―月の瞳―


 ワイングラスの向こうに見える空。
 夜空に瞬くは満天の星。都会とはいえども、この絶景は素晴らしい――
まるでプラネタリウムにいるようだと、このマンションに引っ越して来た時か
ら思っていた。
 辛い仕事を終え、混雑した電車を降り、暗い夜道を一人で歩いて帰る。そ
うしてようやくたどり着く、自分だけの理想郷。
 美しい星空と、自分の趣味に合わせた内装。
 薄暗いブルーの明りは海の底を思わせ、時折り揺れる白い光は降り注ぐ
月の光のよう。
 今宵も外には月が形を変えて爛々と輝く。
 彼女は、崩れた化粧を落としながら鏡を見る。鏡に映りこむ月――丸い、
丸い、まんまるの月。
 化粧をしていれば美しいその顔から血の気が失せた。
 アイラインの黒が、シャドウの青が、溶けて混ざり合いファンデーションに乗
る。まるで隈取のような顔をしていることに驚いたのではない。もっと、もっと
別のことに驚いた。
 丸い月。
 兎のような形をした黒点が見える。
 金色の白。
 この光を宿した双眸が見ている。
 どこかで。どこから。
 彼女は息を呑んで立ち上がった。
 その手にはクレンジングのボトルを握り締めて。
「いい加減に出て行きなさいよ!!」
 仕事で疲れている両手に鞭打って投げれば、最近購入したばかりのアン
ティークランプを砕いて、星空を模したカーペットの上に落ちる。
 気に入っていたランプの破片。掃除しなければ――飼い猫が破片を食べて
しまっては大変だ。頭の中でグルグルと音が廻る。
 酷く歪んだそれは、音楽の音色ではない。ただの雑音でしかなかった。
 それは――そう。
 街で聞こえる幾多もの話し声のような。
 学生時代に嫌でも耳にした下世話な話のような。
 興味もないことを語るその口を、その声を、重ねて記憶してしまった脳が騒ぎ
出す。耳が痛い、吐き気がする。早く寝なければ、明日も仕事があるというのに。
 化粧をまだ半分も落とせていないというのに。彼女はカーペットと同じ星空模
様のソファへと身を横たえた。
「……なんで……こんなことになっちゃったんだろ……?」
 ぽつりと呟くのは、いつもと同じ言葉。
 希望に満ち溢れていたあの時代はどこへいってしまったのだろう。
 共に夢を語っていた仲間はどこへ行ってしまったのだろう。
 学生時代の思い出を振り返る内に、彼女はながいこと学生時代の仲間と連
絡を取っていないことに気がついた。そして同時に――学生時代は最低限と
して送っていた年賀状すらここ数年出していない。
 それだけではない。
 最後に実家に連絡したのはいつだっただろうか?
 連絡用に置いてあるファックスが最後に動いたのが半年前。それも仕事の
件でかかってきたきり。私用での連絡なんてメールすら来ない。
「……やだな……こんなの」
 じわりと涙が滲んで。
 若さを感じることの出来ない目元を伝っていく。
「私は……」
 数ヶ月前まで付き合っていた恋人がプレゼントしてくれたクッション。アロマ
テラピーを勧めてくれた彼は、気分を落ち着かせてくれるクラリセージの香り
のするクッションをくれた。色は彼女の好みに合わせた濃いブルー。
 それに顔を埋めてすすり泣く彼女。
 ここのところ、毎晩同じようなことをしている。
 恋人と別れる前は泣き言を聞いてもらっていたけれど。その恋人との連絡
を自ら絶ってしまい、謝罪しようにも勇気が出ないままズルズルと時間だけが
過ぎてしまった。
 鳴らない携帯電話には、今でも彼のアドレスが残っているというのに。
「うぅ……みっともない」
 鼻を啜って、目を閉じる。
 きっと酷い顔をしている。けれど、それを確認する気力も出ない。憂鬱な気
持ちと、気だるい体で横たわって。早く心地良い睡魔に抱かれてしまえばいい
のに――
 こんな気分ではせっかくの月だって――月?
「……!! ま、まだ……いるの?」
 もうあの時間は過ぎてるのに。
 それでもまだ聞こえる声。
 月の光を宿した双眸と、涼やかな声と。
 昔を思い出させる幼い容貌。
 月のキレイな公園でであった年若い少女。その姿が脳裏を過ぎった。
「し、しつこいのよ……しつこいのよ! なんで、なんで……!!」
 グルグル廻る。
 声が聞こえて、手に感触が蘇る。
 月がとても美しい晩。仕事に疲れて公園で休憩して、出会った少女は希望に
満ち溢れて笑顔で夢を語った。そのための努力をしているといった。
 バイトをしてお金をためて、その学校へ行くのだと楽しそうに語っていた。
 その姿が――その言葉が――
 あまりにも似通いすぎて目を放せなかった。放せたらば良かったのに。
「なんでこんなにしつこいのよっ!!」
 クッションを抱き締めて叫ぶ。
 薄暗い部屋。漂うのは、ワインの香りだけ。
 女性は顔をクッションに埋めたまま耳を塞いだ。
 何も聞こえないように。何も見ないように。


