「私だって最初から作られたわけじゃないわ。
ちゃんとパパもいたし、ママもいたの。ちょっと運が悪かっただけよ。
ママがパパ以外の男の人に恋してる間に私は――悪いコウノトリさ
んに運ばれちゃったの」
皮膚を裂く獣の吐息。
「みんなそれぞれの個性もあって、うん。ああー学校に通ってたらきっ
とこんな感じよ。
友達とは遊べるのよ。喧嘩もするけど。
昨日も喧嘩して、五人くらいいなくなっちゃった。
そんなに怖いことじゃないのよ? だって、入れ物はなくなっても中身
は誰かといるもの」
大地と地獄の間に生まれた獣。
「あのね。
私たちはこれでも幸せなのよ? 勘違いをしないでね。
生きてれば、どこかで死ぬんだから。変な同情しないでよ、そんなこと
されたら……」
その姿は、最も大切な者を模していて。
「誰かに殺されるのと
自分で死ぬの
どっちがいい?」
最悪の選択肢を――笑顔で選ばせるのだろう。
ヒタリ、ヒタリ。
聞こえる足音に背筋が凍る。
息を殺して、気配を殺して、ここに誰もいないよと言っているのに、足
音はゆっくりと確実にこちらへと近づいてくる。
足音の数は一人。
そうだろう――入れ物は一つで十分なのだから。
恐ろしいのは中身だと、男は思う。
三十に入って間もない程度の年か、まばらに延びた髭はファッション
ではなく、単純に手入れをする時間がないというだけであろう。纏って
いる深い緑色の衣服も薄汚れ、場所によっては赤黒いシミができていた。
かくれんぼが鬼ごっこに変わって、すでに三日が経つ。
このままでは臭いで見つかるのも遠くないと思え――男は、小さな穴
を覗いている双眸を見開いた。
ぺたり……ぺたり……ぺたり。
足音が変わった。
人数が増えたわけではない。
男は小さな視界から入る情報を必死で噛み砕いた。
細い足が何かを探すように――否、実際探しているのだ。鬼ごっこの
鬼の足が、冷たい床の上を裸足で歩いている。身に纏っているのは、
白いワンピースであろうか。
特に武装をしているようには見えない。
だが――
男はズキリと痛む首の傷を抑えようと手を動かしかけた――
刹那。
「…………!」
オレンジの瞳が穴を覗いていた。
思わず悲鳴をあげそうになる。しかし、ここで悲鳴をあげればその間に
殺されてしまうだろう――そんなヘマをするわけにはいかない。
男は、仕事先から配布された小ぶりのナイフを握り締めた。
「…………」
目がいいのか悪いのか。
穴からこちらを凝視しているオレンジの瞳は、中に誰かがいるということ
気付かないらしいく、ただ闇を眺めて遊んでいた。
「うふふ……あは」
笑い声が漏れる。
その声と、先ほど見えた足で判断するならば、外で覗いているのは少女
の姿をしているのだろう。だからといって中身までがそうだとは限らない。
ここに潜入してからずっと、そういうったバケモノたちに追われていたの
だから。
男は、冷静になってきた頭で自分がするべき動きをシミュレートする。
呼吸を整え、頭を冷やし、確実に動けるように負傷していた足の具合を
確認する。幸い、出血は酷かったが動けないわけでも、支障が出るほど
でもないらしい。
(eine……zwei……drei)
頭の中で数字を数え、一番最適なときを待つ。
これに失敗すれば、外にいるバケモノに食い殺されることだろう。そうなっ
た仲間を何人見たことか。そうなってしまっては、家に残してきたものも、約
束も、何一つとして守れないままに人生が終わってしまうことになる。
それだけは避けたかった。
男は――
(sieben……acht……neun……!!)
