鼓動が聞こえる。
 どこかの誰かの命の鼓動。
 誰かが欲しかった音。
 誰かが捨てた音。

 聞こえる音は誰かのもの。



「……また、やったの?」
 暗い部屋に光が差し込む。
 その光に驚いたように顔をあげる少女。その口元には赤い血糊がべたりと。
 白い歯をも赤く染め上げる鉄臭い血の雫は、ぽたりぽたりと、翡翠色のカー
ペットを赤黒く染め上げている。いつでも染みて、いつか凝固する。そしてその
上からさらに血の雫が滴り落ちる。
 痩せ細った少女の足元には持ち手を赤く染めたカッターナイフが一本。
 もうじきこれも使い物にならなくなるのだろう。
 何回も、何回も折られた刃は短くなって、あと一度使えばゴミとして廃棄され
る――まるで、この子の感情の欠片のように。
「シュウちゃん? ダメだよ、ノックしないと」
 どこかぎこちない笑みを浮かべる少女の頬が引き攣る。人形が浮かべる笑
みのような、感情の伴わない笑顔は、シュウの胸を鋭く貫いた。
 愛らしい唇から血が滴り落ちる。
「ナツキ……」
「シュウちゃん。ほら、乙女の部屋から出て行ってよ。シュウちゃんは男の子な
んだから」
 笑顔のまま。
 感情のない笑顔のまま外へ押し出そうと手を伸ばす。
 血がべったりとついた赤い手。
 大きく開いた傷口からは、細い手首に流れる血管が脈打つたびに赤い血を
吐き出されている。治癒していない傷口がいくついくつ並ぶ中、一つだけ口を
開けた腕の切り傷。
 何年もの間、同じことを繰り返しているのだろう。
 シュウ自身も覚えてはいない。気付いたらナツキは自らの腕を――腕だけ
ではない。足も、胸も、腹も、自分で傷つけられる場所の殆どを自ら切りつけ
ていた。
 理由は知らない。
 悩み事があったのかも――
「ナツキ、明日は一緒に外へ行かないか?
 お前の好きなバザーやってるんだ」
「バザー?」
 一瞬だけ、ナツキの表情が昔のそれになる。二人で笑い合えてた頃と同じ表情に。
 けれど、それは束の間のことだった。
「行かない。あたしはお部屋でのんびりしてるから」
 すぐに人形の微笑へと戻ってしまったナツキは、クリーム色をした扉を閉ざ
してしまう。そのすぐ後に聞こえる音は、鍵をかける音なのだろう。
 いつのにか取り付けられていた鍵。
 互いに自由に行き来していた部屋は、気付けば一方通行のものになっていた。
「……ナツキ……」
 肩を落として、階段を下りる。
 居間では父と母の話し合いの声――否、話し合いなんてものではない。た
だの罵りあいでしかない。酷く精神を病んでしまったという自分の娘を受け入
れられずに、互いを責めることで自己を保とうとしている。
 ただ、それだけ。
 シュウは長いこと使われていないナツキのブーツを手に取った。
 お気に入りのブーツキーパーが入れてあるそれは、数年前に彼女が友人たち
と行ったバザーで手に入れたもの。あの時のナツキは、忙しいながらも明るく日々
を過ごしていた。
 将来のためだと日々を大切に生きていた――そう思っていたのは自分だけであっ
たのだろうか。気付けばナツキは笑うことも、泣くこともなくなった。
 暗い部屋の中に篭って自らを傷つける日々。
 混乱した両親が何を彼女に言ったのだろう。
 合宿に行っていたシュウが帰宅した日、家の中は血の海だった。
 怯える母に話を聞けば、父がナツキを部屋からムリヤリ引きずり出した途端、絶
叫を上げて台所の包丁を自らに突き刺したという。
「ナツキは、何がしたいんだろう……」
 呟きながら壁にもたれかかる。
 冷たい壁には、今でも血塗れのナツキが残した手の跡が残っている。
「……俺にくらい、何か言ってくれたって……」
 鏡に映る自分の顔。
 目の当たりが似ているとよく言われる。けれどそれ以外は殆ど似ていない。
 双子なのに――?
 二卵性の双子として生を受けた二人は成長すればするほど顔は別のものになり、
考え方まで別の物になった。気付けばナツキは、海外に渡るために勉学に励むよう
になり、シュウは中学から始めた部活に夢中になった。
 二人で過ごす時間は日々短くなり、やがて双子なのに、血の繋がった姉弟で、生
まれる前から一緒にいたはずなのに。まるでただの他人であるかのように振舞って
いた。
 あの頃にもっと近くにいれば、気付けたのかもしれない。
 異変を感じることが出来たのかもしれない。
 そう思うと遣る瀬無かった。
 まるでナツキがおかしくなってしまったのが自分のせいと言われているようで。
「……よし。もう一度……」
「シュウ、悪いんだけど。塩買ってきてもらえる?」
 立ち上がったシュウの視界に母の姿が映りこむ。断るのは容易いけれど、ここで
母の頼みを断ればそのしわ寄せがナツキに行くのだろう。
 二人のストレスの矛先は、互いであり、同時にナツキである。
「分かったよ、母さん」
 苦笑を浮かべて外に出る。
 点々と続く赤い血。
 これは、ナツキが病院へ運ばれる前に自分で歩いた証。
 這うように歩いた彼女は、まるで何かから逃げているようだったと――
「ナツキは何から逃げたいんだ?」
 大きな血の点。小さな点。それらを足で踏みながら歩く。
 べったりと血の跡が残るポスト。
 あの日から一度も使われていない車。
 まるで時間があの時で止まってしまったかのように。
 シュウは空を仰いだ。
 薄曇の空。
 もうじき雨が降るのだろう。
 早く行って、早く帰ってこないと。
 ナツキに聞かないと。


