空が落ちる悪夢に抱かれて眠りたい。


 夜が襲ってくるのだと妹が叫んだ。
 前の見えない恐怖に泣き叫んで暴れた。
 夜が怖いのならば目を閉じなさい、その言葉に耳を傾けることなく
妹は何処かへと逃げ出した。
 誰もいない寝室で熊のぬいぐるみが死んでる。
 眩しいくらいの闇がすべてを支配する。
 ふいに空を見上げれば、


「うわー、空が落ちてきそう」


 何を思ってそういったのかなんて考えないことにした。
 どうせ答えなんて見つからない。
 どうしようもない。


 夢を見た。
 ひとりの寝室は淋しくて寒くて、仕方がないから死んだ熊を抱いて寝た。
 硝子球の眼球が気に食わないので毟り取ったら中身が出てきた。白くて、
汚い、柔らかい中身。かび臭いけれど決して嫌いではない中身をベッドにぶ
ちまけて、とりあえず小さな穴に指を入れてみた。
 つまらない。
 なんてくだらないのだろう。
 自己嫌悪だ、どうしようもない。
 だからヤケになって不貞寝した。
 引き摺りこむかのような睡魔は気持ちいいくらいに脳髄を闇で満たしてくれる。
 次第に動かなくなる手足も、何も考えられなくなる頭も、自分が自分ではな
い何かに支配されていく感覚が好きだ。
 自分が自分でなくなるその刹那が気持ちいい。
 闇の中で夢を見ていた。


「空が落ちてきたら怖い?」

 
 妹の問いに静かな声で答える。

「べつに」

 きっと何も考えていない。
 考えているのは目の前にある花をどうやって手折るか。いかにして美しい
姿を保ったまま自らの手中に収めるか、のみ。妹の言葉など耳に入っても
いないし、むしろ姿を認識していたのかどうかすら妖しい。
 妹の髪は何色だったか。
 そもそも妹だっただろうか。弟かもしれないし、姉かもしれない。
 それくらいどうでもいいこと。
 明日になればすべて忘れる程度のこと。
 だがここで選択肢を間違えた。
 ここで答えるべきなのはBのべつにではない。Aだった。

「怖いだろうね、けれど怖くないよ」

 これが正しい。
 そうすればすべては回避できた。
 そうだ、そこが間違っていた。
 しかしどうする、セーブしてない。それどころかリセットボタンも見つからない。
 やり直したいのにやり直せないぞ、どうする。
 慌てて周囲を見回しても見えるのはすべてが空、空。
 青空、曇り空、黄昏時の空、夜空、どこを見ても空ばかり。
 そして繰り返し繰り返し落下していく妹の姿。
 空へと落ちる妹。
 百を越えるくらいまで数えてふと気付く。

「ん、あぁ、あぁ。そうか、そうね、そうなんだ」


 大変だ。
 妹は空へ落ちてない。
 空が妹に落ちてる。
 あんなに大きいものが妹に落ちたらつぶれてしまうよ。
 だから怖いと叫んだのさ。
 空に呑まれて潰されたからいなくなったのさ。
 仕方ない助けてやらないと。
 さて、本当に妹だったか。
 弟だったか。
 そもそもあれは誰だったのか。


「今となっては確かめようがない」


 肉が焦げて、白い骨が現れる。
 パキパキと砕けて折れて、脆い部分から崩れていく。
 飢えた餓鬼にくれてやった覚えはないのにむしゃぶりつかれて姿が無くなる。
 ここにいた証なんて一つも残らない。
 空虚な部屋にはいつまでも続く闇が取り残されて、帰らぬ主人を大口開
けて待ってる。
 合言葉は、

「腹減った」

 空が落ちてくるのが怖いと叫んだ妹のいた場所に座り込んで夢を見る。
 漆黒の闇の中は眩しい光が点滅する。
 まるで蛍のように、幻想的かと思えば生々しいまでに白を映し出す。
 今更逃げられるとは思っていない。
 落ちる空に呑まれて消えるなら悪くないとも思わないこともない。
 だが解せない。
 妹はどうして空に呑まれて落ちた。
 こんなに人間が生きているのに、妹だけが飲まれるなんてそんなまさか。
 分からない、分からない。
 けれど考える気もない。
 とりあえずは寝よう。
 今が夢の中のような気もするけれど、とりあえず寝よう。


 横になって、闇に抱かれればまた変わるさ。




 白と黒。

 反転した世界。

 黒の中で白が点滅して、
 白の中で黒が点滅する。

 どこまでも続く青い空を黄昏が喰らう。
 黄昏を闇が侵食する。闇は光に追いやられる。

 世界のサイクルを眺め、やがては世界と同化する肉体。

 離れた魂とやらが行き着く先は?


「あぁそうとも、ここしかない、そうさね……ここしか」



 空が青い。
 今にも落ちてきそうな空を見下ろして笑う。
 誰もいない寝室、死んだ熊、冷たいベッド。
 ホワイトボードには書いてあるよ。
 日付は一年よりちょっと前だ。

「ひとりでお留守番お願いね」

 そうとも誰もいやしない。
 ここにはだれも。
 自分以外だれもいやしない。
 すべてが空っぽになった部屋に詰まっているのは自分だけ。
 自分の中身すら空っぽになってきたというのに。
 虚しくて仕方ないから屋上へ出た。
 落ちてきそうな空を仰いでいる内に黄昏だった。
 そして闇がきた、そして明るい空が出た。
 そんなことを繰り返してる内に体が動かなくなってきた。
 今までで一番強い眠気。
 自分の四肢が自分のものでなくなる瞬間。
 自分ではない誰かに瞼を押さえつけられるような感覚。
 だから気付いた。
 これが最期だと。


 ゆっくり眠って、空が落ちてくるよりも前に家の中へ逃げよう。
 白と黒が反転した世界で休んで、そのうち家に戻ろう。


 肉体が世界に同化して、離れた魂はどこへ逝く?


 例えばこんな答えを想像してみた。


 妹なんて最初からいなくて、

「なんだって?」

 死んだ熊とか冷たいベッドは全部自分のもので、

「ありえない」

 空に呑まれたのが自分だとしたら?

「じゃあなんで二人で会話してる?」

 そんなの簡単。


「体と」
 魂の、

「関係だからさ」
 関係だからさ。


 空に落ちた魂玄関ついた。
 かちゃりとノブを回して、


「ただいま」


 白い自分を見つけてせせら笑う。


「おかえり」

 カタカタと笑うよ、世界と同化した肉体が。


 ――空が落ちる悪夢に抱かれて眠りたい。

 

 

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