あの黄昏の街を覚えてる?


「どこへ行くんだレイチェル?」
 藍色の眼差しは静かに注がれる。
 どこまでも続くような茜色の空と、紅に染まる大地を繋ぐ海を。
 その光景をどこかで見たことがあるとでもいうように。
 愁いを孕んだ双眸と、横顔。それを見ていた男は、慌てて頭を振った。
 あるはずがない、ありえない。
 それはありえないのだと。
「レイチェル。お前の門限は過ぎてるだろ」
 ここは塔の屋上、誰もが命を絶つ場所。ここに来れば死者と会う事だって可能。
この少女がそれを知っていたかなんてことは知らないけれど。
「ウロウロしてるとまた怒られるぞ」
 ただひたすら黄昏の空と海だけを見ている少女が何を考えているのか、知れる
ものなら知りたいところだ。キツイ仕置が待っているというのに、眉一つ動かさずに
外を見るその目と、何かを探しているかのような言葉。
「レイチェル」
 何度呼べば振り返るのだろう。
 どこを見ているのか分からないその眼差し。
 何を見ている――?
 この茜色の光景ではないどこを。
「レイチェル、早く戻らないと」
 何を、何を、何を。


「レイチェル」


 腕を掴んで無理矢理振り向かせても。
 その目は遠い場所を。
 西にあるのは、この少女と同じ姿をした存在の故郷だったか。
 売られた子供。
 どこにでもある境遇。
 被験者。
 クスリ。
 一時の眠り。
 目覚めたらそこは楽園かもしれない。
 小さな微笑が腕の中で途絶えて。
 喪失感に同じものを造った。


 模造できないのは心だけ。


「レイチェル」


 呼んでも笑わないこの少女。
 血を吐いても笑うあの少女はどこへいった?
 黄昏の空を空虚な眼差しで眺めるだけの人形ならいらない。

「レイチェル」

 青いワンピース。
 あの少女に買い与えたもの。
 副作用に耐えて生き延びた少女への祝いの品。
 あの微笑はどこへ消えた?

「レイチェル」

 時間がない。
 夕陽が沈む。
 この手を離してはいけない。
 確率を調べる前に現実は前へと進んでしまう。
 どれだけ科学を信じようと、どれだけ根拠を得ようと。
 目の前で起きる事柄の全ては、自らの意思で。
 本能に従うしかない。
 この手を、離したらいけない。

「レイチェル」

 たとえ、振り返らないまがい物だとしても。
 心のない人形だとしても。
 同じ姿をしているだけの、木偶でも。

「レイチェル」

 あの夕陽のように沈むのはやめてくれ。
 二度と見たくない。
 二度と。
 この肌が血の気を失うのも。
 この目が生気を失うのも。
 二度と。

「レイ……」

 繰り返して。
 繰り返して。
 何度でも繰り返す。
 だから。
 だから。
 振り向いてとは言わない。
 消えないで。
 落ちないで。
 崩れないで。
 まがい物でも構わない。
 同じ姿でそこに有って。

「いくな……レイチェル」

 この腕の中に抱き締めて。
 閉じ込めて。
 お願いだから消えないで。
 殺したのは自分だと知っている。
 悔いて、人形を作った。
 罪を重ね、罪を上塗りして。
 罰が何を指すのか分からない。
 生きていること自体が罰なのかもしれない。

「……何を」

 暖かい手が頬に触れて。

「泣いてるの?」

 いつかの日と同じ言葉を言われる。
 黄昏の空は悲しみの空。
 どれだけ泣いても叫んでも。
 やがては海に沈む運命。
 嘆く大人を子供が癒す。
 どこにでもある陳腐な物語。

「泣いてなんかない。お前がいるなら俺は……」

 それでも。
 年を食ったこの大人は。

「私がいると、あなたは?」
「幸せってヤツを信じようと思えるんだ」

 陳腐な日々に陳腐なセリフを並べ立てて生きる。
 自らの罪の証と共に。


 黄昏の街を覚えてるか?
 ここを抜け出して二人で遊んだ日々を。
 お前は、知らない記憶だろうけれど。

「しあわせ……?」

 表情のない顔に少しでも表情が宿ればいい。
 心のない人形がいつか。
 本当に人間になればいい。

 罪深いことばかりを願ってる。

 黄昏に呑まれて願ってる。
 死者と会えるこの場所で。