穴から闇を覗くオレンジの瞳へと、握り締めたナイフを突き刺した。
「zehn!!」
手に伝わる眼球を貫いた感触に吐き気を感じつつも、男は大きく叫んで外
へと飛び出した。突き飛ばされた、白いワンピースと金色の髪が特徴的な少
女は、右目を抑えてうめいている――その姿に、男は絶句した。
「子供……!?」
もしも、この幼さの残る少女がバケモノだとすれば。
普通に街を歩いてても、誰に気付かないだろう――瞬時にそれを考えた男
は、足の震えを隠せなかった。たとえ、ここで自分が頑張ったとしても、すべて
が手遅れなのではないかと。
激痛に泣き叫ぶ少女と同じ型のバケモノは、外へ出されているのではないかと――
「ウ、ア、ア、ア、ア!!!」
ジタバタと床を叩く足。その細い足首のどこにそんな力があるというのか、叩
きつけられた場所から床にヒビが入っていく。
目を抑える指の隙間から漏れ出すのは、真っ赤な――人間とまったく変わら
ない色の血。
男は眩暈を覚えた。
だが――ここにたどり着くまでの犠牲を、仲間の顔を脳裏に描いて、顔を上げた。
「……Tragen Sie keinen Groll」
口に出すのは母国語。
国の違うここでは理解されない言語だからこそ言える本音というものもある――
これは、一番記憶に新しい言葉。そして、最も哀しい言葉だと男は思っていた。
血の滴るナイフを振り上げて、成長途中の胸を貫いて終わらせる。
数多もの命を喰らうバケモノと、それに続く死の連鎖を。
それが記憶にずっと残る人との約束であり――同時に理由であると自分に言い
聞かせて、薄い胸を貫く刃を、さらに奥へと刺し入れる。
ゴリゴリとした感触が手の平に伝わる。痛みと、恐怖に混乱する少女の左目から
涙が零れ落ちる。
「ア、ア、ア……!!」
震える手が伸ばされて。
「……どコのコトバ? それハ……教えテ?」
たどたどしい――言葉。覚えたての英語のようだと思った。
オレンジの瞳が笑う。
――見ていられなかった。
ただの子供にしか見えない。バケモノだと知っていても、子供にしか見えないのだ。
「――ッ!!!」
叫び声を上げそうになるのは必死で堪えて、胸の奥へとナイフを突き刺す。心臓を
貫けるはずがない――この少女には心臓が存在しないのだから。
ただ代わりに動力炉が積まれていると聞いた。それを破壊すれば動かないとも――
男は祈った。赤い血が溢れて、白いワンピースが赤く染まっていく中。必死で祈りつ
づけた。
早く死んでくれますように。
早くこの目を閉じてくれますように。
もう何も喋りませんように。
その祈りは誰に届いたのか。
オレンジの色の瞳から光が消える。口の端から血を垂らして、震えていた手が静か
になる。生命反応と呼んでいいのかすら分からない全ての反応が、消えて沈黙する。
「…………」
口の中で小さく呟いた言葉がなんであったか。彼自身も分からないだろう――だが、
その腕は何かを悔やむかのように少女を抱き上げ、そのまま走り出していた。
笑えるほどに涙が止まらない。
こんなことをするためにここに入ったのだろうか。
もっと、もっと、違う理由が。
腕の中の少女はただ冷たい肉の塊で。
バケモノには到底見えなかった――思えなかった。
「トイフェル? ずいぶんと暗いな」
「ティーア……」
カフェでコーヒーを飲んでいた男――トイフェルの前に、汚れた白衣のまま水を飲ん
でいる青年が立っていた。白衣の汚れは、決して掃除をしていたなんてものではない
のだろう。
赤黒いシミが広がって、まるで今そこで誰かを殺してきたかのようだった。
「お前が持ち帰ってくれたサンプルのおかげで、こっちはいい感じなのに、お前が暗く
なってたらどうだよ」
サンプル――といわれ、トイフェルは顔を顰める。
三日ほど前に帰還した彼は、腕に抱いていた少女の亡骸を目の前の青年――ティー
アへと引き渡した。これは命じられたことではなかったが、少女の体のスミからスミまで、
遺伝子すらも暴いてバケモノだということを自分に言い聞かせたかったのかもしれない。
胸に残る罪悪感を消し去るために。
「あの子供型、すごいな」
「何が、分かったんだ」
水を飲み干したティーアは、白衣のポケットから数枚の写真を取り出した。
少女の腹を切り開いて、撮影したものなのだろう。真っ赤な写真の中にいくつかの臓器
らしき物体と、さらに別のものが混ざっている。
「これは……?」
「オオカミさ! あのバケモノ、ほかにもたくさんの動物を取り込んでたんだ!
