声が聞こえた。
「……は? ナニ言ってんのさ?」
渇いた声はグラスの割れる音に掻き消され、言葉と同時に跳んだ拳は柔
らかい頬へと深く食い込んだ。肉の感触と、その奥の歯と歯茎の感触に背
筋がゾクゾクする。
殴りたいわけではなかった腕は目の前の人物を殴ったことでジクジクと恍
惚の笑みを漏らしているというのに、その持ち主であるはずの頭は、震えた
ままの心は聞こえた声を反芻し、飽きるほどに同じ言葉を繰り返す。
「もう一度言ってみてよ」
さやさやと一本だけ垂らした黒髪の房が揺れる。
伸ばされた手はグラスの破片で切ったか赤い血がじわりと滲み出、目の前
で頬を抑えている男のまるで太陽のような色をした金色の髪を鷲掴みにしよ
うと開けば、先ほどの衝撃で小さく痙攣はしたものの、何かをつかめるほどに
は開かなかった。
「……もう一度」
「何度でも言う」
低く抑えられた声。
この声が――今にも泣き出しそうな表情を浮かべた十代前半の少女の肩が
震えた。
「もう……終わりにしよう」
「……ッ!」
音もなく立ち上がる。
テーブルを蹴り上げ、降り注ぐ冷水を浴びたその姿を見下ろし、酷く冷たい眼
差しで射る。周囲から聞こえる悲鳴などまったく耳に入らないのだろう、湧き上
がる感情を噛み殺すかのような息苦しい表情を仰ぐ、よく晴れた空のような眼差し。
その向こうには夜の闇をそのまま移し変えたかのような漆黒の双眸があった。
小さく震え、揺れる。潤んでいるように見えるのは気のせいではないだろう。
肩を上下させ、唇を強く噛む。その部分が色を変えようと、血が滲もうと、彼女は
無言のまま唇を噛み締めていた。
まるで、肉を食い千切ろうとしているかのように。
「お、お客様……」
騒ぎに駆けつけた年若い店員。あからさま苛立っている少女が恐ろしいのだろう、
逃げ腰のまま、銀色のトレイで顔を隠しながら近づいてきた。
その姿に男は思わず声を張り上げた。
「近づくな! 危ない」
「へっ、ひっ、あぁぁぁぁ!!?」
風を切る音。
グラスの砕ける音。
続いて聞こえるは悲鳴。
ぽたぽたと床を濡らす雫に誰かが絶叫を上げた、顔を抑えて蹲ったまま動かなく
なった店員の姿など見えないかのように少女は、赤く腫れ上がった手を男へと伸ばす。
猫を彷彿させる愛らしい顔に浮かんでいるのは明るい笑みでも、スネた顔でもない。
怒りと、悲しみと、淋しさのすべてを混ぜ合わせた表情のない微笑だった。
「キミなんかいなくても、僕は一人で平気だよ。
消えたいなら消えたいで消えたって、僕はなんとも思わない。僕を裏切るならさっ
さと消えてよ、消えないと怒るよ。
その顔だって、潰してやるから」
思っていたよりも平静な声だった。
それが感情が限界を超えたうえでの平静なのか、それとも本当になんとも思ってい
ないのか。
彼にとって答えは明白だった。
長いこと付き合っているのだ。知らないはずがない――
「俺といることはお前のためにならない。
お前はやるべきことがあるだろう? 俺とお前じゃあ住む世界が違う」
「何が違う?
僕はママのお腹から生まれたよ、ミルクで育って、学校行って、友達作って、夏休みの
宿題やったよ。新学期から遅刻しそうになった友達を迎えに行ったよ。
朝礼で早速居眠りして怒られたよ。キミと、どう違う?」
少女の顔に笑みが走る。
どこか無邪気で、どこか狂気じみた笑み。
その理由を誰が知るというか。誰かが知っていて、誰かが知らない。
この場所にいる人間のすべては理解しているだろう。彼女の狂気の理由も、無邪気
の意味も。
振り上げられた拳が男の頬を掠る。力の加減が上手くできていないのか、その場で
よろけた少女は、クスクスと笑みを漏らしながら今にも転びそうな足取りで歩き出す。
「ヘンなこと言ってないでさ……ねぇ、ほらぁ?
遊ぼうよ。今日はいい日だよぉ? よく晴れて、暖かい日だよ?