――アナタガ見ナクテモ、ミンナハ見テルモノ――




 夜空のキレイな公園。
 夏休みに入れば自由研究のためにと、天体望遠鏡を抱えた父子をよく見か
けるようになるだろう。そんなこの近所の風物詩を眺めて何年が経ったか。そ
ういったシーズン外でも夜空がキレイなことは変わりない。
 彼女は仕事に疲れるたび、人間関係に嫌気がさすたびにこの公園を訪れていた。
 ベンチに一人で座って夜空を眺める。時にはガラの悪い若者が近寄ってくるこ
ともあったけれど、彼らは何をせびるでもなく冷やかしてそのままどこかへと行っ
てしまう。
 冷やかしの言葉に反応するほど若くもなければ、元気でもない彼女はいつだっ
て冷静な横顔で夜空を仰いでいた。
 そんな日常を壊すのは一人の少女の存在。
「お姉さんも星が好きなの?」
 どこかの高校の制服だろうか。清楚なイメージを抱かせる年若い少女は、とて
も愛らしい笑顔で彼女の日常へと飛び込んできた。
 名を星崎小夜というらしい。
 小夜はいつでも気持ちのいい笑顔を浮かべ、カバンの中に詰め込んだたくさん
の本を見せてくれた。そのすべては薄暗い公園であったため把握することは出来
なかったけれど。
 それでも小夜がソレを好きだという気持ちはヒシヒシと伝わってきた。
「天文学者になることが夢なんです。小さいときから星が好きで、好きなことを職業
にしたいなって」
 嬉々として告げる小夜の言葉に懐かしいものを感じる。
 昔、とても昔に同じ言葉を聞いたことがある。その子は、こんなにも喜びに満ちた
顔をしていただろうか? こんなにも、希望に瞳を輝かせていただろうか。
 月の如く美しい双眸を輝かせて。
 両手から溢れんばかりの夢を語っていたのだろうか。
「私もこの公園から見る夜空が好きなんです。
 小さいときからずっと、この公園で星を見てて……」
 うっとりした横顔。
 社会の汚い部分の半分も知らない幼い横顔。やがては汚れて、爛れてしまうと
いうのに。刹那の夢を永久と信じる瞳。
 月の瞳はこんなにも美しく輝いている。
 遠い昔の――
「星崎……サヤ……ちゃんだっけ?」
「はい。サヤって呼んでください」
「サヤは、本当に天文学者になれるって信じてるの?」
「信じてますよー。みんなはもっと無難なのにしとけって言いますけど、やっぱり自
分の人生ですし、やりたいこととか好きなことをしたいです」
「そう……けど、社会ってそんなに甘くないわよ。
 夢を見るのは、大学生までにしといた方がいいと思うの。波に乗れなかったら一
生つまらない人生になっちゃうわよ」
「……そうなんですか?」
 微かな不安を宿す双眸。それでも月の光のように美しさは消えずに。
 失くした過去を思わせる眼差しに、胸が痛くなるのは気のせいではないのだろう。
胸の奥から湧き上がる感情も、醜い感情の正体も、全てが気のせいではないのだ
ろう。
 自分にはないものをもった少女。
 自分とは違う時代に生まれた少女。
 同じものだってたくさん持っているはずなのに。
「けど、私は天文学者を目指したいです。そうじゃないと……生まれてきた意味がな
くなっちゃうっていうか……自分がなりたくないものになってつまんない人生送るん
だったら、ずっと夢を見て辛い人生をおくりたいです」