奴さんたちも本気だろうなー! こーんなオカルトなことやって、しかもホントに国一つ
揺るがしてるわけだしね」
知らないことを知った喜びか、ティーアは興奮して両手を大きく振り上げた。青い双眸
は、キラキラと輝いていて、本当に楽しんでいるのだとすら思えた。
人間の娘にしか見えない少女の腹を切り裂いて、開いて、中身を引きずり出す。
動力炉と呼んでいた部分は、完全な球体をしていて、とても心臓には見えなかったけ
れど、仕組みそのものは心臓と大差ないと語るティーアに視線を向けず、コーヒーだけ
を見据える。
「トイフェル? なーんかノリ悪いぞ」
「……当たり前だろう。どこから見ても人間の姿して――」
「どこか人間だよ。人間が体の中で動物飼うか? 寄生虫ならまだしも!」
ティーアのどこか子供っぽい顔が近づく。低く抑えられた声は、彼がこの世界に入って
長いのだということを再確認させられる――自分よりも、よっぽど長い間こちら側にいる
男の言葉は、酷く冷たいものに感じられた。
「こいつらは、先輩を殺したんだ。情けをかけて、今度はお前の家族も殺させる気か?」
「…………分かってる。分かってる……が」
トイフェルは頭を抱えた。
確かに、五年前に先輩――と呼んで慕っていた女性を、バケモノに殺された。それだ
けではなく、亡骸どころか髪の毛の一本すらも戻ってこなかったのだ。
死肉のすべてを喰らわれ、そのままバケモノの一部になってしまった女性の姿と、声
を思い出すだけでやりきれない感情が胸を叩くだろう。
その事件がきっかけで、トイフェルは前線に出るようになったのだ。諜報活動をメイン
に行っていたというのに、自らの手で始末をつけるのだというように――仇を討つのだ
というように。
悩んでいるトイフェルの肩をティーアが叩く。
「……先輩の娘が――あれくらいの年だったか。混同するのは分かるが……やめとけ」
繰り返すように、ティーアは告げる。
肉の薄い唇が震えて。鋭い眼光はまっすぐにトイフェルを見据えている。
「あれは、バケモノだ」
頭が痛くなる。
唯一の家族と同じ年頃の少女を殺して――解剖して――
「いいか――気をつけろよ」
ティーアの言葉が脳裏で廻る間、何を考えていたのか覚えていない。ただ告げられた
言葉が遠くの出来事にも思えて、妙に現実感がなかった。
熱いコーヒーはいつの間にか冷え切って、昼食を取っていた同僚たちも姿を消してい
た。夕焼けが向かいのビルを照らして、街並みそのものが真っ赤に染まっている。
静かなこの時間帯――みんなは帰ってしまったのだろうか。
先ほどから誰も通らない。
「……俺も、帰るか……」
「トイフェルー!」
甲高い声と、小さな足音が聞こえる。
まさかと重いながらも目を向けてみれば、仕事に出る前に購入してやったワンピース
をはためかせて走っている、小さな少女の姿が目に入った。
「ネリー! なんでここに」
「トイフェルが遅いからお迎えにきたんだよ」
無邪気に笑う。
その笑顔は、ネリー――コルネリアの母親と、よく似ていると思った。五年前から一緒
に暮らしている血の繋がらない少女は父親を早くに亡くし、母と二人で生きてきたが、そ
の母親も五年前に亡くしてしまった。
空っぽの墓前で泣いているコルネリアを引き取って、家に住ませて、簡単なものしか作
れないが食事を与えて。給料が出たら二人で外食や、新しい服を買いに行く。
時間と金さえあれば、テーマパークへ連れて行った。
そうしたトイフェルの心遣いが届いたのか、コルネリアはとてもいい子に育ってくれた。
「そうか。ありがとうな」
彼女の母親――トイフェルが先輩と慕っていた女性と同じ金色の髪。青い瞳。
柔らかい髪を撫でて笑うと、コルネリアもつられたようにニッコリと微笑む。差し伸べられ
た手はまだまだ小さくて、トイフェルが握ったら潰れてしまいそうにも見えた。
「帰ろう。トイフェル」
「そうだな。ネリー」
立ち上がったトイフェルは、コルネリアの手を軽く握って歩き出す。
すっかり人気のなくなったビルの中は気味が悪くて仕方がない。早く帰って、絵本の一つ
でも読んでやりたい――そんなことを考えていたトイフェルの視界に、見慣れた白衣の青
年が映り込む。
「ネリーか。お迎え熱心だな」
「ティーアだ! うん。ネリーは、トイフェルのお迎えちゃんとするんだ」
「おいおい……」
困ったように頬を掻くトイフェル。その顔を見上げる笑顔は、とても両親を亡くした娘に
は見えない――どこにでもいる明るい少女だった。
その姿に先ほどまでの不安が掻き消されていくような気がして、トイフェルは安堵の溜
