血に塗れて踊る女は誰よりも美しい――


 笑わない女がいた。
 喋らない女がいた。
 怒らない女がいた。


 その女は誰よりも気高く、誰よりも美しい。


 まるで人形のような美しさ。
 無機質なその素肌に赤が混じるその刹那。
 人間の言葉では表しきれないほどの美という美が彼女を取り巻く。
 一太刀も傷を負わぬ銀髪の美女。
 その双眸は常に獲物を追いかけ、追いつめ、そして喰らう。
 肉食の獣を髣髴させる強い光。
 美しさに呑まれ、足を止めたが最期――


 大地には肉辺が転がるのみとなる。


 名のない女。
 呼び名はただ一つ。


 ベルセルク。


 それだけを残して女は立ち去る。
 大地に刻まれる血文字、動かぬ骸に刻まれる刻印。
 人々から忘れられることなく記憶され、伝えられていく記憶。
 ただの狂戦士だったならば途中で忘れられよう。
 だが女は違う。
 永久に語られ、永久に想われる。
 ベルセルクの伝承から百年が経とうとも、千年が経とうとも。
 その記憶と名前は受け継がれつづける。


 血の刻印と共に。


「――とまあ、こんな書き出しでどうでしょうか?」
 タバコの煙が立ち込める狭い部屋。そこにいるのは年若い眼鏡の青年が
一人と、子連れの男が一人。男の口に銜えられたタバコが白い煙りを燻らせ、
それを目で追う少女の髪が風に揺れた。
 まさか子連れで来るとは――青年はそう思わないこともなかったが、機嫌を
損ねたらまずいと口を閉じる。この男の気分一つで自分の首が飛ぶのだ。ま
さか本当に首を切り落されるわけではないが、この雑誌から仕事をなくされた
ら切らないまでも吊るさないといけなくなる。
 青年はすっかり物のなくなった自分の部屋を見回した。
 この一年でよくもまあ、減ったものだ。
 蓄えも残り少ないし、ここいらで一つ連載を――
「却下だな」
 そんな甘い夢を踏み潰して男は立ち上がった。
「おい、トール」
 頭上から聞こえてくる男の声に青年は涙がにじみそうな眼を向けた。
「お前の書く話は嫌いじゃねぇ、だがな? 俺はベルセルク愛好家なんだ」
 ヒゲ面のむさい顔。
 ニカッなんて擬音を書き足したくなるような顔が告げた言葉に青年は言葉を
呑む。トール――日本名で透流と名付けられた青年は、両親の都合で日本を
出る羽目になり、向こうで果たすはずだった作家への夢も何もかもを失う所だった。
 それをギリギリのラインで助けてくれたのが目の前にいるむさい男――これ
でも十年ほど前、初めて出会った時はなかなかの好青年だったのだ。
 落ち込んで今にも死にそうな顔をしているトールを励まし、自分の勤める雑誌
会社で小さな仕事を紹介してくれたりと、とにかく世話を焼いてくれた。
 その理由が小説の投稿サイトに投下されていた彼の作品を気に入っていたか
ら、というものであり、トール自身も彼のことを好いていた――のだが。
「初めて聞きましたよ。
 今までそんなこと一言も……」
「娘が生まれてからだな、ベルセルクに目覚めたのは」
 八年前に結婚し、その直後に娘が生まれてからだ。突然、トールの仕事を次々
と奪い、それどころか書き上げた作品も殆ど目を通さない内に没だと言い放つよ
うになったのは。
「またそれですか……」
 不満はある、しかしそもそも、彼のおかげで物書きになれたのだ。
 彼に恩がある、だからこそ文句を言わずに書いてきた。しかし時折り、脳裏をあ
る言葉が過ぎる。
 ――潮時――なのかもしれない。
 アルバイトはしている。そちらから本業にしないかという誘いもある。
 書きたいものの大半は書き終えた。学生時代に暖めていた作品も完結し、これ
から新しいものを考えればかけないことはない、否。いくらでも書ける。
 だが、それは苦しい生活の中でなくても書ける。違う仕事をしながら、趣味でもい
いではないか。結婚して、子供たちと過ごしながら静かに書いてもいいではないか。
 そんな思いがあるのは間違いなかった。
「ふぅー……あの、アルベルトさん」
 今、言ってしまえばいい。そうすれば、再び投稿サイトに投稿して、満足して終わ
る日々に戻るだけ。出した本が消えるわけではない、物書きとして過ごした日々が
消えるわけではない。
 何を迷うか。
 二年間、この二年にどれほどの世話をしてもらったか。たとえ、残りの八年間が
辛いことばかりだったにせよ、最初の二年間があったから耐えて来れた。
 それを思い出にして、この世界から抜け出してしまえば――
「おれ、物書きやめますよ。
