昏き世界にて門を守る者がいる。
 その髪は強すぎる青ゆえに黒に見え、その双眸は光も闇も映さぬ
黄昏の眼。
 笑むことも怒ることも、嘆くこともない心失き門番は今宵も訪れる客
人を待っている。
 その細い腕に巨大な鍵を抱いて。
 昏き世界にそびえ立つ門を守り続けている。
「やあいらっしゃい。今回はどこへ行くの?」
 昂揚のない声で紡がれる言葉は、鴉の濡れ羽色をした美しい髪をかん
ざしでまとめた美女へと投げかけられる。一度見れば忘れることのできな
いような美貌。それをもったこの女性を、門番は何度見たことだろう。
 女性はどこか驚いたような表情を浮かべ、門番へと目をやった。
「珍しいな。お前が喋るなんて」
「私だって喋る日はあるよ。いつも黙ってると言葉まで失いそうだからね」
 肩をすくめて笑ったかのように見えるその顔。しかし表情は一切変わら
ないことを女性は知っている。門番は常に同じ表情を浮かべたまま、常に
同じ声音のまま、感情という感情を表さずに生きているのだから。
「どこへ行くの? カエデさん」
「名前まで覚えていたのか」
「常連さんだからね」
 目深にかぶっている帽子を軽く持ち上げる。初対面の際に一度だけ見た
門番の顔は、やはり何十年経とうとも変わることはなく、遠い日のままであった。
 年をとらない――成長もしなければ老化もしない。同じ時間の中だけで生
きる門番は、どれほど多くのものを失ったのだろう。それを知ることはカエデ
には不可能に近いことであったが、それは気に病むほどの出来事でないとい
うことを彼女は理解していた。
 守り続ける門を通り過ぎる人々すべてが同じような想いを抱いているのだろう。
 干渉してはいけない時間もある――この場所を訪れる前に告げられた掟の
言葉を脳裏に画き、カエデは門へと触れる。
「今度は九の世界に行く。肉体を失ってもなお自由でいられる魂とは厄介だな」
「イェソドね。君の事情は知らないけど、予言をプレゼントしようか?」
 門番の言葉にカエデは軽く瞠目した。珍しいことというのは続くものだ。
「あ、プレゼントするけど、その代わりに私の話を聞いていってね」
「……珍しいことばかりが起きすぎるとどこに驚いていいのか分からなくなるな」
「全部に驚くといいよ。氷塊の心は砕くに限る」
「じゃあ、そうしてくれ」
 カエデはかんざしで纏めていた髪を解いてその場に座り込む。門番は再び
帽子を目深にかぶると、謡うように言葉を紡ぎ始めた。それは何度もここを通っ
た彼女自身も聞いた事のない声。
 かつて、門番が門番ではなかった頃に持っていた本人の持ち物だろうか。
「私が生まれたのは十ある世界の頂上。一の世界ケテルにあるヒトではない一
族で生まれた待望の世継ぎだった。一族総出で祝った、盛大に祭りを行って、
父も母も嬉しいと笑った」
 ケテル――そう呼ばれた世界は、十ある世界の中で最も高い位置にある場
所であり、同時に最も恐ろしい世界と言われている。
 直接足を運んだことはないが、その世界で誕生した少女と一戦交えたことが
ある。流派なんてものを持たない少女ではあったが、人間とはまったく別の力
を操るカエデをいとも容易くヒザをつかせた奇妙な体をもつ少女。
 そして、それに従属する二人の悪鬼。それらが闊歩する世界を創り上げた
のは、混沌と呼ばれる存在だということを聞いている。どの世界よりも大きく、
どの世界よりも恐ろしい。
 その場所で生まれたというのならば、門番が年を取らない理由もなんとなく
理解できる。
「けれど悲劇はどこにでも訪れる。
 私の一族が住んでいる集落に人間が攻めてきた。物凄い数で、一族の戦
士を皆殺しにする。
 女も子供も老人も関係ない。とにかく殺す、殺す、殺す」
 淡々と告げられる門番の過去は、言葉を聞いているだけで口の中に血の
味が広がるようだと思った。ケテルに住む人間はよほど戦が好きらしい。
「父と母は私だけを逃がした。
 私がいれば、何かを封じることができるからと。その何かを知る前に私は
死を知った」
「死んだのか」
「違う。いや、間違ってないね。肉体が死んだんだ」
 黄昏の瞳でどこまでも続く闇を仰ぐ。