め息をついた。
「ネリーはいい子だな。そうだ、お兄ちゃんがキャンディーあげようか」
「ほんと!?」
キラキラと青い目を輝かせて喜ぶコルネリア。こういったところは、子供らしい子供に見
えて、見ているだけで安心してしまう。
今日も平和だと思えるのかもしれない。
「っと……部屋に忘れてきたみたいだな。とってくるけど一緒にいくか?」
「うん!! たくさん選ばせて!」
パッ、と手を離して駆け出す。
――キャンディーに負けたのだと考えると物悲しいが、選び終えればまっすぐに戻って
くるのだろう。ティーアのことだからコルネリアの好きなキャンディーを用意して、虫歯に
注意しろよ。なんてことを言いながら、歯磨き粉までプレゼントするに違いない。
いつもどおりの微笑ましい光景――
トイフェルは、ようやく一息ついた気がした。
しばらくは遠出の仕事を受けずにこの街にいようと。ティーアからの報告と、上司から
の命令が下るまでは、あの悪夢のような日々を乗り越えるために日常に戻ろうと。
静かに決めた。
明日、晴れたらコルネリアをつれて遊びに出かけよう――そんなことを思ったとほぼ
同時だった。
「……ティーアからメールが来てたのか」
ずっと考え込んでいたせいで気付かなかった携帯電話の着信音。
繰り返し点滅する赤を消して、二つ折りの携帯電話を開く。コルネリアを待ち受け画
像に設定した画面には、クッキリとした黒い文字でメール一通と綴られていた。丸いボ
タンを親指で押せば、短い電子音と共に画面が切り替わり、届いていたメールが開か
れる。
「……は……?」
感情を感じない文字の羅列と、画像。
ぶれてはいるが――見えないほどではない。トイフェルは目を凝らして、添付された
画像を見る。
そこに写っているのは、赤黒い肉とそれに襲われている白衣の人間の姿――?
「…………」
メールの本文へと目を移す。
顔文字や絵文字の一切ない簡素なメールは、彼らしくないもの。よほど慌てていた
のだろうか、一言しかかかれていない。
「……どういう、ティーアは……今、確かに」
心臓の音が頭に響く。
もしも、このメールの内容が真実だとすれば、つい先ほどまで会話をしていたティー
アという男は、誰だというのだ。誰かが変装していたとするならば、コルネリアが懐くは
ずもない――それ以前にトイフェル自身が異変に気付くであろう。そういった訓練は、
ここに就職したときからうけているのだから。
「……」
嫌な予感が胸を過ぎる。
少女の薄い胸を貫いた感触が、手の中に蘇る。
「トイフェルー?」
棒付きのキャンディを口の中に入れまま首を傾げる。ストロベリー味なのだろう、イチ
ゴの甘い香りが嫌な予感を追い払ってくれる――
「どうしたトイフェル。ずいぶんと顔色が悪いじゃないか」
見慣れた薄汚い白衣と見慣れた顔は、夕陽の色に染まって紅い――けれど、浮かべ
られている表情はいつもと同じで、純粋に笑っているのか嘲笑っているのか判断ができ
ない笑みを浮かべていた。
それを見上げて満面の笑みを浮かべるコルネリア。
二人の顔を交互に見やって、トイフェルは先ほどのメールをティーアへと見せた。
「こういう悪戯はやめとけ」
「――あ、あぁ。そうだね、次から気をつけるよ」
少しだけ驚いたような顔。
トイフェルは携帯電話を閉じると、そのままポケットの中へと突っ込んだ。
「帰ろうか、ネリー」
「うん!!」
手を繋いで、二人で歩く。
長く伸びた影が上下に揺れて、静かなビルから二人の姿が出てくる。
「あ!」
コルネリアが指差した先――カフェの窓からこちらを見下ろしているティーアがいた。
「ばいばーい!」
元気に手を振るも、ティーアはそれには答えずに背を向けてしまう。
見えなかったのだろうかとも思った。研究室なこもりっぱなしな彼の最近の悩みは、視
力の低下が激しいということも聞いていたわけだから。トイフェルは、不思議にそうにし
ているコルネリアの手を軽く引っ張った。
「気付かなかったのかな?」
「見えなかったんだろうな。目が悪いから」
「そっかぁ」
残念そうに呟く姿は、少しだけ淋しそうにも見えた。
明日出勤したら嫌味の一つでも言ってやろう――トイフェルは、微笑の中でそう思った。
真っ赤な夕日に照らされて。
真っ赤な街を歩いて笑う。
「Der Teufel ist nicht tot」
脳裏に過ぎるメールの本文。
赤黒い血肉に襲われた研究員。
トイフェルは誰にも聞こえないようにとても小さな声で呟くのだ。
「悪魔は……死んでいない……か」
Home