そうだ、僕のウチにおいでよ。あぁーだめだよねぇ、キミは裏切者だから……僕のウ
チに入れてあげない。犬小屋で遊べばいいよ、ね、ね、ね。キシシシシシ……」
彼女独特の笑い声。
何かを誤魔化すときに上げる笑い声。
長い時間をここで過ごした彼女のウソ。
分厚い窓ガラスの向こう。
そこを歩む人々を見遣った男は、腫れ上がった頬を抑えていた手を伸ばした。
小さな小さな手。少し体温が低くて、皮膚がちょっと荒れていて、傷跡が痛々しい手。
この手はすべてを壊すために。
「お前が本当にいるべきなのは――」
この手は、すべてを創造するために。
「煩い、煩い、煩い!
キミに言葉を言う権利はない、何もない! お前は僕の操り人形でいればいいんだ
よっ!!!
お前が自我をもつ必要なんてどこにもない! 何も言うな、邪魔するな!」
「必要がなくても俺は言う。
それがお前のためだ――きっと」
空のような青い眼差し。
太陽のような金色の髪。
すべての黒を抱く優しい白。
太い腕に抱かれ、少女が瞠目する。何かを叫ぼうと口を開き、そのまま言葉を告げ
ずに口を閉じる。アゴを伝うのは滲み出た赤い血液。
まるでそれは涙のように零れ落ち、男の白い腕へと赤い模様を残す。
「僕のためって……なんだよ。僕は……!!」
今にも泣き出しそうなかすれ声を抱き締めるように口付ける。
涙が滲む目へと口付け、優しく抱き締める。
欲しがっていたものはこの腕だと。
欲しがっていたのは本物の腕だと。
「お前がいるべきなのは……ここじゃない」
偽りのうえで創造された世界。
夢の世界。
死も絶望も別れもない。
永遠の楽園。
「……氷って冷たいなぁ……」
すべてが凍てついた大地。氷の墓場と呼ばれるその場所に埋もれているのは、生き
たまま凍らされた人々。そこには彼女の家族も、友人たちも多くが眠っていた。
運良く助かった奇跡の少女――そう呼ばれても嬉しいと思わない。だってそれを喜ぶ
人はもういない、抱き締めてくれる腕も、声も、目もない。
すべてが凍てついた大地に還り、その骸を永遠に晒し続ける。
その中でも一番外に近い場所で氷付けになっている男を見遣る。その両腕は少女へ
と伸ばされ、まるで抱擁を求めているかのようにすら思えた。
「……眠いよ、寒いし、ねえ……あっためてよ。
キミなんていなくても平気だけど、僕は寒いと死んじゃうんだよ。
キミがあっためてくれないとだめなんだよ。キミなんていなくてもいいけど、寒いよ」
氷に頬を寄せ、動かない想い人へと語りかける。
――答えは返ってこないということを知っていながら。
「ここが僕のいる場所なら……キミもいなくちゃ。
ね、ほら……出ておいでよ。一緒に、いようよ」
氷に爪を立てて、あの日のできごとを思い出す。
この近辺を襲った巨大な津波と、その直後の寒波。建物を飲み込み、破壊し、溺れる
人々は一気に凍りついた。それだけでも不可思議な現象だというのに、この氷はその一
件以来どのような手段をもってしても溶けない氷へと成り果てた。
原因のわからない事故。
遠出していた少女だけが助かった凄まじい事件。
重い荷物を引き摺って戻ってきた彼女の目に映ったのは、凍てついた家族たち。親戚
をたらいまわしにされ、心をすり減らしながら生きていた彼女が望んだのは、平穏な日々。
こんな氷に遮られない逢瀬の日々。
そうして生まれた夢の日々。
けれど彼は理解してしまった。それが無意味なものであると。
彼女が知りながらも目をそらしていた日々を自覚させてしまった。
それが酷い苦痛を伴うと知っていても、止めることができなかった。
「……ギンちゃーん……一緒に、遊ぼうよ……僕を、一人に……しないでよぉ……」
嗚咽と泣き声すらも、明日への糧だと告げていた彼女の笑顔を偽りにはしたくなかったから。
彼の知らない彼が知りうる笑みを失いたくなかったから――
氷の墓標に声が聞こえる。
慟哭が聞こえる秋の空、氷を叩くのは小さな手。
いつか出会えることを信じて削ればいいのだろうか。
どうすればキミに逢えるのだろう。
大粒の涙が氷を濡らす。
この涙が氷を溶かしてくれればいいのに。
最早音を失った世界に泣き声だけが響き渡っていた。
氷の墓標に骸が一つ、凍ることなく揺れている。