人間、一つや二つなにかを忘れたって死にゃしない。

 けど――忘れたらいけないことがあるってのも事実なんだよな。

 年老いた父と最後に酌み交わした酒の味は覚えていないけれど、

その言葉だけはずっと耳の奥に残っている。忘れたらいけないこと。

それは厳格な父が最期の最期に見せた表情がすべてを語っている

のだろう。

 もう、明日の朝陽も拝むことのできない体で、勘当同然に出て行っ

た青年にすがり付いて叫んだのだ。

 

「アイツが、アイツが来るんだぁ……!

 おおお、おお、俺を、俺に復讐しに……かざぐるまがあぁぁぁぁぁ!!」

 

 年老いて弱くなった父を、彼はどんな顔で見ていたのかも覚えてい

ない。

 一つや二つ忘れたって、死ぬわけじゃない。

 忘れたらいけないことでもない。

 覚えていたくない。

 父の叫びも、胸の奥の痛みも。

 

 夏の陽射しが暑い昼下がり。外回りと称して会社を抜けてきたものの、

どこかへいく当てもなければ涼む金もない。しょうがないので小さな公園

の木陰で休むことにしたのはいいが――

 夏休みだというのに子供の姿が見えない。彼が小さいときはアレだけ

たくさんの子供が遊んでいたというのに。

「少子化ってこえーなー」

 ボヤくように呟くと同時に、彼の視界に一人の少年の姿が映りこんだ。

 パサ――軽い音をたててタバコの箱が乾いた砂の上へと落ちる。

「僕はここで生まれました。

 僕はここで育ちました」

 彼へと背を向けた少年が告げる。

 着慣れないスーツを身に纏った年若い青年は、不思議な少年を眺め

たまま息を呑んだ。

 半そでのティーシャツから覗く腕。どこかで見たことのある傷跡をつけ

ている、細い腕。

 程よく陽に焼け、所々に小さな傷と焼けどを負っている幼い腕。

 青年は手にしていた缶コーヒーを取り落とした。

「僕はここで生まれました」

 少年の声が頭に響く気がしてしまう。本当は耳を通り過ぎているだけ

だというのに。

 言葉の一つ一つが酷く重い。

 まるであの日のようだと青年は思う。

 忘れたいこと。

 忘れてはいけないこと、繰り返してはいけないこと。

「僕はここで育ちました」

 少しだけ俯く少年。

 首筋には痛々しいまでの蚯蚓腫れが何本も走っている。あの傷はきっ

と、縄跳びで作った傷だろう――無論、遊んでいて出来た傷などではない。

 腕の火傷だって、火遊びをした結果などではない。

 青年は無意識の内にネクタイを緩めていた。息苦しい、頭の奥でジワ

ジワと痛みが滲んでくる。

「僕はここで生まれました。僕はここで育ちました。僕はここで……ここで」

 少年の足が動く。

 大きなアザは蹴られた跡に違いない。

 幼少の頃に感じた痛みをまだ覚えている。

 彼は息を呑み、激しい胸の痛みに顔を顰めながらゆっくりと立ち上がっ

た。頭は理解している、目の前にいる少年の正体を。もしかすると真夏の

暑さの生んだ幻覚かもしれないけれど、きっと聞こえる声は幻ではない。

 そよ風に回る風車が脳裏を過ぎった。

 とても懐かしい記憶。

 風車が回るのは決まって真夏。

 家族が一人減った日。

 小さく添えられた真っ赤な風車、真っ赤な手形のついた風車。

「……に、にい……さん?」

 伺うように呟く。

 長いこと口にしていなかった言葉。

 最後に口にしたのはいつだったろう。

 まだ小学校に上がったばかりだったか。二つ年上の兄は、いつでもこの

公園にいた気がする。

 帰ろうと言っても帰れないと告げて、夜遅くに近所の人に連れられて帰っ

てくる。

 そのたびに父は言うのだ。

「すいません、言っても帰ってこなくて。お世話かけました。ほら、春彦もお

礼言いなさい」