 やめて、教師になります。日本語学校の教師に」
 トールの言葉にあるベルトの目が細められる。
 笑っているのではない、むしろ逆だと。彼は咄嗟に身を屈めた。
「本気か? トール」
 言葉とほぼ同時に棚の上に置いていた花瓶が壁とぶつかり粉々になる。ファン
の子から貰ったプレゼントだったというのに、なんてことを。頭に血が昇りそうだが、
こういう場合は落ち着いて話さなければもっと恐ろしいことになる。
 トールの知っている人間の中で二人、絶対に怒らせてはいけない人間がいる。
 その一人は父親、彼はとても恐ろしかった。
 もう一人がこの男、アルベルト。ただでさえガタイがいいのに、彼はなぜか格闘
技からダンスまで、体を動かすことが大好きで仕方ないと言わんばかりに、いつ
もいつもジム通いをしていた。
 ならばその道へ行けばいいのに、そう告げたトールの頭をワシャワシャと撫でな
がら笑っていた彼の姿を思い出し、身震いする。あの後、首が嫌な音を立てて、慌
てて病院に担ぎ込まれたのだ。
 そんな馬鹿力の持ち主を本気で怒らせてしまっては――
 まだ幼い彼の娘のトラウマになってしまう。
「本気ですよ。だってほら、僕もそろそろ結婚とかしたいですし。
 この収入じゃあ妻を養うことだって難しいでしょう? ですから」
「妻にも働かせればいいだろう」
「そんな! おれは、妻には家を守っていて欲しいんですよ。ですからー」
「だったらお前がもっといい作品を書け!」
「書けっ……て。書いてるじゃないですか。いつもいつもアルベルトさんは最後まで
読みませんけど」
「お前の話が血生臭いからだ! いつからお前はそんな話ばっか書くようになった!」
「前から少しずつ書いてたじゃないですか。アルベルトさんが気に入ってたローゼン
ナイツだって……そういえば、あれもベルセルクをモデルに」
「トール!」
「わ――ッ!!?」
 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。ただ、重力に逆らうような、絶叫マシン
に乗ったような、体が思い切り後ろへ行ったかと思えば、そのまま何かにぶつかった。
 少し遅れて背中が痛み出して、ジクジクと胸が痛み出した。
 信じられないものを見るような眼差しで天井を仰ぐと、その途中で太い腕を前に突
き出したまま硬直しているアルベルトの姿があった。
「……突き飛ばした、んですか……」
 口の中が鉄の味だ。
 ぶつけたときか、それとも突き飛ばされたときか。口の中を切ってしまったのだろう。
 しかし、そんなことよりもアルベルトの表情の変化が気になった。怒っているわけで
はない顔、むしろ驚いているようだ。トールに手を出したことを。
 その傍を娘がウロウロしている。
「あ、あぁ……大丈夫だ。ベル、ちょっと冷えたタオルを持ってきてくれないか?」
 アルベルトの言葉にベルはフローリングの床を滑るように走り出した。
 二人の間に沈黙が満ちる。
「……すまん……」
 短く、一言。
 謝罪の意味が分からなかった。手を出したことなのか、それとも仕事のことなのか。
分からない――というよりも考えたくなかっただけかもしれない。強かに打ちつけた
頭は痛むし、割れた花瓶がズボンを破いて、太股の部分が少し切れた。
 ズボンの補修だって楽な作業ではないのに。
 いっそアップリケでもつけてやろうと。
 そんなことを考えていると、アルベルトの大きな手がトールの頭に触れた。
「なんですか」
「俺は、お前の書く物語が好きだ。だけどな……同時に怖いんだよ。
 お前は……怖い。デビューして、出した初めての本でヒットを出すやつは珍しくな
い、けどお前はヒットどころじゃなかったろ。
 映画にもなった、ドラマにもなった、舞台にもなった。それどころじゃねぇ……社会
問題にまでなったよな」
「懐かしい話ですね……十年前ですよ。偶然、そういう時期だっただけです」
「偶然なものか。
 偶然で、同じような結婚話がわんさか出るか? 同じ構成の家族ばかりになるか?」
 アルベルトの言葉にトールは目を伏せる。
 デビューして最初の事件、それは常識で考えればありえない話だった。
 多少、人気のある作品がドラマだの映画だのになるのはよくあること。だが、普通
はそこまでだ。現実世界に影響を及ぼすとはいっても、すべて常識の範囲内だ。
 時折り、常識を越えた影響なんてものも存在するが、それは一握りのものであり、
原実的に考えればありえないこと。だからこそ、あの事件は忌まわしくも不可思議な