 肉体が死んだというのならば、この場にいる門番は魂だけの存在だという
ことか。カエデはまっすぐに表情のない顔を見据えた。
「肉体が死んだ私はどうしたものかと彷徨っていた。そうしたら小さな混沌が
現れた。二人の悪鬼を従えて」
「……ほう」
 門番の言う小さな混沌――その正体は、恐らく以前に出会った少女であろ
う。出会う世界によって姿を変える、自由気ままな体を持つ心を持たない少女。
 それはどこか門番にもよく似ていた。
 意思があるのかないのかハッキリしない双眸は特に似ている。
「魂だけになった私を見て小さな混沌は言った。
 カインが門番を殺したから代わりが欲しいと言われた、と。そして私が次に
目を覚ましたときには、この鍵を抱いて、この冷たくも熱い門に背中を預けていた」
 門番の誕生は、あの少女が裏で糸を引いていたのか。それならば、この人
選も納得がいく。
 しかし――まだ納得できていない部分があったカエデは首をひねりながら、
「今の話からすると、お前は乳飲み子のころから門番をしてることになるが……」
「……ん」
 門番が帽子を目深にかぶりなおす。
 見た目から判断すると十代の後半にしか見えない体躯は、乳飲み子のもの
とは思えない。もしも成長だけはする体であるのならば理解がいくが、どう見て
も成長しているとはいえない。出会って数十年、変わらず十代後半に見える姿
のまま門番をしている。
 時折り争い事にも巻き込まれるのであるから、戦うのであればもう少し成長し
ないと辛いと思うが――
 カエデの疑問に門番は帽子を軽く叩いた。
「カエデさんは騙せないね。
 この前ここを通った千年王国の礎になるヒト、一之瀬さんは騙されたのに」
「お前は、ほらふくために私を足止めしたのか?」
 呆れたように呟くカエデ。その言葉に門番は巨大な鍵を軽く揺さぶった。
「予言の時間稼ぎだよ。
 ほら、耳を頂戴。カエデさん」
 人の話を聞いているようには見えない門番。自分が思うままに行動しているよ
うにしか見えない自由な門番は、同じ位置から決して動けない不自由な門番。
 その口が告げる予言は十の世界すべてに響き渡る。
「九の世界、イェソドではカエデさんにとって最も大切な人に出会える。
 けれど同時にとても辛い目に遭う。強い孤独に心が折れそうになって、命まで
獣に喰われることになる。
 縁起よくないけど、それでもいくの?」
 必ず当たる予言。
 このままカエデがイェソドへと向かえば、命を失う可能性は低くない。引き返す
ならば今のうちではあるが――
「行くよ」
 力強い眼差しでカエデは門を見据える。
「さすがにこれ以上泳がすのもよくないからね」
 肩をすくめて笑うカエデを見上げている門番は、何も言わずに帽子を深くかぶ
りなおした。
「ほら。門を開けて」
「分かってるよ」
 抑揚のない声で告げて、門番は自らの腹部に巨大な鍵を刺す。ずるずると深
く差し込まれる鍵は、その奥にある鍵穴へとはまったのかカチャリと軽い金属音
が聞こえた。
「はい。いってらっしゃい」
「いってくる」
 小さく手を振って門を開けるカエデ。眩い光は一瞬で消え去り、門が閉まる重々
しい音が聞こえる頃には再び昏い世界に門番が一人で座っている状態に戻っていた。
 腹から鍵を引き抜くと、門番は帽子を外して闇を仰ぐ。
「私の故郷はどの世界だったかな」
 思い出せないほど昔の記憶。
 思い出そうとしない内に忘れたのかもしれない。
 そんなことを考えていると、ふいに頬を伝う雫に気がつく。
「あぁ。涙、久しぶりだね涙。
 涙を思い出したよ、それなら故郷も思い出せるよね。思い出せるよ」
 独り言を続けるのは次の客人がくるまでの間。恐らくそろそろ来るだろう、空気
が震えて足音が聞こえる。門番は思い出すことのできない故郷の姿を瞼の裏に
描いて目を閉じる。
 次はきっと千年王国の人だ。
 一から七の数字をその身に持つ特別な人間が来る。
 近づいてくる足音に門番は、静かに目を開いた。

「いらっしゃい。今度はどこへ行く? 七瀬さん」

 答えは一言、短く一言。

「間違いなく、僕を元の世界へ帰せ」