 田舎で過ごした学生時代。
 小夜と同じ夢を抱いて上京したことを思い出す。
 こんなにもいい笑顔で夢を語れていただろうか。
 必ずかなうと信じて努力してきた日々は、記憶の大海に沈んでどこへ消えていた?
「そういえばあなたは――」
 忘れていた嘆き。
 忘れたかった絶望。
 月明かりに全てが暴かれた。
 月の瞳をした少女に暴かれた。
 同じ夢をもって、同じ勉強をして。
 時が違えば同士として友になれたかもしれない二人。
 今の二人を繋ぐのは冷たい腕でしかない。
「な、なに……を……?」
「つまんない人生よ……辛い人生よ……若造の分際で夢語ってんじゃないわよっ!
 何よ、私たち社会の歯車は夢を諦めたダメな大人だっていうの? 私だって天文
学者になりたかったわよ! けどね、知ってる? 夢じゃご飯は食べられないのよ。
アンタはまだ親が元気だからわかんないでしょ? 親だって年取るのよ、働けなくな
るのよ! いつまでも子供の面倒見てられないのよ! 夢を諦めないと生きていけ
ないのよ……そんなことも分かってないのに夢を語らないでよ!!」
 衝動が脳を揺さぶる。
 疲れていた腕のどこにこんな力が残っていたのだろう。白く、細い首を力の限りに
絞めて――今の仕事につくより少し前のことを思い出した。
 故郷の父が倒れて、看病疲れで母が亡くなって。
 今は兄が父を看てくれてはいるけれど。このご時世自分のことで手一杯だというの
に、年老いた父の入院費を払うために夢を諦めたあの日。
 けれど両親を恨んだ日は一度としてない。
 それまで面倒を見てくれた。星を見て喜ぶ自分のためにと、夏休みに毎晩外へと連
れ出してくれた優しい父と、夜食を持ってきてくれた母を心の底から愛しているからこ
そ、夢を諦めた。
 この決断に父は泣いていた。
 何度も何度も謝って。それだというのに――
 この年若い少女は、なんと言った?
「生まれてきた意味なんて……何も知らない子供が探して何が見つかるのよ。
 夢を諦めた私にだって生まれてきた意味くらいあるわよ!! バカにしないで!!」
 涙が止まらなかった。
 今まで堪えていた全ての感情が爆発したようで、自分で自分を止められない。
 腕に圧し掛かる少女の体重が重く感じても、その顔色が酷く悪くても。それでもこの
両手は、少女の首を絞めることをやめなかった。
 感情のままに叫んで、感情のままに少女の頭を揺さぶって。
「何も分からないのに偉そうなこと言わないでよっ!!
 夢を諦めて何が悪いのよ! 私は星を捨てたんじゃない! 天文学者にならなくて
も星はずっと見ていられるから……見ていられる……っから……」
 嗚咽混じりに泣き叫んだ。
 頭の中がグチャグチャで――学生時代に友人と酷い喧嘩をしたのを思い出した。
今では絶対にする事のないような失言で喧嘩をして、半年の間はきまずい雰囲気を
漂わせて、周囲を困惑させた。
 今では、ありえない光景。
 同じ夢を持った仲間。誰も夢を叶えられたとは言わなかった。
 生きることに精一杯で、夢なんて振り返れなくて。
 それでもきっと、星を見ているのだと思う。
 どれだけ自分たちが変わってしまっても、醜く歪んでしまっても。
 星空は変わらずに見下ろしている。
 変わるのは――自分だけ。




