―雨―

 雨が降る。
 激しい、激しい雨。
 どれだけ必死で走っても、走っても。
 この足は前へと進まない。
 ぬかるんだ泥が足を掴んで離さないから。
 激しい雨が降る。
 頬を叩く冷たい雫。
 それはまるで弾丸のようにすら感じられて。
 彼はただただ顔面を蒼白にして走りつづけることしか出来なかった。
 激しい雨が降っているというのに傘も差さず、ただ夢中で走る。
 息が切れて今にも倒れそうだ。
 全身を染める赤は、服の色ではない。もっと、もっと恐ろしいもの。
「っ……はぁ、はぁ!」
 ぬかるんだ泥に足をとられ、その場に倒れこむ。強かに打ったひざが酷く痛んだ。
けれども彼は必死で立ち上がろうと足に力を入れる。
 その姿を嘲笑うかのように激しい雨は彼を叩く。
「はぁ……はぁ、はぁ。あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!!!」
 逃げれないことを悟ったか彼は、突然頭を抱えて叫び声をあげ始めた。どうしよう
もないほどの焦燥感と、右の脇腹を襲う鈍い痛み。
 震える右手で触れてみれば、男らしい手というには少々華奢な手の平を真っ赤な
血が染め上げる。
 けれどもその赤は、すぐさま激しい雨に流されて消えてしまう。けれども彼はその
色を忘れない。忘れられるはずがない。
「うわあぁ、うああぁぁぁ!!!」
 手に残る生々しい感触。
 目に焼きついたあの光景。
「逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ!!」
 泥を掻き分けて立ち上がろうとする。
 しかし足に力が入らない。慌ててたとは言えど、この悪天候の中でこの道を選ん
だのは失敗だった。体力ばかりが削られ、何も考えられない、何も出来ない。どこ
へも行けない。
「はぁ、あぁぁ……あぁぁぁぁぁぁああぁぁ!!!!?」
 声が濁る。
 鈍い痛みを発し、熱を帯びた傷口から溢れ出す夥しい量の血。それはその傷が
深いものであるということを痛感させる。
 内臓まで傷付いていたのか。それとも傷付いた体で雨の中を走ったせいか。
 喉の奥から込み上げるどろりとした赤い液体に、彼は心底怯えた顔を見せた。肉
の薄い唇を真紅の血が伝う。
「い、いやだ……死にたくない。こんなところで、こんなところで……!!」
 濡れそぼった髪を荒々しく掻き毟る。そんなことをしても何も変わらない――頭の
隅にいる冷静な自分はそう思っていたのだろう。けれども体は、四肢は、そんなこと
に気がつかないかのように冷静さを欠いてがむしゃら動こうとする。
「死にたくない。死にたくない!!」
 声が濁って血の雫を吐く。
 手に残る感触と、焼きついた光景がありえない言葉を紡ごうとしている。
 聞きたくない。
 聞きたくない。
 激しい雨音ですべてを消してくれ。
 お願いだ。
 そのような願いを込めて、彼は天を仰いだ。
 灰色の雲に覆われた空。降り注ぐ大粒の雫。
「……死にたく……」

――俺だって死にたくなかったよ――



「う、うわあああああああああああああああああ!!!!!!!!」


 聞こえた。
 聞こえるはずのない声が。
 雨音に混じって確かに聞こえた。
 いやだやめてくれ。
 力の入らなかった足に無理を言う。震えて立ち上がって走り出す。
 わざとではないと自分に言い聞かせて走る。
 この手で親友を殺めたのは、あの腹を深く貫いたのは。
 何度も何度も刺し貫いたのは。
――先に手を出したのはお前なのに――
 死にたくないから殺した。
 殺されたくないから殺した。
 生きたいから殺した。
 幼少の頃から二人で遊んできた親友を殺した。
 この手で。
 そう。
 初めて出会った日と同じ、豪雨の日に殺した。
 この雨雫を受けるのは、自分一人。
 彼は今ごろ冷たい骸を泥に塗れさせていることだろう。
 だから聞こえるはずなんてない。
 親友の声が、雨音に混じって聞こえるはずなんてない。

――借金で首が回らないんだ――

 聞こえない。

――ごめん……これしか方法が思い浮かばない――

 いない。もう、いない。

――一緒に……死んでくれ――

 殺した。
 刺された脇腹を見て慄いた親友を、刺されたナイフで刺した。
 二人の血が混じったナイフも雨に濡れて、全て流された。
 何もない。
 何も。


「おれは……おれは悪く――――」


 ほの暗い視界に広がる白い光。
 気付けば地面はとても固かった。
 固い地面を雨の雫が酷く叩く。
 飛沫と、クラウン。
 眺めて遊んだあの日々。
 すべてがまるで夢のよう。


 轟音。
 衝撃。
 苦痛。


 一瞬の出来事。
 感覚がなくなるのも一瞬に思えた。
 灰色の空から降りしきる激しい雨。
 最後に聞こえたのは親友の声。

――お前を独りにさせるのが不安で仕方ないんだ……――


 世界が白くなる。
 なにも、きこえない。
 なにも、みえない。
 なにも。




 白い天井が見える。
 窓を叩く雨の雫は弱々しく。
 もうすぐ雨は止むのだろう。
 痛みはあるものの、辛うじて動く利き手を見上げて、彼は酷く儚く微笑んだ。
「生きてる……おれ、生きてる…………」
 涙が頬を伝い落ちて白いシーツにしみていく。
 生きていることの喜びに涙が止まりそうにもなかった。
「……よかった……」
――そうだな――
 聞こえた、声。
 雨の音が激しくなる。
 窓ガラスが割れてしまうのではないかと思うほどに。
「……なん、で……」
 見上げた先にいるのは死んだままの親友の姿。
 夥しい量の血糊を滴らせて。
 薄笑みを浮かべ立っている。
「なんで……おま……え」
 唇が笑みの形に歪んだ。

――お前を独りにさせるのが不安だから一緒に死のう――


「うわああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」



 ――雨はまだ、やみそうにもない。

 

 

※こちらは物書き同盟30分小説に投稿したものです