 心臓の音。
 トクントクン。
 生きようと必死な音。
 誰かの音。
 欲しい音。
 外には雨が降ってるよ。
 不規則な音は、冷たくなる前の心臓に似てると思わない?
 冷たい、冷たい。
 寒いね。
 凍えそうだよ。
 今は夏なのに。
 不思議だね。
 生きる音と死ぬ音が混ざり合う瞬間って。

 すごく、不思議。



 あぁ――まただ。
 家の中が真っ赤だ。
 横たわっているのはナツキ。今度はどこを切った。
 今度も助かるのか。
 怯えてないで救急車を呼んでくれ。
 命が危ない。
 ナツキが死んでしまう。
「死にたいならとっとと……とっとと死ねばいい!!」
 なにを言い出すのだろうかこの父親は。
 シュウは目の前の出来事が理解できずに瞠目した。
 自らの娘に死ねばいいなんて。
「いい年して親を頼って! 自分の食い扶持も稼げないなら死んでしまえ!!」
 何を。
 何を。
 

 ナニヲシタ?


 父の手が握る包丁。
 滴り落ちる血は見慣れた色をしている――否、見慣れた赤黒い血なんかよりも、
ずっと鮮やかな赤を銀色の頭身に纏わりつかせて。
 腹を抑えてうずまっているナツキが何かを呟いているのが分かった。
「死にたい、けど死ねないの……」
 ブツブツと呟かれる声。
 虚ろな眼差し。
 溢れ出る血潮。
 土気色の手足。
 呼吸音が嫌に耳障りだ。父が切りつけたのは腹ではない?
「あたしは……死ねない。まだ、死んだら……いけない」
 立とうと足に血から入れれば、腹部の傷口から夥しい量の血液が零れる。畳が赤
く染まって、部屋の中が鉄のにおいで充満して。
 ふと天井を仰げば、こんな高いところにまで血が付着している。よほど勢い良く噴
出したのだろう。
 それもそのはずだ。
 塩を入れたビニール袋を持っていたシュウの手から力が抜ける。
 細い首から血を吹き出させるナツキの姿を凝視して、血の気が引いて行く自分を疑う。
「なんで……」
「あたしと、シュウちゃんは繋がってるから。
 あたしが死ぬと、シュウちゃんも死んじゃう……あたしは、あの暗い部屋に閉じこもっ
て、あたしをシュウちゃんにあげることが出来ればそれでよかったの。
 あたしはダメでも……シュウちゃんだけでも、生きて、くれれ……れば」
 ナツキは何を言っているのだろう。
 幻覚を現実のものと思ってしまった?
 そこまで彼女は追い詰められていた?
 いったいナツキの身に何が起きている。
 人体の構造としてありえない方向へと曲がった腕。大きく開いた無数の傷口――ま
るで、化物の口のようだ。
 生気のない虚ろな眼差しが父へと向けられ――
「お父さんだって……シュウちゃんが、いればいい。って……シュウちゃんいれば、あ
たしいらないって……言った……じゃない」
「何の話……父さん……」
「バカなことを言うな!!」
 シュウの言葉を遮るように父が叫ぶ。
「アイツはもう何年も前に……母さんと一緒に――」
「父さん?」
 シュウの言葉など耳に入らないのかように父は叫ぶ。その言葉の一つ一つが紡ぎ
だされるたびに、ナツキが悲しそうに目を細めるのが分かった。
 血の滴る唇が辛そうに噛み締められて。
 ふいに、四肢の力が抜けるのが分かった。
「あ……あれ?」
「シュウちゃん……ごめんねぇ……シュウちゃぁん……」
 その場で泣き崩れるナツキ。
 奇妙な音がする。
 規則正しい音と、不規則な音。
「母さんとシュウは何年も前に死んだだろう!!!」
「違うっ!!」
 泣き叫ぶナツキの双眸が見開かれる。
 感情を宿した瞳は、まっすぐに父を――そしてシュウを見据えると、とても静かな声
音で告げた。
「お父さんが……殺したんじゃない。
 お母さんが別れてくれないから……って。庇ったシュウと一緒に……お父さんが!」
 何のことだろうと。