ものとして、今でもホラーの対象になっている。
「妻と、夫と、二人の娘と双子の男女、そしてペットには白い犬だったな」
 そうだ。
 白い犬がブームになって、とにかく売れたらしい。捨て犬でも、血統書付きでも、と
にかく白ければよかった。あの物語の中でも白い犬は、ただの白い犬で犬種なんて
ものはなかったのだから。
 大きくも小さくもない犬。それが売れた。
 そこまでなら良かった。
 悲劇はその後だった。
「同じ家族構成にするために、あの事件が起きた」
 生まれた子供が望みの性別でなかったり、双子でなかったりした場合は、生まれて
すぐに殺すのだと。そしてまた作るのだと、そんなことが起きた。
 髪の色の違いは染め粉で誤魔化せても、性別や双子は無理だった。
 数え切れないほどの赤子が殺され、警察が動こうにもどうしようもない状況で、結局
この事件は解決らしい解決はしないまま時間ばかりが過ぎてしまった。
 そして、それは不思議と物語が完結すると同時にそんな事件などなかったかのよう
に、ピタリと止まったのだ。その間に殺された赤子の数は知れず、それでも打ち切り
にならなかったのは、数々の脅迫のせいか、はたまた常識では考えられないほどの
人気のせいか。
 トールの周囲には何人ものボディーガードがおかれ、一度でも連載を休むことがあ
れば各方面へ脅迫がいくのだ。ある時は警察へ、ある時は彼の住むマンションの持
ち主へ、ある時はマスコミへ。
 そうして完結を迎えたあの物語。
 それ以来、長い話を書いていない。短い話をちょこんと載せることはできても、殆ど
仕事がないような状況だった。八年間、ずっと。
 最初の二年を忙しく過ごし、あとは何もなかった。
「二度と、あんなことは起こりませんよ」
 吐き捨てるように告げるとアルベルトは、首を左右に振った。
「起きる。お前の書いた世界は幻想だけに留まらず、こちら側をも侵食する。
 見えなくて、抗えない流れを作り出すんだ」
 何を言い出すのか。常識を考えて欲しい、そんなことが何度も起きるはずがない。
ならば、過去にも大ヒットした作品を真似た事件があったが、それが次の作品へと繋
がったことはない。
 その場限りの出来事なのだから。
 そんな神経を張り詰めさせる必要なんて――
「ベルが生まれる前も、お前は一つ書いたな」
 ぽつりと呟かれた言葉。
 ベルが生まれる前というと、短編だ。
 今、書いてた物語の序章とも言える部分。
 ベルセルクが誕生する話を――――
「まさか」
「その、まさかだ」
 アルベルトは氷水でタオルを冷やしているベルを見遣った。
 そして青い眼差しを伏せ、頭を抱え込む。
「ベルは笑わない、喋らない、そして……怒らない。
 生まれたその瞬間からだ。俺も妻も金髪なのに、あいつは銀髪で、いつもいつも何
を考えてるのか分からない……でも、行動は全部同じだ。
 お前の書いた幼少のベルセルクと、すべて」
 短編で書いたベルセルクは、小さい子供だった。
 生まれてから、ベルセルクと呼ばれるようになるまでの間を書いた作品だったのだ
から。幼少時代に野良犬を殺したことから始まる。
 血に目覚めた彼女は、やがて両親を手にかけ、追いかけてきた警官を殺した。
 目に付いたものすべてを殺し、そしてまた歩き出す。手には包丁を、やがてそれは
一振りの立派な剣へと鍛えなおされる。
 その剣を片手に彼女は彷徨う――そこまでが、あの話。
「偶然でしょう。現にあの子は八歳ですけれどアルベルトさんの奥さんは――」
「今日が八歳の誕生日だ! 妻から離すためにつれてきたが……さっき、ケータイに
母さんから電話が入っててな……出発する、少し前だぜ。
 ベルに帽子をかぶらせようとしたらしくてよ。手に帽子を持ったまま、玄関で倒れて
たらしい。
 俺が車を出すために外に出てる間だったんだよ」
「――、ちょっと……どういう……」
「死んだんだよ、殺されたんだよ!」
「でも、ベルセルクは同じ日に両親を共に殺してます。あなたはまだ生きてる!」
「あぁ。けどな!!」
 目を見張ったアルベルトの口から大量の赤が噴出された。霧状のそれは鈍い痛み
に身動きが取れなかったトールへと降り注ぎ、その視線を釘付けにさせる。
 口から血の沫が出ている。
 腹の少し上を銀色の――包丁だ、昨日研いで置いた包丁が、突き出していた。
「アル……ベルト、さん?」
 濁った声で一言だけ告げて、
「現実になる……お前の物語……だから、出せなかった……すまん……」
 もっと幸福な物語を書いていたら?