 窓の外、月が丸い。
 泣き腫らした顔でゆっくりと起き上がる。
「……小夜……」
 同じ夢を持っていたあの少女。動かなくなったことに驚いてそのまま逃げてしまった
けれど。救急車だけは呼んで、そのまま逃げてしまったけれど。
 こうして毎晩同じ時間帯に出てくるということは、助からなかったのだろう。
 この手が殺してしまった若い命。
 病床の父に知れたらどれだけ悲しむだろうか。天に昇った母はどのような気持ちで
見下ろしているのだろうか。
 グルグル廻る。
 月がきれい。
 月の瞳が――近い。
「ごめんねぇ、小夜。私が夢を諦めたからって、あなたに時間がまだあるからってぇ…
…嫉妬しちゃだめよねぇ……大人失格だわ。最低……」
 カラカラと窓を開ける。
 恋人の好いていたこの広いベランダ。薔薇の鉢植えは、兄からの贈り物。
 小さな蕾を指先でそっと撫でて、
「ごめんね……小夜」
 自らが摘んでしまっただろう若い夢を想った。
 同時に過ぎるのは自らの罪。罪が罪として父に、兄に知られる前に。自らの命を絶っ
てしまえば、二人は今以上に悲しまなくて済むのではないかと。
 仕事で疲れてノイローゼになったと思ってくれればいい。
 貯金はそれなりにある。それのすべてを兄に託す手紙を書いて、夜空に消えよう。
 それしかない。
 それしか――
「……月がきれい……小夜の瞳みたい」
 夜空が見えるようにと購入したマンション。
 両親を招いて引越しパーティーをした。友人を招いて勉強会をした。
 夏の大三角形を見た。冬の大三角形も見た。
 今でも埃をかぶることなく使い続けられている天体望遠鏡は、恋人との思い出の品。
 全てと決別するようにフェンスを乗り越え――


 月の下で小夜が笑う。
 こっちにおいでと手を伸ばす。
 月の瞳で微笑んで。
 とてもきれいな顔。
 若い夢を宿した眼差し。


 なんて。


 なんて。


 なんて美しい星だろう。


 満天の星空に瞬くのは小さな夢。
 大きく光って、そして死んでいく。
 誰にも気付かれない夢もまた――同じように。





 月に抱かれてる中、とても幸せな夢を見た。
 真っ白な場所で、兄が来ていた。友人たちも集まって、それだけじゃない。
 恋人まで来ていてくれて。
 みんな心配そうに顔をのぞきこんでいた。
 名前を呼んでくれて。何度も何度も来てくれて。
 久しぶりに安らいだ気がした。
 夢なのが惜しいくらいに。学生時代に戻ったような気持ちでみんなの声を聞いていた。
 今――なにをしているの?
 今――どんな仕事してるの?
 今――みんなは幸せ?
 私は幸せだよ。
 みんなが来てくれたから。もう二度と会えないって思ってたけど。
 会えて――凄く嬉しい。