 覚えがない。罵りあいはしていたけれど、それはナツキの精神状態を理解できない
両親の責任の擦り付け合いであって、離婚なんて話には一切なっていないと思って
いたのに。
 頭がぼんやりとする。
 どうすればいいのか分からない。
 ただ――音だけが鮮明に聞こえている。
「……どいつもこいつも! オレの邪魔ばっかしやがって!」
 視界が薄れる。
 死を覚悟しているのか一歩も退かないナツキ。
 その唇が何か言葉を囁いた。
「……ナツキ」
 血塗れの包丁を振り上げる父。
 がら空きになった懐へと飛び込んで、ナツキが何かを囁いて。
 二つの言葉を聞いて、ようやく意味が理解できた。
――ゴメンネ、魔法が解けちゃった――
 ずるずると体の力を失って倒れこむ父。殆ど意識がないのかナツキは、その体を乗
り越えて蹲っているシュウへと近づいた。
「シュウちゃん……ごめん……もう……」
 今にも泣き出しそうな顔。
 どうすればいいのか分からない。
 それはきっと――ナツキも同じだったのだと思う。
「双子だから……生まれる前からずっと二人でいたから。二人は、一人だから……」
 息も絶え絶えに呟く。
 規則正しい音と、不規則な音。
 ようやくシュウは気付いた。
 規則正しい音がナツキの音であったことを。
 不規則な音は自分。いつ止まるかもしれない音。
 それを暗闇の中で守っていたナツキ。どんな原理とか、そんなことは分からないけれど。
「あたしが……シュウちゃんに……命を、あげ……られてたら……よか……っ……」
「ナツキ……ありがとう。
 全然気づいてなかったのに。俺……ナツキのこと、全然分かって……」
 シュウの言葉にナツキは今にも消え入りそうな顔で微笑んだ。
 優しい、お姉ちゃんの笑顔で。
「あたしとシュウは一つだけど、シュウとあたしは別々だから。いいのよ……いいの」
 規則正しい音が。
 心地良い音が。
 生きようとしている音が。
 目の前を赤く染める鮮血。
 やがてこれも見えなくなるのだろう。
 鮮明に聞こえるのは雨の音だけ。
 不規則な音二つ。
 やがて鳴り止むこの音。
 ふと視界に誰かが映った。
「シュウ……? ナツキ? ……あなた……?」
 母が、座り込んでいた。
 何かがおかしいと思ったんだ。
 母は――こんなに小柄ではなかった。
 父が二つにしてしまったからだ。上半身を、この家の下に。下半身をどこか遠くへ。
 じゃあ――シュウの体はどこに?




「お前知ってるか? 三丁目の家で殺人事件があったらしいぜー」
 子供が笑う。
 いつもの通学路。
「知ってる? 三丁目の殺人事件で、母親の体は見つかったらしいけど」
 様々な人が通り過ぎるこの場所。
 色んな音が聞こえる。
「長男の遺体も、長女の遺体も見つからないんですって! 怖いわよねー」
 規則正しい音。
 生きている音。
「本当なんだ!! 息子の死体は……ずっと風呂場においてあったのに!!」
 ずるずると。
 ひたひたと。
 憎悪の絆で結ばれた二人の血を混ぜた子供。
 哀れな双生児は手を繋ぐ。
「けどね、なにもないんですよ? 真面目に話をしてくれますか?」
「だから――本当に……っ!!!」


――あたしとシュウはひとつだから――
――俺はナツキとひとつでいたいよ――


「え、なにが……え?!」

 膨れ上がる腹に瞠目する若い警官。
 それは父とて同じだったことだろう。
 まるで妊婦のような腹になった父の頭は誰の声が響いていたか。
 その腹を突き破る手は、誰のものだったか。
 答えは――――


 床に転がり落ちた、心臓だけが知るのだろう。
 二つの心臓を一つに繋いだいびつな心臓が。


 誰かの命。
 誰の命。
 欲しいから。
 一つになりたいから。
 規則正しい音を迎えに行くよ。
 いつでも、どこからでも。
 その心臓が欲しいから。