 怯えた様子で頭を下げて、小さな声でお礼を言う。

 近所の人が小さく手を振って家から出て行ってしまうと、その声は完全に

呑み込まれて聞こえなくなる。変わりに聞こえるのは鈍い音、壁が軋む音、

肉が焼ける音。

 壁に染み付いた赤いシミを、生前の母は何度も取ろうとしていた。

 けれどそれは取れる日が訪れないままに母は亡くなった。

 まるで、動かなくなった兄を追いかけるように。

「兄さん……なのか?」

 脳裏に過ぎる過去の映像。

 煙草の火を押し付けられ、悲鳴をあげられないように猿轡を噛まされる。

 涙が溢れると同時に飛び散って、小さな鼻が左側へと倒れる。血が滴り落

ちると同時に母の腕が呆然とその様子を眺めている彼のことを抱き締める。

「見ちゃダメ。見ちゃダメなの……冬彦」

 震えた声で名前を呼ぶ母もまた、その顔に青アザをいくつも作って。

 壁に叩きつけられる兄の体が動かなくなるのを、泣きそうな顔で見ていた。

 見ていることしかできなかった。

 口汚く罵る父の言葉と、母の泣き声と、骨が折れる鈍い音が混ざり合って。

 風車がカラカラと回る。

 握り締めて、長い髪の奥に隠れた二つの眼が父を仰いだ。

 声のでない兄が告げた言葉を覚えてる?

「冬彦、僕はここで生まれました。

 僕はここで育ちました。

 僕はここで殴られました。

 僕はここで蹴られました。

 僕はここで骨を折られました。

 僕はここで煙草を押し付けられました。

 僕はここで壁に叩きつけられました。

 僕はここで髪の毛をむしられました。

 僕はここで…………」

 目の前の少年の言葉と、記憶の中で繰り返される兄の口の動きが重なる。

 完全に動かなくなる前に兄は言った。

 とても悲しそうな顔で言った。

 

「僕はここで死にました。

 僕はここで大好きなパパに殺されました。

 僕はここで死にました」

 

 

 

 ふと、目を開けると周囲は紅色に染まっていた。

 カラカラと回る風車を握り締めたまま倒れていたらしい青年の周囲に、子供

たちが集まっている。

 ぐるりと子供たちを見回すも、兄と似た顔の子供はいない。そもそもいるは

ずもない。

「うー……」

 頭をわしわしと掻く。

 暑さで頭がやられていたのだろうか。

 ここしばらくの激務で悪夢を見たのだろうか。

 あの姿を見ていたときこそ現実と確信していたが、今となっては夢にしか思

えない。

 動かなくなった兄は、あの日――この公園に捨てられたのだから。

 生きているはずもなければ、幽霊なんて存在がありえるはずもない。

「最悪……」

 からからと回る風車。

 ここにいる子供のどれかのものだろうか。

「なぁ、このかざぐる――」

「おじちゃん!」

 子供の一人が声をあげた。

 子供特有の声の高さと、大きさに青年は思わず開くかけていた口を閉じてし

まった。

 カラカラと風車が回る。

「ねぇ、おじちゃん」

 子供の双眸が青年を見る。

 カラカラと回る風車。

 風は、吹いていない。

「なんで」

 肩を指差されて。

 カラカラと。

「おじちゃん病院にいかないの?

 その子けがしてるからおんぶしてるんでしょ?」

「――なにを、いっ……」

 カラカラと風車。

 ぬるりと頬を這う手。

 ぴちゃりと風車に雫が落ちて。

「……に――」

 

 

「僕はここで死にました。

 お前もここで死にました」

 

 

 みんなここで死にました。

 

 からからまわるかざぐるま

 ちのいろのかざぐるま

 ぼくのしんぞうかざぐるま

 ひとりはさみしいよ

 みんなおいで

 からから

 からから

 かざぐるま

 いっしょにまわそう

 みんなこっちにおいで

 みんなでしにました