「お姉さん」

 ふいに聞こえた声。
 動かない体で振り返ろうと首を動かす。みんなが少し驚いたように声をあげていた。
「お姉さん」
 もう一度、呼ばれて。
「サ……」
 必死に声を絞り出した。
 どうしても伝えたい言葉があるから。
「お姉さん。頑張って!」
 涼やかでかわいい声。
 若い夢を抱いた月の瞳。
 言わないといけない言葉があるから。
「サ……ヤ。ごめ……んね」
 やっと伝えられた。
 これで心残りなんて――力尽きそうになる手を、小夜が握った。
 体温は生きた人間そのもの。優しいぬくもりに涙が溢れそうになる。
「死なないでください。お姉さん! 私、お姉さんにたくさん聞きたいことがあるんです」
「親父より先に死んでどうすんだよ!」
 兄の声と小夜の声が混ざる。他にたくさんの――友人たちの声。
 その中でも消えない力強い小夜の声。
「お姉さん!!」
 重い瞼を持ち上げて。
 眩い光に包まれた気がした。
「お姉さん!!!」
 かわいい小夜の顔がすぐ近くに見えて。
 その後ろで兄や友人たちが声をあげた。何が起きたのかわからなかったけれど、ぼ
んやりと見える景色から判断すれば、ここは病院なのだろう。花瓶には兄の好きな薔
薇の花と、恋人の好きなカスミソウが同居して、花束のようになっている。枕元に置い
てある星の図鑑は友人たちの気遣いだろうか、大学生時代にインフルエンザで休んだ
時を思い出す。
 一気に時間が逆流したような気分だった。
「私……?」
 まだぼんやりしてる頭。けれども覚えている、自宅のベランダから飛び降りたことも、
小夜を殺めてしまったことも。
「兄さんがどうしてもお姉さんに会いたくて、家のほうまで行ったらお姉さんが倒れて
たって……ほんと心配したんですよ!」
「にい……?」
 顔をあげると、恋人が苦笑していた。
 そういえば苗字は星崎だったか。二人が兄妹とは知らなかった彼女は、泣きなが
ら笑っている小夜の頭を撫でていた。そうしていると、ふいに兄が大きな手で彼女の
頭を乱暴に撫でた。
「ったく……心配させんなよ! お前は昔っから……ったくよ」
 声が震えているのは気のせいではないだろう。母が亡くなった時も兄は強がってい
たけれど、声だけが震えていたことをよく覚えている。
「もうすぐ誕生日だからーって準備してたらいきなり入院なんて、ほんっとびっくりした
んだからね!」
 友人たちの声。
 そういえば誕生日が近かったか。
 そんなこと、ずっと忘れていた。
 呆然としている彼女の前で小夜や、兄や、恋人。そして友人たちは涙を滲ませた顔
で笑っていた。口々に助かってよかったと言ってくれた。
「……私……」
「お姉さん」
 小夜が笑う。
 月の瞳は濁ることなくきれいままで。
 よく見れば恋人とよく似ていた。
 だから――惹かれたのだろうか。
「私の勉強を見て欲しいんです。
 そのついででいいのでー、兄さんとも話してあげてください。兄さん、お姉さんがいな
いと淋しくて泣いちゃうって煩いんですよ」
「お、おい! 小夜!!」
 笑い声が響き渡る。
 いいのかな――? ふと思う。
 それを確かめるように小夜の手を握って――
「私なんかでいいの?」
「はいっ」
 とても明るい笑顔で返事をくれる。
 未来への夢に満ちた眩しい眼差し。
 月の瞳はまっすぐにこちらを見ていて。
「お仕事で疲れていない日に一緒に星の話もしましょう」
「そのときは俺たちも誘ってくれよ!」
 友人たちと学生時代みたいにはしゃいで。
 まるで夢見たいだ。
「……みんな……」
 涙が零れて。
 胸が痛い。心臓の鼓動が生きてると騒ぐ。
「ありがとう……」
 小夜は生きていて、友人たちはここにいて。
 自分もここにいた。
「あ、そうだ。お姉さん」
 小夜が小さな声で耳打ちをする。

「お姉さんの名前聞いてませんでした。あ、お姉さんの口からってことですよ」

 小さな耳へと唇を寄せて。
 かつて呼ばれていた名前を、罵声で呼ばれる苗字ではない。親愛の情で呼ばれる
名前を教える。
 教えた瞬間に微笑む小夜の顔に安堵を覚え、深夜のピクニックを提案している友
人たちを横目に、牽制しあっている兄と恋人の声に懐かしいものを感じながら。

「それじゃあ次からそう呼びますね。
 ――ソラさん」
「ソラ! 久しぶりに天体観測しようぜー!」
「ソラー! お前にぴったりの見合い相手が」
「ソラ、ソラは俺のこと嫌いになったとかじゃないよなっ!」
 たくさんの声が聞こえる。
 一つの夢は諦めてしまったけれど。新しい夢が胸に芽吹いたのは気のせいではない。
 若い夢が花咲けるように。あの星のように光れるように。手伝うのも悪いことじゃない。
 あの月の瞳が宿す未来への夢が、枯れてしまわないうちに。
 彼女は薄く微笑んで目を閉じた。声はいつまでも聞こえ、久しぶりにみんなで見る
夜空は、さぞかし美しいのだろう――今宵の夢に見れればいい。


「ソラはほんとに星が好きだな」

「うん!! だーいすきっ」