらっただけだ。胎児が象られた頃には取り出して
フラスコに移してやったよ。自由になりたいと煩かったからな、あの女は」
 望まれてない……?
 それはおかしい、子供は父親と母親の双方から望まれて、
 深い愛の先に存在するのだと、言った。
 他人は、言った。
「お前がもう少し早く気付いてやれば助かったかもな。
 それともどうだ? アレを代わりに使うか?
 あの女と違ってまだ純潔を保ってるぞ」
 代わり、代用品。
 使うとは何を、手を? 足を? 脳を?
 鉄格子の向こうで彼が叫んだ。

「何のためにあの娘を造った!!」



 生まれた意味を知る必要はないのよ。
 知ってしまったらあなたは生きていくことができないから。
 


 子守唄を思い出した。
 知ってしまったら……生きて、いけない。
 そう、そう、そう。
 私は何のために生まれたのだろう。
 きっと時間で言えば五年くらい。
 私はどうして生まれたのだろう。
 母は私を望んでいないと。


 拘束され、恐怖の中で犯された母に宿った私。
 その命の鼓動を知った途端に引きずり出され、目の前で作り変えられる。
 フラスコの中で浮かぶ胎児は異形の化物。
 やがてそれは娘として成長する。
 母と同じ顔で、憎らしいほどに瓜二つの容姿で。
 しなやかに外の世界へと誕生した。


 それは――どうして?


「お前があの女のことを愛していたからさ。
 俺がお前よりも先に手に入れたかった。ただそれだけの話だ。
 いい気分だったよ、口煩いあの女が悲鳴をあげる姿も、泣き叫ぶ姿も。
 何よりも……そう!」

 命が汚される。

「何度も何度も呼ぶんだよ、お前の名前を。
 助けて! ってな……くっくっくっ」

 鈍い音。
 彼が他人を殴った。
 鉄格子に背中を打ち付けて黙る他人。
 その背へと近寄れば、彼の顔があった。
 嗚呼……

 怒ってる。

「下衆野郎……!!」

 怒ってる。
 怒っている。
 母のために、母のためだけに。
 胸が痛い。
 きっと、次は、私、だ。
 私、は、母、に、望まれ、て、ない。
 きっと、私、だ。


 それも悪くない。
 他人がいなければ私は生きていけないのだもの。
 毎日二回の投与、それをしないと私は泡になると。
 まるで人魚姫――違う、そんなキレイなものじゃない。
 この冷たい床を崖とするならば。
 私はその上に迷い込んだただの貝。
 崖から落ちて、ほの暗い海の底へと沈む。
 ただそれだけ。
 堕ちる、堕ちる。


「見ているだけでよかったのよ。
 あなたに気付いてもらえなくて良かったのよ。
 見ているだけで幸せだったのよ。
 きっと分かっていたから。あなたとはこうなるって。
 私はあなた以外の人間はこの人しか知らない。
 思い出そうとしてもこの人と母以外いない。
 あなたを記憶する前に私はきっと壊れるだろうから」

 落ちる、堕ちる。
 閉じた貝を抉じ開けて、中身を知ったその瞬間に投げ捨てて。
 貝の中には闇しかないの、甘い純潔は何一つとしてないの。

「彼女の娘……か。
 君に罪があるとは言わない、だから……」

 貝の手を取ってはダメ。
 ここから出してはだめ。
 貝はあなたを想っているから。
 私はあなたのことを愛しているから。

 そう、

 水底に引きずり込んでしまいたいほどに。
 深く、深く、愛してる。
 母にだって負けない愛。
 重く圧し掛かる、深い愛を。


 堕ちる。


「一緒に――」

 堕ちる。貝は崖からおちる。


「いこう」


「逝こう」


 手を繋いで、どこまで走った頃に訪れるのだろう。
 堕ちるそのときは。


 生まれた意味を知る必要はないのよ。
 知ってしまったらあなたは生きていくことができないから。
 このままでいいの。
 悩んでもいい、歎いてもいい。
 悩んだ分だけ笑って、歎いた分だけ楽しんで。
 あなたという一生は「今」以外に存在できないから。


 子守唄が脳裏を過ぎった。
 楽しいとも、嬉しいとも。
 悩んで、歎いて、笑って、楽しんで。
 私の「今」が終わる其の瞬間まで、
 この人は私といっしょ。
 私の奥にいる母を見つめて、私と一緒。

 堕ちる、堕ちる。
 どこまでも。


 二人で、三人で、四人で。


 堕ちた其の先でまた会いましょう。


 そしたらきっと気付く。


 結局、彼も他人も私も母も。
 みんなみんな知らなかったって。

 生まれた意味も、生きる意味も。


 なんて無責任!
 生まれたことを呪うわ。

 生まれた意味を知る必要はないのよ。
 知ってしまったらあなたは生きていくことができないから。
 このままでいいの。
 悩んでもいい、歎いてもいい。
 悩んだ分だけ笑って、歎いた分だけ楽しんで。
 あなたという一生は「今」以外に存在できないから。

 これは自分への言葉、慰めの言葉。


 最低、

 最高。

 さよなら、

 またね。


 −堕ちる−

 

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