 現在が違うだけだ。今から変えることはできない。
 アルベルトの大きな体が倒れ、時折り痙攣しているのが見える。同じようにそれを見
下ろしているのはベル。右手に包丁を、左手にタオルを。
 何を考えているのか分からない顔には返り血が付着し、白い肌を一層映えさせている。
「ベル、タオルをくれないか?
 あと……」
 トールは数刻、言葉を探した。
 もしも、アルベルトの言葉が本当ならば。トールの物語が現実になるのだとすれば、
投稿サイトに投稿していた時代と何が違うのだろう。
 目にした人間の数?
 ――あぁ、それだ。
 動かなくなったアルベルトを見遣り、息を吐く。
「違いましたよ、アルベルトさん。おれの物語が現実化した理由は、おれだけのせい
じゃない。
 おれは、ただ案内しただけです。どうしたいのか、道を示しただけですよ」
 人々の心を惹きつけた作品。
 こうなりたい、こうしたい、こうであれば――を願う人々。
 あの物語にはそれがあった。そして現実にするために血が流れた。
 あの短編だってそうだろう。アルベルトの心に、それがあった。ベルセルクに焦が
れた気持ちが、現実には起こりえない非日常的な出来事に憧れる心が。
 その心が、ベルを生んだ。
 常識から考えてありえない話だと理解はしている。人間の意志が超常現象を起こす
――ここまで行くと奇跡ではなくSFだ。それでも、
「これを作品にしたら面白そうですね。
 もっとも……ベルが本当にベルセルクなら、おれはここで殺されますけど。
 ベル」
 手渡されたタオルで胸を冷やす。
 包丁を握ったままのベルは何を喋るわけでもなく、ただトールを眺めていた。
「そこにある原稿用紙を読んでごらん。
 その間におれは編集さんに電話するから」
 ベルの手がテーブルの上に置かれている封筒へと伸びる。そこに書かれている文字
を追い、呼んでいる姿は何かを求めているようにも思え、彼は一つの仮説をたてた。
 仮にもしもベルがあの短編を元に人格が構成され、その存在そのものがベルセルク
であるとするならば、仮想世界が現実に流れてきたのならば。
 足りない情報を補うために読むだろう。
 創造主の作品を。
 そして、それを現実にすべく動く。
 数え切れないほどの赤子が殺されたときのように。
 きっと。ベルと同じような子供がたくさんいる。アルベルトのようにトールの物語に惹か
れた人間の元に、ベルセルクが生まれている。
 ベルセルクを生み出したのはトール。
 現実に連れてきたのは読者。
 しかし創造主が手を打たなければ続きも、終わりもない。
 赤子殺しが物語の完結と同時になくなったように。
 ベルセルクもまた――――然り。
「あ、もしもし?
 はい、おれです。トールです。
 今から取りに来て欲しい原稿がありまして、えぇ。そのままマスコミへとお願いします。
 今日の夕方までにはテレビで朗読を――はい、そうです。お願いしますよ……」
 電話を切る。
 それとほぼ同時だった。
 静かな足音が聞こえ、窓が開け放たれる。
 昼の太陽は無遠慮なまでに照っていたけれど、これくらいに暖かい方が旅立ちには
丁度良い。
「ベル、読めた?」
 青い眼差しがチラリとこちらを向く。
「それじゃ……よろしく」
 コクリと頷いて、包丁を振り上げた。



――見えなくて抗えない流れ、か。透明な流れ……で透流なおれへの嫌味かよ。
 アルベルトさんは、よけいなニホンゴばっか覚えて、まったく……厄介払いされてやり
ますから、恨まないでくださいね。あなた、おれの最初のファンなんですから――




 女は心がないといわれていた。
 女は心が欲しかった。

 だがヒトの胸にに詰まっているのは臓物ばかり。
 心なんてどこにも詰まっていない。
 疲労を知らぬ女は血を浴び、踊り続けた。
 けれどある日気付くのだ。

 この世界には心がないのだと。

 心のない世界になんていても仕方ない。
 ここにいても手に入らない。
 紛い物の心では意味がない。

 女は、心に一番近い場所にいた男を切り裂いた。
 男は自分を案内人だといっていた。
 心へと案内してくれるのだろうと、切り裂いた。

 旅立つ寸前、男は手紙をくれた。
 女はそれを読み、そして歩き出す。

 捨てられた手紙には。


 狂心のベルセルクに花束をあげる。
 一緒に逝こう、心の世界へ。

 

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